第25話 記録
医療部門講義室。
昨日の実技訓練とは違う静かな空気が流れていた。
各席には端末が置かれている。
新人達が着席した頃、クロエが教壇へ立った。
「全員揃ったわね」
投影板へ文字が映し出される。
【記録】
講義室がざわついた。
「……記録?」
誰かが呟く。
治癒術式や実技訓練を想像していたのだろう。
反応は薄い。
だがクロエは気にした様子もなかった。
「先に言っておくわ」
「医療部門において記録は命と同等よ」
その一言で空気が引き締まる。
投影板が切り替わる。
【A:Appeal】
【S:Status】
【T:Theory】
【R:Response】
「アルビオン医療部門では基本的にASTR形式を使用する」
クロエは淡々と説明を続けた。
「Appeal。患者本人、あるいは周囲から得た訴え」
「Status。客観的状態」
「Theory。現時点での分析と推測」
「Response。実施した処置と結果」
新人達が端末へ必死に入力している。
だが。
「覚える必要はないわ」
その言葉で何人かが顔を上げた。
そして。
「今日嫌でも覚えるから」
講義室が静まり返った。
◇
場所は実技室へ移った。
患者人形が並んでいる。
「本日の演習は引き継ぎ訓練よ」
クロエが告げる。
「二人一組で対応しなさい」
カナトとアイリスは自然と同じ組になった。
割り当てられた患者人形の前へ立つ。
既に患者への一次対応は別の班が終了させている。
胸部外傷。
呼吸状態悪化。
循環低下。
現段階でも状態は決して良くない。
「まず記録を確認しましょう」
アイリスが端末を開く。
カナトも覗き込んだ。
そして。
二人とも固まる。
【循環安定術式実施】
【魔力回復薬投与】
【経過観察】
「……これだけ?」
カナトが思わず呟く。
アイリスも眉を寄せた。
「術式出力がありません」
「投与量も」
「実施時刻も」
「反応も」
何もない。
患者人形を見る。
確かに循環安定術式らしき反応は残っている。
だが。
「弱い……?」
カナトが呟く。
そしてすぐに首を振った。
「いや、違う」
「違う?」
「弱いのか分からない」
アイリスもすぐに意味を理解した。
確かに術式はかかっている。
だが。
元々低出力で実施されたのか。
高出力だったものが効果切れを起こしているのか。
あるいは処置直後で、まだ効果発現途中なのか。
判断材料がない。
「魔力回復薬も同じです」
アイリスが言う。
「投与済みなのは分かります」
「でも量が分かりません」
「少量投与なら追加できる」
「十分量なら危険です」
カナトは患者人形を見つめた。
呼吸は浅い。
循環も不安定。
だが。
今すぐ致命的というほどではない。
「……どうしよう」
思わず本音が漏れた。
患者は目の前にいる。
診察もできる。
状態も確認できる。
それなのに。
前の術者が何をしたのか分からない。
それだけで判断が難しくなる。
「前担当者へ確認できればいいんですけど……」
アイリスが小さく呟く。
「うん」
カナトも頷いた。
「可能なら端末で確認したい」
「でも今は演習だから無理だね」
ならば自分達で判断するしかない。
カナトは深く息を吐いた。
「攻めない方がいいと思う」
「私もそう思います」
アイリスが頷く。
「情報が足りません」
「うん」
高出力治癒は危険。
追加投薬も危険。
だから。
低出力治癒。
最低限の循環補助。
そして経過観察。
それ以上は行わなかった。
◇
演習終了。
クロエが結果を確認していく。
「高出力循環術式追加」
「回復薬再投与」
「治癒強化」
様々な回答が並ぶ。
そして。
カナト達の結果が表示された。
【低出力治癒】
【循環補助】
【経過観察】
【前担当者へ確認推奨】
ざわ、と空気が揺れた。
消極的に見えたのだろう。
だが。
「正解よ」
クロエは即答した。
講義室が静まり返る。
「何故ですか?」
誰かが尋ねた。
「情報不足だからよ」
クロエ主任は淡々と言った。
「前担当者が何をしたか分からない」
「術式出力も」
「投薬量も」
「実施時刻も」
「反応も不明」
「その状態で強い処置を追加する方が危険」
新人達が息を呑む。
「分からない時に無理をしない」
「それも医療よ」
静かな声だった。
だが重かった。
「記録不足は判断材料を奪う」
「だから記録を残す」
「次の術者が迷わないように」
クロエの視線が全員を見渡した。
「今、あなた達が困ったことを忘れないことね」
◇
後半の演習。
今度は自分達が処置担当だった。
患者評価。
治療。
経過観察。
そして引き継ぎ記録。
カナトは端末を開いた。
前半の演習が頭に残っている。
何をしたのか分からない。
いつやったのか分からない。
どんな反応だったのか分からない。
それだけで判断は大きく制限された。
「次の人が困らないように、だね」
「はい」
アイリスも頷く。
カナトは入力を始めた。
【A】
胸部痛を訴える
【S】
呼吸状態改善傾向
循環安定傾向
【T】
内部出血に伴う循環不全を疑う
【R】
13:42 循環安定術式実施(出力30%)
13:47 循環改善傾向を確認
13:50 低用量回復薬投与
13:55 副反応認めず
追加処置不要と判断
経過観察継続
入力を終えたカナトは小さく息を吐いた。
「これなら大丈夫かな」
「前半よりずっと分かりやすいです」
アイリスが画面を見ながら言う。
「少なくとも次の担当は迷いません」
その言葉にカナトも頷いた。
今日、自分達が困ったように。
次の誰かを困らせないための記録。
それが医療部門の言う引き継ぎなのだろう。
◇
夜。
誰もいなくなった講義室。
クロエは新人達の記録を確認していた。
長文。
情報過多。
推測だらけ。
様々な記録が並ぶ。
その中で一つだけ視線が止まった。
カナトのログだった。
処置内容。
実施時刻。
反応。
判断理由。
次担当が確認すべき情報。
必要な情報が整理されている。
無駄がない。
クロエ主任はしばらく画面を見つめた。
そして静かに端末を閉じる。
「しっかり学べているようね」
誰もいない教室で。
その呟きだけが静かに消えていった。




