【残業】
時刻は、すでに22時を回っていた。
普段使っている場所とはまた別の、広い事務所。
そこでは、会議に出ていた後輩たちだけが取り残されていた。
先輩たちは、いつの間にか全員帰ってしまったらしい。
室内には、キーボードを叩く音だけが虚しく響いていた。
誰かは涙をこぼしながら画面に向かい、誰かは目の下に濃い隈を作り、無言で作業を続けている。
そして――それは、森川みなも同じだった。
「……やばい……つらいぃぃぃぃ……」
思わず漏れた小さな弱音。
画面に映る未完成の資料が、じわじわと彼女を追い詰めていた。
(みずは先輩は……もう帰ったよね……)
きっと、とっくに仕事を終えて帰宅している。
そう思い込んで、みなは再びキーボードに向き直る。
「う〜〜!終わらないよぉ〜!」
半ば泣き声のような叫びが、静まり返った事務所に滲んだ。
「みな」
不意に、すぐ後ろから声が落ちてくる。
「……あれ!?せ、先輩!?な、なんで……帰ったんじゃ……」
振り返った先に立っていたのは、みずはだ。
「チョコと飲み物..買ってきた..あと..どれくらいで..終わりそう?」
差し出された袋を見て、みなは一瞬言葉を失う。
「あ、ご、ごめんなさい先輩……まだ全然……」
その言葉を聞きみずはは無言のまま、みなのパソコン画面を覗き込んだ。
そして、ぽつりと本音がこぼれる。
「...おっそ..」
「ぁ…ぁぁ……」
今にも泣き出しそうな声。
だが、みずははそれを気にした様子もなく続けた。
「なんで..そんなに真面目に作業してるの?」
「え、だ、だって……」
「こんなの適当でいいよ..貸して..」
「ぁ…はい…」
半ば呆然としながら、みなは席を譲る。
瞬間、空気が変わる。
カチ、カチ、とマウスが軽快に鳴り、
次の瞬間には、キーボードが猛烈な速度で打ち鳴らされ始める。
カタカタカタカタ――
迷いのない手つき。
考えるというより、決断しながら削っていくような作業。
そして――10分後。
「こんなもんでいいよ...」
みずははあっさりと席を立つ。
画面に残された資料は、確かに内容は通っている。
だが、ところどころの繋ぎは粗く、最低限でまとめられた“終わらせるための形”だった。
「え…で、でも先輩…これ……」
戸惑うみなに、みずはは淡々と答える。
「聞かれたら口頭で答えればいい..もし嫌なら..明日書き直せばいい..締め切りにはまだ余裕ある..」
「あ……」
言葉が出ない。
「みな...私は貴方に対して..定時で帰れるように仕事を割り振っている..もっと要領よく動けば..お昼には帰れた..」
その言葉は責めるようでいて、どこか静か。
「……ぁ……ぅ……」
胸の奥がじわりと痛む。
「もう少し考えて動いてほしい..と..私は思った」
「ごめんなさい…」
思わずこぼれた謝罪に、みずはは小さく首を振る。
「謝らなくていい..もう帰ろう..送っていくよ...」
その一言に、張り詰めていたものが、ふっとほどける。
夜の事務所に残っていた冷たい空気の中で、みなはただ、小さく頷くことしかできなかった。




