第1話 魔眼
夕暮れの風が、窓を小さく揺らしていた。
カナトは木製のテーブルに頬杖をつきながら、ぼんやりと外を眺めていた。
小さな家だった。
壁には補修跡があり、椅子も少し軋む。決して裕福ではない。けれど、不思議と居心地は悪くなかった。
「カナト、聞いてる?」
台所から声が飛ぶ。
「あー……聞いてる」
「絶対聞いてないわね」
呆れたようにため息を吐きながら、母親がスープ皿を置いた。
淡い香草の匂いが広がる。
「今日は帰りに買い物お願いね。お肉が安い日だから」
「了解」
「あと変なもの買わない」
「買ってないって」
「前回、用途不明の魔導部品買ってきたでしょう」
「あれは必要だった」
「何に」
「……なんかに」
「ほら」
母親が呆れた顔をする。
その様子を見ながら、向かいに座る父親は静かにスープを飲んでいた。
寡黙な人だった。
必要以上に話さない。
けれど、カナトは父親が嫌いではない。
むしろ、落ち着く。
「そういや父さん」
「なんだ」
「裏庭の木人、また壊れてた」
「壊したのはお前だろ」
「……まあ」
「あとで直しておけ」
「はーい」
母親が小さく笑う。
そんな、いつも通りの夕食だった。
だから。
このあと、自分の人生が変わるなど。
カナトはまだ知らない。
◇
街は夕方の賑わいを見せていた。
露店から漂う焼き菓子の香り。
行き交う人々。
買い物袋を抱えたカナトは、店先に並ぶ果物を眺めながら歩いていた。
「……高いな」
思わず呟いたその時。
「うぅ……」
小さな泣き声が聞こえた。
視線を向けると、路地脇で子供が座り込んでいる。
手には、小さな魔導玩具。
鳥の形をしたそれは、片翼だけが動かなくなっていた。
「壊れたの?」
カナトがしゃがみ込むと、子供はこくりと頷く。
「お父さんにもらったの……」
「見せて」
玩具を受け取る。
魔力を流しても反応が鈍い。
その瞬間。
カナトの右目に、淡い紫光が宿った。
世界が静かになる。
視界が僅かに色を失い、魔導玩具の内部だけが鮮明な色彩を帯びて浮かび上がった。
魔力回路。
細い導線。
内部機構。
流れの滞った魔力。
その全てが、完成された設計図のように脳裏へ流れ込んでくる。
「……ここか」
カナトは腰袋から細い工具を取り出した。
小さなネジを外し、歪んだ導線を戻す。
さらに、指先から僅かに魔力を流し込み、乱れていた循環を整えた。
脳裏に、知らない光景が浮かぶ。
白い光。
細い器具。
何本もの線。
静かに鳴り続ける音。
誰かの手。
けれど意味は分からない。
ただ、“こうすれば直る”と理解できた。
カチリ。
小さな音が鳴る。
次の瞬間。
止まっていた翼が、再び軽やかに羽ばたき始めた。
「わぁ……!」
子供の顔がぱっと明るくなる。
「すごい!」
「もう落とさないようにね」
「うん!」
子供は嬉しそうに走っていった。
カナトはその背中を見送りながら、小さく息を吐く。
「……なんなんだろうな、これ」
自分の右目に触れた。
見えすぎる。
分かりすぎる。
時々、自分でも怖くなるほどに。
――ズンッ。
その時だった。
空気を震わせるような重低音が響き、地面が大きく揺れた。
次の瞬間、悲鳴が街を支配する。
「魔物だ!! グレイオーガが出たぞ!!」
人波が津波のように押し寄せてくる。
カナトが咄嗟に視線を向けた先――そこには、大人の倍ほどもある灰色の巨躯がいた。
異様に長い爪をぎらつかせ、狂暴な目を光らせている。
「グレイオーガ……?」
こんな街中に現れるような魔物ではない。昔読んだ本では確かBランク、村一つを滅ぼすようなレベルであったはずだ。
「ひ、引き撃ちだ! 距離を保て!!」
兵士たちの怒号が飛ぶ。
だが。
「ぐあっ!?」
一人の兵士が、一撃で吹き飛ばされた。
勢いづいた魔物が、さらにその凶爪を振り下ろす。
その直線上に、一人の老人が立ち尽くしていた。
仕立ての良い衣服。
気品のある立ち姿。
周囲の護衛達が慌てて剣を抜くが、間に合わない。
「っ……!」
――危ない。
考えるより先に、カナトの身体は動いていた。
地面を蹴る。
老人の身体を突き飛ばす。
直後。
凄まじい風切り音と共に、爪がカナトの肩を掠めた。
熱い痛みが走る。
だが、浅い。
これくらいであれば問題ない。
「君……!」
「下がっててください!」
兵士達が再び魔物へ群がり、ここから引き離そうとしてくれている。
次第にグレイオーガもその物量に押され始めていた。
(今なら間に合う!)
その隙に、カナトはすぐ近くに吹き飛ばされてきた護衛へ駆け寄った。
腹部裂傷。
出血多量。
このままでは数分も持たずに死んでしまう。
その瞬間。
世界が、妙に静かになった。
カナトの右目に、淡い紫の光が灯る。
視界が切り替わる。
皮膚の裏側。
ドクドクと脈打つ血流。
ズタズタに引き裂かれた筋繊維。
破れた主要血管。
そして、急速に失われていく生命力。
すべてが、“完成された図面”のように透けて見えた。
「……ここだ」
カナトは腰袋から清潔な布を取り出し、傷口を強く圧迫した。
同時に、己の指先へ意識的に魔力を集中し、治癒魔法を発動させる。
ただ闇雲に癒やすのではない。
溢れた血液が逃げ場を失えば、内臓を圧迫し、壊死を招く。
順番を間違えるな。
断裂した血管、循環、呼吸。
生命維持の優先順位を脳内で瞬時に組み替える。
「そこの店員さん、綺麗な水持ってきて!」
「は、はいぃっ!」
カナトは必死に護衛の顔を見た。
まだ死んでない。
瞳孔も開いていない。
助かる。
僕なら、助けられる。
「……よし。これで繋がった」
じわり、と出血量が減っていく。
呼吸が戻る。
護衛の胸が微かに上下した。
気づけば、周囲は静まり返っていた。
魔物は兵士達によって抑え込まれたようだったが、それ以上に、誰もが信じられないものを見る目でカナトを見ている。
特に。
先程助けた老人は、鋭い目をさらに細めながら、カナトの手元をじっと見つめていた。
◇
「……魔眼、か」
老人がぽつりと呟く。
カナトは顔を上げた。
「え?」
「いや。こちらの話だ」
老人は穏やかに笑った。
だが、その視線だけは鋭い。
「君、名前は?」
「カナト」
「姓は?」
「ないです」
その瞬間。
護衛達の空気が少しだけ変わった。
平民。
そう理解したのだろう。
だが老人だけは変わらない。
むしろ、興味を深めたようにすら見えた。
「……カナト君。君は、どこでその治療を学んだ?」
「治癒魔法は母から教わりました。ただ…」
カナトは自身の右眼に手をかざした。
「何か……見える時があるんです。こうした方がいいって、教わったことがないはずなのに」
自分でも上手く説明できない。
ただ。
時々、知らない光景が脳裏に浮かぶ。
白い部屋。
眩しい灯り。
赤い液体。
聞いたこともない音。
そして。
“助けなければならない”という感覚だけが、強く残る。
老人は黙ってそれを聞いていた。
やがて静かに頷く。
「……なるほど」
その目は、どこか遠くを見据えていた。
まるで。
未来を見定めるように。




