『脱落。堕落には至らず』
『脱落。堕落には至らず』
一
俺は脱落者だ。
高校卒業後、どこかかっこいいからという安易な理由で、地元の交友関係と両親の庇護を捨ててまで上京し、都内の大学に進学した。そして、今日までの四年間を、いや、昨年までの三年間を、世間一般が小馬鹿にするような大学生像の通りに楽しく、将来のことなど全く考えることなく過ごしてきた。
だから、こうなったのも当然の帰結と言える。俺は就活に失敗した。
『ガクチカ』なんてものは、俺にはなかった。バイトと飲み会と遊びに明け暮れる日々の中に、『学生時代に力を入れたこと』なんてあるはずがなかった。
直近の大学生生活がこの始末なのだ。俺の高校生以前の人生に、達成した輝かしい実績や面接で話せるような体験など、あるはずがなかった。
いくら知恵を絞っても、大学の就職支援センターの人や友達の力を借りても、ありもしないものを生み出すことはできなかった。脚色してガクチカのエピソードに仕立て上げることすらできなかった。
企業の志望理由も同様だった。働く自分がイメージできなかった。特に仕事にしたいほどの、やりたいことがなかった。熱量もなかった。これまでの人生で、仕事に活かせるような特技や資格もなかった。なにより企業に、労働に、社会に関心が持てなかった。
エントリーシートを書くことから躓いているのだ。対面で行われる面接はもっと酷かった。
緊張しいな俺は、まともに話せなかった。大枚をはたいて揃えたスーツに着られながら、どもったり聞き返したり質問に答えられずに黙ったりして、一対一の面接もグループ面接もやり過ごしていた。当然、一つも受からなかった。
緊張しいは適性検査でも災いした。事前に参考書で勉強はした。速く解くことも意識して練習した。だが、本番でそれらが活かされることはなかった。緊張で頭の中が真っ白になり、手が震えて鉛筆やキーボードの操作が覚束なくなった。問題文を読んでも頭に入らず、表示される文字を見つめるだけの時間が堂々巡りで繰り返された。結果、ろくに解き進めることができずにタイムアップになることがほとんどだった。企業からの返事はお祈りメールだった。
学生生活は良かった。勉強がそこそこできて、コミュ力があれば万事上手くいっていた。無個性、無気力な俺でも、不自由なく幸せに、かつ楽しく日々を過ごすことができた。
ただ企業は、社会は、学生生活に甘んじる人間を求めてはいないのだと気づかされた。個性があり、主体性があり、能力のある人間が採用される。コミュ力も必要だが、友達と馴れ合う程度のものでは足りなかった。もっと必要だった。そもそも、あって当然のものとされていた。
「はあ……」
溜め息が、白く殺風景な部屋の空気に溶けて消えた。 そんなわけで、昨年の三月以前はもちろん、以降に本格的な選考が始まってからも、俺は企業から内定を貰うことができなかった。
四月、五月、六月、七月。焦りと不安を抱えながら就活を続けたが、月日は残酷に流れていった。八月以降も業種を絞らず、ありとあらゆる企業にエントリーシートを出したり面接を受けたりしたが、結果は散々だった。どこにも受からなかった。
きっと採用担当に、俺の企業分析や自己分析が空虚なものだと見透かされていたのだろう。人材としての価値がないに等しい俺を、正社員で雇ってくれる企業はどこにもなかった。
親には言った。恥ずかしかった。でも言わなければならなかったから、言った。地元に戻ってこいと言われた。大学を卒業したらとりあえず、実家暮らしでフリーターに収まれとのことだった。
しかし、俺は乗り気じゃなかった。負けた気がするからだ。能力と実績でしか人を見ない企業の体質に、正社員じゃない者は劣っている、努力が足りないと見なす社会の風潮に、親の庇護下で『子ども部屋おじさん』として生きていかないといけないという未来に、屈したような気がするからだ。
「はあ……」
だから、無事大学を卒業し、四月が数週間過ぎたこの時分になっても、俺は東京にいた。東京から抜け出せないでいた。先月に起きた空港行きのシャトルバスの転落事故の影響で、楽に空港へアクセスできる手段が当分の間絶たれてしまったからと自分に言い訳し、こうしてなにをするでもなく、狭いワンルームの一室で溜め息を吐き続けている。
バイトは三月いっぱいで辞めた。今は貯金を崩して日々を過ごしている。親からと思われる電話は何度もかかってくるが、全て無視している。留守番の録音も、メッセージも。スマホは電源を切って、布団の近くに放っている。
今は誰とも話したくなかった。やり取りしたくなかった。一人になりたかった。
