第18話 観測者
ぴたり、と室内の音が止まる。
紙をめくる音も。
ペンを走らせる音も。
全て。
新人達が一斉に顔を上げていた。
そこに立っていたのは、アルベリウス・ノクス。
柔和な笑み。
知的な眼鏡。
穏やかな視線。
まるで優しい学者そのもの。
それなのに。
何故か、誰も声を出せなかった。
「……統括」
クロエ主任が僅かに姿勢を正す。
その一言で、新人達の空気が張った。
統括。
つまり、アルビオン上層部。
ノクスは穏やかに笑った。
「研修中に失礼します。少し様子を見に来ただけですよ」
威圧感はない。
だが逆に、それが恐ろしかった。
アルベリウスの視線が、カナトとアイリスの資料へ落ちる。
「高出力治癒を否定しましたか」
さらり、と言う。
カナトは少しだけ身構えた。
「……駄目でしたか」
「いいえ、むしろ逆です」
ノクスは優しそうに微笑む。
「医療部門の新人は、まず“強い治癒魔法を使える者ほど優秀”だと考えがちです。ですが実際は違う」
ゆっくりと室内を見渡す。
「患者の身体は、ただの器ではありません。強引な高出力治癒は、時として患者自身を壊す」
新人達が息を呑む。
「循環。負荷。術後反応。後遺症。医療とは、本来もっと繊細なものです」
そこでクロエ主任が、僅かに目を細めた。
「……珍しいですね、ノクス統括」
「おや?」
「研究部門統括が、わざわざ治療部門の教育棟へ来られるとは」
室内の空気がさらに静まる。
研究部門統括。
つまりアルビオンの頭脳側頂点。
そんな存在が新人教育へ顔を出すこと自体、異例なのだろう。
だがアルベリウスは全く動じなかった。
「医療技術と研究技術は切り離せませんから」
柔らかな声。
「特に近年は、現場側の発想が新しい術式理論へ繋がることも多い」
そして穏やかに続ける。
「新人達の“思考”を見るのは、私にとっても有意義なんですよ」
「……相変わらず熱心ですね」
「未来ある若者へ投資するのは、大人の役目ですから」
完璧な返答だった。
自然。
理知的。
善良。
誰が聞いても納得する。
だからこそ。
カナトは逆に、僅かな違和感を覚えた。
――なんで、この人はそこまで新人へ興味を持つんだ?
アルベリウスの視線が、再び資料へ落ちる。
「この二人は、“治す”より先に、“壊さない”という視点で症例を見ている」
ざわっ――。
空気が揺れる。
カナトは居心地悪そうに眉を寄せた。
目立ちたいわけじゃない。
だが。
アルベリウスは構わず続ける。
「特に面白いのはここですね」
彼の指先が、カナトの記述をなぞる。
「高出力術式による循環器負荷の増加予測。しかもその後の段階的低出力治療まで想定している」
アルベリウスが小さく笑う。
「新人らしくない」
室内の視線が、一斉にカナトへ集まった。
「…………」
正直やめてほしかった。
その横で。
「アイリス・フィール」
「……はい」
「あなたも非常に優秀です。改善効率を数値化している。理論構築が早い」
アイリスは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
だが声色はほとんど変わらない。
アルベリウスは満足そうに頷く。
「素晴らしい。医療とは知識の積み重ねです。才能だけでは辿り着けない領域がある」
その言葉は、まるで全員へ向けた講義のようだった。
だが。
カナトは違和感を覚えていた。
アルベリウスは笑っている。
優しい。
理知的。
教育者として理想的ですらある。
なのに。
“観察されている”感覚が消えない。
まるで、自分の中身を覗き込まれているような。
「……?」
アルベリウスの視線が、一瞬だけ右眼へ落ちた気がした。
ほんの僅か。
それだけ。
なのに。
カナトの背筋へ、冷たいものが走った。
「では失礼します」
アルベリウスは最後まで穏やかな笑みを崩さなかった。
静かに踵を返す。
そして部屋を出ていく。
扉が閉まった瞬間。
部屋を覆っていた静寂が、堰を切ったように破られた。
「っはぁ……」
誰かが大きく息を吐く。
まるで高圧な魔法障壁でも消えたかのように、室内へ一気に空気が戻ってきた。
「なんだあの人……」 「怖ぇ……」
新人達が一気にざわつき始める。
クロエ主任だけが冷静だった。
「騒ぐ暇があるなら手を動かしなさい」
「「「はいっ!!」」」
一瞬で静かになる。
流石だった。
◇
再び症例分析へ戻る。
だが。
先程よりも明らかに周囲の視線を感じた。
畏怖。
嫉妬。
探るような好奇心。
アルベリウスの“賞賛”は、ある意味で呪いだった。
「……見られてる」
「うん」
アイリスが即答する。
「めちゃくちゃ見られてる」
「うっ……」
カナトは少し肩を落とした。
「統括に褒められたから」
「嬉しくない……」
「珍しい」
アイリスが少しだけ首を傾げる。
「普通は喜ぶ」
「いやだって絶対目立ったし……」
「もう手遅れ」
「そんな冷静に言わないで」
アイリスが僅かに口元を緩めた。
……気がした。
多分。
◇
夕方。
症例分析が終わる頃には、多くの新人達が疲弊していた。
「なんで初日からこんな量なんだ……」 「頭痛い……」
机へ突っ伏す者までいる。
だが。
「まだ終わりじゃありません」
クロエ主任の一言で、絶望したような空気が流れた。
「これより実技訓練を開始します」
「えぇ……」
「なお、本日は基礎の確認ですので安心してください」
その“安心”という言葉を、誰も信用していなかった。
クロエが資料を閉じる。
「実技室へ移動します」
カナトは小さく息を吐いた。
すると。
「カナト」
アイリスが隣へ来る。
「ん?」
「多分だけど」
「うん」
「実技試験、何かあると思う」
「…………」
同じくそんな気がしていた。




