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■4 星降る夜の初キス

人が恋に落ちる瞬間なんて、もっと派手なものだと思っていた。

一目見た瞬間に雷が落ちるとか。


抱きしめた時に世界が止まるとか。

そういう芝居じみたやつだ。


けれど実際は違った。


毎朝「おはよう」と笑われるたび。

袖を掴まれるたび。

名前を呼ばれるたび。


少しずつ、静かに、逃げ場なく沈んでいく。

気づいた時には、もう首まで浸かっていた。


――つまり俺は、カオルに惚れている。

認めたくなかったが、もう無理だった。


****


その日の修行は、珍しくうまくいかなかった。

治癒の光は途中で霧散し、魔力の流れも乱れ、司祭は首をひねるばかり。


「今日はここまでにしましょう」

「……申し訳、ありません」


頭を下げるカオルの声は、いつもより小さかった。

帰り道も、ほとんど喋らない。


隣を歩く足取りまで重い。


「カオル」

「……はい」


「腹減ったろ。今日は肉焼くぞ」

「……食欲、ないです」


かなり重症だ。

俺は足を止め、カオルの前へ回り込んだ。


「何があった」

「……何も」


「嘘つけ」


まっすぐ見ると、カオルは困ったように視線を逸らした。


「私……本当に、必要とされているのでしょうか」

「は?」


「治癒の使徒として召喚されて、皆さんに期待されて……なのに、私は何一つ満足にできない」


細い指先が、ぎゅっと自分の服を握る。


「この世界を救うために来たはずなのに……私、役に立てるのでしょうか」


泣きそうだった。

いや、もう半分泣いていた。


俺は胸の奥が、鈍く痛んだ。


「来い」

「……え?」


その手首を掴み、村外れの丘まで引っ張っていく。


「れ、レン、どこへ……」

「黙ってついてこい」


「は、はい……」


****


夜風が吹く。

草が揺れる。


丘の上には誰もいない。

空だけが、やたら綺麗だった。


「……うわ」


カオルが小さく声を漏らす。

満天の星空。


雲ひとつない夜に、こぼれ落ちそうなくらい星が瞬いている。


「この村、なんもないけどな」


俺は隣に立って笑う。


「星だけは、やたらすげえんだよ」

「……綺麗」


見上げた横顔が、星明かりに照らされていた。

この世のものとは思えないくらい綺麗だった。


「カオル」

「はい」


「お前、勘違いしてる」

「……え?」


「役に立つとか、立たねえとか。救えるとか救えねえとか」


俺は空を見上げたまま言った。


「そんなので、お前の価値決まるわけねえだろ」


カオルが息を呑む気配がした。


「でも……私は、ヒーラーで」

「カオルはカオルだ」


「……」


「頑張り屋で、真面目で、すぐ無理して、笑うと可愛くて」

「……か、かわ……?」


「あと、人の心臓に悪い」

「な、なんですかそれ……」


少しだけ、声に笑いが混じった。

それでいい。


泣くよりずっといい。


「レン……」

「ん?」


「あなたは、どうしてそんなに優しいんですか」

「優しくねえよ」


「優しいです」


カオルはゆっくり俺を見る。


「私が、弱いことを責めない」

「弱くねえからな」


「できないことがあっても、見捨てない」

「見捨てる理由がねえ」


「……っ」


瞳が揺れた。

駄目だ。


そんな顔で見るな。

理性が持たない。


風が吹く。

銀の髪が揺れる。

星が落ちるみたいに、まつ毛が震える。


「レン」

「……なんだ」


「私……あなたといると」


細い声。


「胸が、あたたかくなるんです」


知ってる。

俺もだ。


「……カオル」


名前を呼んだだけで、喉が熱くなる。

カオルも逃げなかった。


じっと、俺を見ている。

その瞳に、俺しか映っていない。


もう駄目だった。


そっと頬へ手を伸ばす。

びくっと肩が震えた。

けれど、逃げない。


「……嫌なら、避けろ」

「……はい」


返事の意味が分からなかった。

けれど次の瞬間、カオルは目を閉じた。


まつ毛が、月明かりに揺れる。


――終わった、理性が……。


俺はそのまま、唇を重ねた。

触れるだけの、短いキス。


柔らかかった。

離れた瞬間、カオルの身体が小さく震える。


「……っ。わ、悪い」


反射的に謝ると、カオルが慌てて首を振った。


「ち、違……嫌じゃ、なくて……」

「……」


「びっくり、して……」


耳まで真っ赤だった。

可愛すぎて死ぬ。


次の瞬間。

カオルの身体がふらりと揺れた。


「おい」


そのまま抱き寄せる。


細い身体。

軽い体温。

胸元に顔を埋める仕草まで反則だ。


「……レン」

「ん?」


「……もう一回、してもいいですか」


今なんて?


「……俺に聞くな」


カオルがそっと顔を上げる。

頬は桜みたいに赤く、瞳は潤んでいた。

けれどその奥には、はっきりとした勇気が灯っている。


「……ちゃんと、返したいんです」

「……っ」


「あなたにもらった、大事なものを」


心臓が止まるかと思った。

カオルは震える指で俺の服をきゅっと掴み、背伸びをする。


届かない。

その必死さが愛しくて、俺は思わず腰へ手を回して支えた。


「……甘やかしすぎです」

「うるせえ。今それどころじゃねえ」


くす、と笑ったあと。

カオルはそっと俺の首へ腕を回した。


細い腕。

壊れそうなのに、抱きしめる力だけは驚くほど真っ直ぐだった。


「……レン」

「ん?」


「好きです」


囁くみたいな告白と同時に、唇が触れた。


そして、激しく求め合う。

濡れた唇が離れては付きを繰り返し、ぎこちなくて、頼りなくて。

けれど、絡み合うと信じられないほど甘く、胸の奥まで痺れる。


カオルのまつ毛が震え、鼻先がかすかに触れ合う。

夜風さえ止まった気がした。


長い間、そうしていた。

そして最後に、名残り惜しさを確かめるように小さく口づける。

カオルは、つぶらな瞳を俺に向けた。


「レン……これ、合ってますか……?」


なっ……こんな熱いキスして、いまさら?


「合ってるに決まってるだろ」

「……よかった。私、初めてで……その、夢中になってしまい……でも、上手に出来たか不安で」


……まぁ、人の事は言えないが……。


「……下手でもいいよ……」

「そ、それは困ります……」


困ったように笑って、また頬を染める。

その顔が愛しすぎて、俺は堪らず額へ口づけた。


するとカオルは嬉しそうに目を細め、胸元へ頬を寄せる。


「……レンの心臓、すごいです」

「誰のせいだと思ってる」


「……私なら、嬉しいです」


ずるい。

その言葉ひとつで、人生ごと持っていかれそうだった。


「……っ、カオル」

「……はい」


「俺、もう止まれる自信ねえぞ」


正直に言うと、カオルは胸元で小さく笑った。


「……今日は、ここまでにしてください」

「焦らすなよ……」


「ふふ」


くそ。

覚えたな。


****


しばらく二人で星を見た。

指先だけ、そっと触れ合ったまま。


何も言わなくても満たされる時間が、本当にあるらしい。


「レン」

「ん?」


「……明日も、隣にいてくれますか」

「当たり前だろ」


「……よかった」


その笑顔を見た時、俺は思った。

この先、何があっても守る。


この子だけは、絶対に泣かせない。


****


だが、その翌朝。

村の門が騒がしく開かれた。


黄金の鎧。

高級な馬車。

旗印。


そして、尊大に笑う男。


「勇者タクト様のご到着だ!!」


俺たちの幸福は、そこで終わった。


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