「はあ……」
俺は脱落者だ。
そのことを噛み締めながら、嫌でも流れていく時間を呪いながら、俺はなにもせずにいた。なにも、できずにいた。
ところで、数日前から、部屋の外、アパートの周りで変な臭いがするのは、俺がおかしくなったからか。ここ最近、アパートの共用部分の廊下と階段がほこりっぽいのは気のせいか。四月に入ったくらいから、チラシやビラが郵便受けに入っておらず、あれだけしつこかった訪問勧誘がぱったりと来なくなったのは、俺の勘違いか。それとも、外のドアに貼ってある『チラシ・ビラの投函、訪問勧誘お断り!』のステッカーのおかげか。
俺には分からなかった。判断する力は、俺の中には残っていなかった。
※※※
この春大学三年に進級し、ときには常識や科学で測ることのできない現象や存在を総称する『怪異』をも調査する『怪異探偵』を自称する雛菊香は、警視庁捜査一課の畠山巡査部長に呼び出されていた。
場所は香の行きつけの喫茶店で、時刻は十八時を周ったところである。
「緊急の要件とのことですが、怪異ですか?」
香はいつものように、アイスコーヒーを片手に聞いた。今日はミルクを入れている。
「ああ、冗談抜きで大変なことになっている」
畠山は背筋をぴんと伸ばし、これまたいつものブラックのホットコーヒーの注がれたマグカップを持ち上げながら、応えた。
「人が、分かっているだけでもう十四人、失踪している。いや、失踪じゃないな。連絡が取れなくなった」
「どういうことでしょう?」
怪異が関われば、短期間で何人もの犠牲者が出ることは容易に想像できる。だから、香は驚かなかった。
むしろ疑問に思ったのは、畠山がわざわざ、『失踪』を『連絡が取れなくなった』と言い換えたことだった。
「一から説明する。今から話すことは捜査情報だ。くれぐれも他言無用で頼む」
「心得ています」
二人は何回目かの、定型文のやり取りをする。刑事と探偵間の社交辞令とも言う。
「ことの起こりは一週間前だ。知人友人と連絡が取れなくなったと、複数の市区町村で通報があった。各管轄の所轄が詳しく話を聞くと、なんと連絡が取れない相手は全員、とあるアパートの住人であることが判明した」
「アパート、ですか」
「そのアパートは二階建てで、101号室、102号室、103号室が一階の部屋、201号室、202号室、203号室が二階の部屋だ。計六つの部屋のうち、101、102、201、203号室の住人、計六人と連絡が取れないということが分かった」
「なるほど」
「各所轄の情報を総合してこの事実が分かったのは、通報を受けた翌日だ。アパートの住所を管轄する所轄署に、連絡が取れないから安否の確認をしてほしいという旨の通達が相次いで寄せられ、不審に思った生活安全課が報告したことで発覚した」
「少なくとも四件同時に、しかも同じアパートの住人の安否確認をしなければならないときたら、確かにおかしいと思いますね」
起こったことは不可解だが、警察の対応は理に適っている。香は率直に思った。
「報告は地域署の生活安全課から、警視庁の組織犯罪対策部に行われた。集団誘拐や監禁などの組織的な犯罪が起こっている可能性を考慮してのことだ」
「でも、身代金の要求などはなかった。ただ『連絡が取れない』だけ……」
「その通りだ。発覚から今日まで、関係者への犯人からの連絡は一切ない。だから、少なくとも身代金目的じゃない、というのが警察の見解だ」
畠山はコーヒーをもう一口飲む。香が事態を飲み込むのを待ってくれていた。
「続けるぞ。所轄は組対部に指示を仰いだが、同時にアパートの大家に連絡を試みた。さらに、付近の交番勤務の地域課員にアパートを訪問するように指示した。これが間違いだった」
「まさか、その人も?」
「ああ。一名の巡査がアパートに向かい、未だ帰ってきていない。連絡が取れない状態だ。しかも、アパートの大家とも連絡が取れていない」
畠山は右腕を軽く回して緊張を解こうとするが、肩の力は抜けなかった。
「七日前にアパートの住人六人と連絡が取れないことが発覚。六日前に警官一人と大家さんも、ということですね」
「ああ。と言っても、二人と連絡が取れないことが発覚して、組対に報告されるまでにある程度時間はかかったが」
「それは仕方がないですよ。続けてください」
「そして今日から五日前、郵便と新聞の配達員と連絡が取れないという通報が、地域の郵便局と新聞屋から入った。これも調べると、当時の数日前に例のアパートを訪問して以来、行方不明、いや連絡が取れなくなったことが分かった」
