第2話 勧誘
夜の帳が下り始めた頃。
カナトはようやく家へ戻ってきた。
「ただいま」
扉を開ける。
だが、返ってきた空気はいつもと違っていた。
静かだった。
食卓には、既に両親が座っている。
母親は湯気の立つ茶器に触れたまま、じっと玄関の方を見ていた。
父親は変わらず無表情だが、その視線だけが静かにカナトを捉えている。
「……なに?」
嫌な予感がした。
すると。
コンコン、と扉が叩かれる。
その瞬間。
母親の呼吸が止まった。
僅かに細められた瞳。
茶器を持つ指先に、静かに力が入る。
カナトは目を瞬かせた。
母親は一度だけ深く息を吸い――。
「……お入りください」
低く、凛とした声だった。
いつもの柔らかな口調ではない。
扉が静かに開く。
そこに立っていたのは、昼間老人の側にいた護衛の一人だった。
濃紺の制服。
胸元には、金色の紋章。
男は丁寧に頭を下げ――そして、母親の姿を見た瞬間、僅かに目を見開いた。
平民の住処には不釣り合いなほど、凛とした佇まい。
背筋の伸び方。
視線の通し方。
言葉にしなくとも分かる。
“知っている側”の人間だと。
男は一瞬だけ躊躇した後、先程よりも深く頭を垂れた。
「突然の訪問、失礼します」
「用件を」
母親が短く告げる。
男は静かに頷いた。
「本日、カナト様が救助された方より、言伝を預かっております」
「……様?」
カナトが思わず聞き返す。
平民の自分に“様”付けなど、されたことがない。
男は気にせず続けた。
「あなたには、“アルビオン”への入隊資格がある、と」
その名を聞いた瞬間だった。
母親の指先がぴくりと震える。
「……アルビオン」
その名を、まるで毒を吐き出すように呟いた。
視線は男ではなく、その胸元の紋章へ向いている。
嫌悪。
怒り。
そして、ほんの僅かな恐怖。
カナトは初めて見る母親の表情に戸惑った。
「母さん……?」
「今更、あの象徴が我が家に何の用ですか」
男は慎重に口を開く。
「我々は――」
「結構です。お引き取りを」
ぴしゃりと言い切る。
どのような時でもその背筋は、身体に染みついた教育を証明するかのように、美しく伸びていた。
男はしばらく黙っていたが、やがて静かに封筒を机へ置いた。
重厚な紙。
中央には、アルビオンの金色の紋章。
「入隊試験は一年後です」
男は最後にそれだけ告げる。
「推薦状は同封してあります。もし意思があるなら、お持ちください」
そして深く一礼し、そのまま去っていった。
扉が閉まる。
静寂が落ちた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……なんなの、あれ」
カナトが呟く。
母親は答えない。
ただ、じっと封筒を見つめていた。
その視線は、憎しみと、諦めと、僅かな怯えが入り混じっているように見えた。
「母さん?」
「……貴族なんて、ろくなものじゃないわ」
絞り出すような声だった。
だが。
それは単純な嫌悪ではない。
カナトにも、それだけは分かった。
父親が静かに口を開く。
「お前はどうしたい」
「え?」
「アルビオンに行きたいか」
真っ直ぐな問いだった。
カナトは机の上の封筒を見る。
アルビオン。
戦術、治療、研究などその全てを国内でも最先端を担う組織。
昼間の老人。
自分の右眼。
そして。
あの時確かに感じた、“助けたい”という感覚。
右眼が、じわりと熱を持つ。
「……もっと、人を助けられるようになりたい」
自然と口から出ていた。
母親が僅かに目を伏せる。
父親は静かに立ち上がった。
「外へ来い」
◇
夜風が冷たかった。
裏庭。
月明かりの下、古びた木人が立っている。
父親は倉庫から二本の木剣を持ってきた。
一本をカナトへ放る。
「っと」
受け取る。
ずしりと重い。
「父さん?」
「アルビオンは、治癒師でも死ぬ場所だ」
静かな声だった。
「助けるためには、生き残らなきゃならない」
父親は木剣を構える。
その瞬間。
夜の空気が、肌に張り付いたような錯覚を覚えた。
カナトの背筋に冷たいものが走る。
今までとは違う。
圧が違う。
目の前にいるのは、いつもの父親ではない。
「今までは遊びだった」
「え?」
「これからは違う」
父親の姿が揺らぎ――消えた。
「――っ!?」
本能が叫ぶ。
咄嗟に木剣を構えた。
ガキィィン!!
耳をつんざく衝撃。
まともに受け止めたはずの腕の骨が、軋むような悲鳴を上げる。
身体ごと数歩後ろへ弾き飛ばされた。
「遅い」
次の瞬間には、もう背後。
「っ、ぁ!?」
慌てて振り返る。
だが木剣は既に喉元で止まっていた。
冷や汗が流れる。
速い。
見えない。
いや、違う。
“殺される”と思った。
「止まれば死ぬ」
父親の声だけが静かに響く。
「アルビオンへ行くなら、本気で叩き込む」
再び木剣が構えられる。
月明かりを反射するその姿は、まるで長年戦場を生き抜いてきた剣士そのものだった。
「一年だ」
父親が低く告げる。
「生き残れるようになれ、カナト」
◇
窓の外から、木剣のぶつかる音が響いていた。
母親は静かにそれを聞いている。
机の上には、アルビオンの封筒。
その金色の紋章を見つめる瞳は、どこか遠い過去を見ていた。
「……ほんと、嫌になる」
ぽつりと呟く。
その声は、僅かに震えていた。
まるで。
忘れようとしていた過去が、再び自分達へ手を伸ばしてきたかのように。