「配達員も……。アパートが影響しているんですか」
「俺たちもそう思ってるよ。ミイラ取りがミイラになる、なんて比喩は不謹慎だが、それに近い状況になっている」
香は鷹揚に頷き、まさにその通りだと追従する。
「配達員の件を受けて、組対部は本格的に捜査する必要があると判断した。誘拐または監禁の犯人が潜伏していることを考慮して、訪問勧誘のふりをして二名の組対課員を派遣した。四日前の朝のことだ」
「そして、連絡が取れなくなった?」
「ああ……」
コーヒーを啜る畠山。苦い顔をしているのは、ブラックがきついという理由ではなかった。
「五日前に配達員二名、四日前に刑事二名。前の八名と加えて、十二名の方々と連絡が取れていない……」
「その通りだ」
香はストローでコーヒーを吸い上げる。液体がやけに冷たく感じた。
「最後に三日前、アパートに近いとある高校の教師と連絡が取れないと、教師の家族から通報があった。学校に問い合わせたところ、数週間前に入学式を無断欠席した男子生徒の家に向かってから、その教師と連絡が取れなくなっていたことが判明した。そして、その男子生徒が住んでいるのが、アパートの103号室だ。その上、男子生徒とも連絡がついていない」
「音信不通が発覚した日ですが、三日前に教師一人、男子生徒一人。合計で十四名。全てアパートに住んでいる人か、訪れた人ですね」
「やがて、巡査や組対課員とも連絡が取れなくなったことも明らかになり、組対部もそのことに気づいた。それで、名目上は大規模な失踪事件として、刑事部と連携して捜査に当たることになった。三日前のことだ」
「名目上は、ですか」
色々と気になるところがあるが、畠山の話はまだ続きそうだ。香はやんわりと相槌を打つに留めた。
「そうだ。この事件は、失踪と言っていいかは分からない。安否不明の人たちは全員、そのアパートにいると思われるからだ」
「居場所の見当がついている失踪事件とは、確かに珍しいですね」
「しかも変なことに、電話は通じているんだ」
「はい?」
「電話はつながるが、誰も出ない。留守番に繋がるか、ずっとコール音を繰り返すだけで、携帯の電源は入っているんだ。GPSも確認できて、全員がアパートにいることが分かっている。……ただ、生死は不明なままだ」
「だから、『連絡が取れない』という言い方なんですね」
「ああ……」
畠山は溜め息混じりに同意し、椅子の背もたれにゆっくりと寄りかかった。
話はこれで終わりのようだ。明らかに言っていないことがあるが、どうせ私が質問するだろうから省いたのだろう。
香はそう認識し、口を開いた。
「まず気になるのは、通報されていない202号室の住人です。202号室は空室ではないですか?」
「いや、男子大学生が一人住んでいる。不動産屋の賃貸情報を確認したから間違いない」
「その学生さんのご家族に確認は取りましたか?」
「取った。熊本の実家に住む学生の両親に電話でな。息子とは連絡が取れないと言っていた」
「では、その方も同じように連絡が取れなくなった?でも、親御さんは通報しなかった?」
「そこが少し妙でな」
畠山はテーブルの上で腕を組む。
「曰く、就活に失敗して傷心中、らしい」
「なるほど。つまりその方は大学四年生、だった。今年度で大学を卒業されたが働く宛がない、ということですね」
「そうだ。ここ数週間、両親は実家に帰ってこいと何度も催促しているが、無視されているそうだ」
「それは、事件に巻き込まれていて、返事ができていないという可能性はないですか?」
「それがな……」
畠山は一拍置いて、
「彼の携帯は、電源が切られているんだ。他の被害者と違って、『おかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、繋がりません』という音声が電話したときに流れたらしいからな」
その文言は携帯の電源が切られているときか、圏外の場所にいるときにアナウンスされるものだ。
とすれば、男子学生は携帯の電源を切ったか、アパートの部屋ではない電波の届かない場所にいるということになる。あるいは、その両方か。
「その方はアパートにいるのでしょうか?その音声が流れるとしたら、圏外の場所に出かけている可能性もあります」
「いや、202号室に滞在していることが明らかになっている。三日前からアパート周辺を張り込んでいた刑事たちが、買い物に出かける彼の姿を確認している。だから両親の言う通り、携帯の電源電源を切って不貞腐れているか……」
「事件の関係者、もしかしたら犯人かもしれない、ということですね」
「ああ……」
首を捻って頭を傾げながら、畠山は気のない返事をした。
言葉にはしないが、彼も心の中で、男子学生が犯人ではないかと疑ってしまっているのだろう。疑心が立ち居振る舞いに表れている。
「なあ、雛菊さん」
「なんでしょう?」
「人の負のエネルギーが他者を害することは、有り得るか?いわゆる怪異、常識では説明できないなんらかの手段を用いて」
「呪いですか。まあ、あると思いますよ」
香はいつもの調子で、しかし確信を持って応えた。
「神社の木の幹にあてがった藁人形へ五寸釘を打ち込む『丑の刻参り』は有名ですよね。成否はともかく、あれも呪いの一種です。人が人に、自身の持つ負のエネルギーを送る儀式のようなものです」
「オカルトは詳しくないが、俺でも知ってる。男子学生は、井野昭政は、自宅で呪いの儀式をしていると思うか?それで、大勢の人が巻き込まれて……」
「一方で、こんな言葉があります」
結論を急ぐ畠山に、香は別の話題を振る。
「『引き寄せの法則』。畠山さんはご存知ですか?」
「詳しくは分からん。聞いたことはあるが」
「結構です。説明します」
香は喉を潤してから話し始める。
「『引き寄せの法則』は法則とありますが、明確な科学的根拠はありません。主に占いや自己啓発の分野で用いられる言葉です」
「それが、事件と関係しているのか?」
「意味は、だいたい好意的に用いられます。『良いことが起きると願って日々を過ごせば、いずれ幸せや幸運が引き寄せられるようにやってくる』という好意的な解釈で、悩む人々を救う目的で引用されます」
畠山を無視し、香は続ける。
「『引き寄せの法則』の信頼性は置いておくとして、私はこれの悪い意味のバージョンも存在すると思っています」
「ええっと、それはつまり……?」
「『悪いことが起きると願って日々を過ごせば、いずれ不幸や不運が引き寄せられるようにやってくる』という解釈です」
香は右手の人差し指をぴんと立てた。さらに左手でもそうして、
「これと先ほどの呪いの説明を比べると、なんだか似ていることに気づくと思います」
両の人差し指をくっつけてみせた。
「両者の違いは、他者に影響を与えるか、自己に影響を与えるか、ということだけです」
「そうだな」
畠山はなんとか自分を押さえつけ、香の話に耳を傾ける。
「井野さんは失敗を経験し、自らの不幸を願ったのでしょうか。そして、悪い意味の『引き寄せの法則』により、周囲を巻き込んで現実に影響を与えているのでしょうか。あるいは、負のエネルギーを他者に向けたのでしょうか。その結果、呪いとして現実に影響を与えているのでしょうか」
「俺には分からないな。どちらも有り得るように思える」
「私もそう思います。あるいは、両方か」
香は意味深に微笑んだ。
「両方?」
「はい。自らの不幸を願い、他者に負のエネルギーをぶつけようとする思いに引き寄せられ、アパートで怪異が発生した。その怪異の影響により、周辺住民や訪問者たちと連絡が取れなくなった。私はそう考えます」
「それなら、井野の境遇と実際に起こっていることを結びつけられるが……」
「論理的ではないですね。科学を絶対とする警察が信じていい内容でもない」
香は畠山の気持ちを代弁した。
「ですのでこれは、あくまで私の推測です。もし怪異が関わっているとしたら、そういう経緯が考えられる。それだけのことです」
「そうか……」
「もっとも、このことは必要になったら詰めればいいでしょう。それはさておき、他にも聞きたいことがあります」
「なんだ?」
「103号室の男子生徒のことです。入学式に出席する必要があったということは、その方は今年度高校に進学したばかりのはずです。十五か十六歳でしょう。であれば、親か保護者の扶養下にあると思うのですが、畠山さんはその方一人しか勘定しませんでした。しかも、202号室の井野さんのように、関係者から通報もされておらず、高校の教師の方が訪ねる形で安否を確認している。これはどういうことでしょう?」
「ああ、実はそっちも複雑でな……」
畠山はマグカップをぐいと煽り、中の黒い液体を飲み干した。
「先月起きた、シャトルバスの転落事故を覚えているか?」
「ええ。高速道路の路側帯を突き抜け、数メートル下の林にバスごと転落した大事故ですよね。記憶にあります」
確か死者は八名、三十名以上が重軽傷を負ったかなり悲惨な事故だったはずだ。原因は運転手の不注意と報じられていた。
「その事故で亡くなった人の中に、103号室の住人である男子生徒、来栖晶くんの両親も含まれているんだ。彼は一晩で両親を亡くし、ここ数週間は一人暮らしを強いられていたんだ」
「なるほど……」
「頼れる親類縁者がいなくてな。葬式は葬儀屋に任せ、晶くんは塞ぎ込んでしまった。事情を知った担任予定の高校の教師が、何度か訪問して気遣っていた中で、事件が起きたんだ」
「そうでしたか」
事件の複雑さが、ようやく理解できた。
そして、畠山がこんなにも葛藤している理由も。
「井野さんだけでなく、来栖さんも怪異に関わっているのではないか。畠山さんは、そう考えていらっしゃるのですね?」
「ああ、そうだよ」
マグカップを持ち上げ、中身がないことに気づいてからフロアの隅に目を滑らせ、畠山は応えた。
「雛菊さん、依頼を受けてくれるか?呪いでも『引き寄せの法則』でもなんでもいい。井野と晶くん、どちらが怪異に関わっているのか、それともどちらも関わっていないのか、もしくはどちらも関わっているのか……。突き止めてくれないか?事件を解決してくれないか?」
「もちろん、承りますよ」
絞り出した畠山の嘆願に、香は即答した。
「怪異は私の領分です。連絡が取れない人たちを必ず、救います。怪異を解消します」
香は力強く応え、立ち上がった。苦悩する畠山をそのままに伝票を手にし、すたすたと会計に向かう。
プラスチックのカップの中のアイスコーヒーは、まだちょっと残っていた。
二
脱落者でも腹は減る。
空腹感を覚えた俺は数時間ぶりに立ち上がり、数日ぶりにアパートの部屋をあとにした。
外は静かだった。異臭のする廊下を抜け、ほこりっぽい階段を降りていく。アパートから少し離れた路上に、黒い車が停まっている。
俺は車の脇を通り抜ける。道沿いに進んだところにあるコンビニに向かう。
少し歩くと、工事中の区画にさしかかる。道路の右側の一角が赤い三角コーンと黄色と黒のバーで仕切られ、左側には軽トラが停まっている。そして道路の中央は、こちらに背を向いた青い立て看板と交通誘導の作業員で塞がっていた。
「……」
通り過ぎる際、作業員はそっと立て看板をどかしてスペースを作ってくれた。俺は会釈だけして去った。
立て看板には、『ガス漏れのため、工事中です。ご不便をおかけします』と書かれていた。『ガス漏れの』の部分だけ手描きのマジックペンで記載されている。
ガス漏れ?アパートでしている臭いは、ガスの臭いというより……。
俺は取り留めのないことを考えながら、左右に伸びる大通りに突入する。大小様々の自動車が法定速度以上でビュンビュンと行き交うのを横目に、歩道の端を歩く。
すぐにコンビニに到着した。自動ドアをくぐり、外より幾分涼しい店内に入る。
奥の壁際、おにぎりやチルド食品の並ぶコーナーに向かう。ここの食事はスーパーより少し割高だが、美味い。同じものばかりだと飽きるので、俺はコンビニとスーパーを交互に行くことにしている。
「あの、少しよろしいですか?」
国産地鶏の親子丼と五種のチーズグラタンをかごに入れ、厳選スパイスの特製カレーに手を伸ばしたところで声をかけられた。落ち着いた女性の声だ。
「……は、はあ、なんでしょう?」
まさか人に話しかけられると思っておらず、気の抜けた返事をしてしまう。
体を左に向けると、俺と同い年くらいの若い女性が佇んでいた。
「もしかして、この辺りにお住まいですか?実は、私の家の近くでガス漏れが起きたらしくて……」
「ああ、あの工事中になっていたところですか」
通りかかったので、レスポンスは上手くできた。俺は不審がられないように気をつけて、女性を視界に捉える。
セミロングの黒髪がつやつやとしている。顔は明るい表情で、美人と表現できる整い方だ。真っ黒な二つの目に力強い意志を感じる。
上は白い薄手のブラウスに灰色のカーディガンを羽織っている。まだ寒いと感じる陽気にぴったりだった。下は黒のパンツ。くるぶしまで覆うくらいに丈が長い。靴はベージュのスニーカー。
彼女のファッションは良く言えばシンプル、悪く言えば飾りっ気がないと総評できる。偉そうな男目線の下品なジャッジだ。
思ったことは絶対に、言動に出さないようにする。
「それで、これは近隣の方々に個人的に聞いて周っているんですが、ガス漏れの影響で、お過ごしの中でなにかお困りのことはありませんか?ガス漏れのせいではないと思っていることでも、もしかしたら関係しているかもしれません。些細なことでも構わないのですが」
「困っていること、かあ……」
俺は一瞬考える。たちまち、頭の中を支配している『脱落者』という言葉が鎌首をもたげてくる。
なにを馬鹿な。俺が就職できなかったことと、ガス漏れが関係しているはずがない。俺はすぐに、一瞬でも脱落について考えてしまったことを恥じる。
「……ああ、そういえば、俺は工事現場の近くのアパートに住んでいるんですが、最近自分の部屋にいるときとか、外でもアパートの近くにいるときとかに、悪臭がするようになったのが気になってます」
「悪臭?それは、ガスの臭いですか?」
「いや、違います。例えるなら、生ゴミが腐った臭いと糞尿の臭いが混ざったような感じです。結構強烈で、困ってると言えば困ってます」
「生ゴミと糞尿の臭い……。あなたは、その臭いに心当たりはありませんか?」
「ありません。アパートに住んでる他の人がペットでも飼い始めたんですかね。飼育がちゃんとできていないのかもしれない」
俺は正直に応え、考えられる推測も交えてみる。ガス漏れの臭いではないことが伝わればなによりだ。
しかし、女性は顎に手を当てて考え込み始めた。
「……あなたは、ここに食料を買いに?」
「え?は、はい。そうですけど……」
「失礼ですが、あなたは大学生か新卒の社会人のように見受けられます。本日は平日ですが、お召し物からして、大学か会社はお休みですか?」
『新卒』という単語が耳に届いた瞬間、俺はびくりと身動ぎしてしまった。
なぜ、女性は急にそんなことを聞くのか?悪臭ともガス漏れとも関係ないように思えるが……。
「……それを知って、どうするんですか。あなたはガス漏れについて聞きたいのでは?」
口調が刺々しくなってしまっているのが、嫌で嫌でたまらなかった。
だが、女性の次の一言で、胸の中に巣食っていた自己嫌悪の感情は霧散した。
「では、悪臭とは関係があると思いますか?あなたが就活に失敗し、何者にもなれていない自分を責め続けていることと、アパートの悪臭、それと大勢の人が今現在も音信不通になっていることに、関係があるとお思いですか?」
「……」
二つの意味で、俺は黙り込んだ。
一つは、なぜ女性が俺の脱落を知っているのかという不審の意味で。そしてもう一つは、発言の後半の意味が分からないという、意味不明であることの意味で。
「なんでそのことを?」
「失礼しました。実は私、この近所には住んでいません。さらに言うと、ガス漏れも起こっていません」
「な、なにを一体……?」
「申し遅れました。私の名前は雛菊香。怪異探偵をしております」
理解できない言葉を次々と浴びせられ、面食らっている俺に小さくお辞儀する女性、雛菊さん。
彼女は探偵らしい。怪異というのはよく分からないが。
「……え、えっと、井野昭政です」
「存じております」
名乗り返すと、雛菊さんはさらっと言った。
彼女は俺の事情を知っている。俺の名前も知っている。探偵だからか?
探偵だからで片づけていいわけないが、不思議と俺は納得していた。
一見地味な服装、俺と円滑に会話ができる柔軟なコミュニケーション能力、俺の個人情報までインプット済みの高い情報収集能力、そして、俺が脱落者で自責の念に駆られていることを見抜く鋭い洞察力。
雛菊さんが俺に見せたこれらは全て、探偵に必要な要素だ。だから、雛菊さんが探偵でもおかしくはない。
初対面だし、身分を偽っていたり嘘をついている可能性もあるが、俺は雛菊さんを信じることにした。
なに、騙されたところで被害を被るわけでもない。あくまで今のところは。
「……えっと、探偵さんが俺になにか用ですか?確かに俺は就活に失敗して途方に暮れている最中ですが、人様に迷惑はかけていません。なんの事件にも関わってません」
俺は思い切って言った。自分が一般人だとアピールしてみせる。
先ほどとは違い、今度は雛菊さんは黙って俺の言葉に耳を傾けてくれた。発言の意図をすぐに汲み取ると、口を開いて言った。
「確かに、井野さんはアパートで起きている事件には直接関わっていませんね。これから関わるんです」
「どういう意味ですか?アパートで事件って?」
さっき言っていた『大勢の人が音信不通になっている』ことを言っているのだろうか?まだ事態が把握できず、俺は探偵さんに答えを求めた。
「悪臭です。あなたが嗅いだ腐った生ゴミの臭いと糞尿の臭いが混ざったような臭いは、私が追っているアパートの事件と関係があります。そしてその事件は、恐らくあなたにしか解決できない。私では無理です」
「事件のことは分かりませんが、雛菊さんでも無理なら、俺でも無理なような気がしますが……」
「脱落」
遮って放たれた単語に、俺はまた反応してしまう。
脱落という言葉は、俺の心の中でしか使ってこなかったはずだ。なのに、雛菊さんは知っている。まさか、俺の胸の内を見透かすことができるのか?
いや、そんなことは……。
だが、相手は探偵だ。でも心を読むなんてこと、探偵にもできるかは怪しい。
「あなたは脱落したことで、アパートの腐敗、いや堕落の影響を受けていないんです。ですから、あなたの力が必要なんです」
動揺する俺に、また意味の分からない追い討ちをかけてくる雛菊さん。
腐敗とは悪臭のことだろうが、堕落とは?影響を受けるとは?
俺の知らないところで俺に関わる話がどんどん進んでいて、疎外感と嫌悪感が徐々にやってくる。
「いい加減にしてください!事件とか堕落とか、意味が分かりません。確かに俺はアパートに住んでて、脱落者ですが、事件に関わるなんてまっぴらごめんです。もういいですか」
俺は怒鳴り、姿勢で立ち去る素振りを見せる。
「……失礼しました。でも、あなたにしか頼めないんです」
すると、雛菊さんは深く腰を折った。
こぼれる黒髪から、細い首筋から、小さな背中から、俺に縋る必死さが伝わってくる。探偵として、絶対に俺の協力を託つけたいという思いが伝わってくる。
「……」
俺はなんだか、自分が悪いことをしているような気分に陥った。罪悪感、と言えばいいだろうか。この人をこのままにしてこの場を去るのは忍びない。そんな気持ちになっている。
「……分かりました。俺にできることならなんでもします。顔を上げてください」
「ありがとうございます」
迷ったが、俺は『イエス』を返した。『協力する』と言ってしまった。
俺はこれからなにをされるのか、そして、なにをしなければならないのかは分からない。全くの未知だ。
それに、そもそも平凡な一般男性に過ぎない俺が、事件を解決に導けるのかという疑問がある。
だが……。
「事情を詳しく説明します。場所を変えましょう」
冷静に、しかしどこか安堵したように告げる雛菊さん。
彼女の後をついていき、俺たちは会計に向かう。
「ここは私が」
「いえ、これくらい奢ってもらうほどでもないですよ」
俺は財布から急いで千円札を二枚取り出し、雛菊さんの食事も合わせて会計を済ませてしまう。
「申し訳ありません」
「いいんです。行きましょう」
俺は雛菊さんを促して、陽の照った大通りへと出る。
だが……、困っている女性の力になるのは、男として本望だろう。
※※※
井野から協力を取りつけた香は、彼を伴って大通り沿いにある喫茶店に入った。
数多の喫茶店を通い、有名チェーン店においては各店のレイアウトを完全に把握している香は勝手知ったる顔で店内を分け入り、奥のテーブル席を確保する。
「ことは一刻を争います。手短に済ませます」
席に着くなり、香は言った。
「まず、事件について。簡単に言うと、アパートに住んでいる人たちや、教師、配達員、警察の捜査員の数名が103号室に入ったきり出てくることができず、外部からの連絡にも応じないという事件です」
「え、悪臭じゃないんですか?」
「悪臭は、中に閉じ込められた人たちがどういう末路をたどるかを想像すると分かります。事件の被害者は恐らく、食事も睡眠も排泄も満足にできていません。いや、できなくさせられていると考えられます」
「できなくさせられている?」
意味が分からない。たくさんの人が103号室に監禁されているのは理解できたが、食事も睡眠も排泄もさせないなんてこと、可能なのだろうか。
「それを可能にしているのが、『堕落』と表現できるなにかです。103号室の住人である来栖晶さんが持つ、超常的な力です」
「あ、そういえば、最近晶くんを見てなかった。……いやそうじゃなくて、ちょっと待ってください。超常的な力って言いましたか?」
「はい。これはもう受け入れて頂くしかないのですが、超常的な力、もっと大雑把に言うと超能力の類は、この世に実在します。この現実社会に存在するんです。私は怪異探偵で、そういう力が関わってきた多くの事件を扱ってきました」
「……」
「なので、信じてください。信じて、今回の事件の解決に協力してください」
馬鹿馬鹿しい、と一笑に付せたらよかった。
井野は香の大真面目で真剣な表情を見て、信じる以外の選択肢を取ることができなくなった。
「……分かりました。その、『堕落』の力が、晶くんにあるんですか?」
自分が発している言葉の意味が掴めないまま、井野は聞いた。
理解できずとも前に進まなければならないという状況に今あることが、彼には理解できてきた。
「確たる証拠はありません。しかし、『呪い』と『引き寄せの法則』に従えば説明できます。非論理的なことを、論理的に解釈できます」
「……その辺りも詳しく教えてください」
「はい。これから話すことは全て私の推測ですが……」
香は、探偵の常套句を用いて話し始める。
「来栖さんのご両親は、先月のバスの転落事故で亡くなっています」
「え……?」
「これは事実です。警察により裏が取れています」
さらっと告げられた事実に、井野は言葉を失った。
晶くんのご両親が亡くなった?あの事故は確か、空港行きのシャトルバスだったはずだ。そういえば晶くん、お父さんが海外に赴任しているって言っていたが……。
井野の思考が停止しかける。
「全て終わったら、お線香を上げに行ってください。……よろしいですか?」
「あ、はい、続けてください……」
「では」
香はアイスコーヒー、井野はアイスのレモンティーを注文してから、推測の披露が再開された。
「予期せぬ形で両親を失った来栖さんは、塞ぎ込んでしまいました。恐らく、生き残ってしまった自分を恨み、全てがどうでもよくなってしまった。こうした思考プロセスは、親しい人を亡くした方によく表れるものです。今回は、来栖さんもそうであると仮定します」
「はい、自分もそうなると思うので、理に適っていると思います……」
「来栖さんは堕落した。ずっとずっと堕落してしまいたいと、自分を呪ってしまった。そして、それが悪い意味の『引き寄せの法則』により、成就してしまったんです。飛躍しましたが、こうでないと説明がつきません」
「まあ、なんとなくは分かりました。流れ星に願いごとを唱えたら叶った、みたいなことですよね」
「そうです」
やってきた冷たいグラスにストローを差し込み、香は応える。
「来栖さんは好きなだけ堕落できるようになった。睡眠も食事も排泄もせず、ただぼうっとするだけの日々を過ごした。それが恐らく、四月の始めまで続いた」
「なるほど……」
井野もカップの縁のカットされたレモンをつまみ、軽く絞ってからティースプーンでかき混ぜる。
「しかし、これだけでは済まなかった。周りの人も巻き込み、来栖さんと同じような堕落に陥らせた。堕落という呪いを振りまいたんです。四月初旬から今現在まで、人と世界を呪い続けている」
「それが、監禁を引き起こしているわけですか」
「そうです。堕落はまず、来栖さんから最も距離の近いアパートの住人たちに影響を及ぼした。あなた以外の四部屋の六名とアパートの大家さんを103号室に誘い、堕落に堕とした」
「七人も……」
井野は、なんの変哲もない頃の住人たちの姿を思い出しながら、こぼした。
「その後、配達員二名と警察の捜査官三名、それと来栖さんが通う予定の高校教師一名も堕落に飲まれた。全て、四月にアパートに訪れた人たちです」
「じゃあ、被害者の十三人と晶くんが、不眠不休、飲まず食わずで103号室に……?」
「そういうことになります。しかも厄介なことに、来栖さん以外には堕落が中途半端に作用している」
「中途半端?どういうことですか?」
両者は水分を摂りながら、焦らないように情報の共有に時間をかける。
「代償の話です。来栖さんが自分にかけた呪いは、自分の願いであり、自分を犠牲にしているので堕落は通常通り作用していると考えられます。理解できますか?」
「なんとか……」
「続けます。しかし、他者にかける呪いにおいては話が違ってきます。大勢に無理やり堕落を強制させるので、代償は自分のときより大きいはずです。しかし、来栖さんにその代償が払えるとは思えません。自分が堕落に堕ちることを担保にしている可能性もありますが、もしそうだとしてもまだ足りない気がします」
「要するに、呪いのコストが捻出できていないってことですか?」
「そうです。非論理に論理を求めるなら、そういうことになります」
香はいよいよストローを吸って、渇いた喉を潤す。
「とすると、考えられることは主に二つ。来栖さんが他者に強いる堕落は不完全なものである。もしくは、そもそも堕落の呪いにコストの概念などない。……後者は考えても意味がないことになるので除外します。よって私は前者、他者にかける堕落は不完全であると結論づけました」
「なるほど……」
筋道がはっきりとした香の論理に、井野は舌を巻く。
「それと、堕落が不完全だと考えると、悪臭に説明がつきます。これも推測ですが、完全に堕落した状態では肉体は腐敗しないと思われます。すなわち、来栖さんが生きていることは確実です」
「……そうなんですか?」
推測によっていきなり確信が弾き出されたのだ。来栖が生きているのは喜ばしいことだが、井野は疑ってしまう。
「間違いないかと。堕落することは、生きていないと続けられませんから」
「それは、そうかもしれないですけど……」
「警察の調べによると、来栖さんは四月に入ってから一切外出していません。時折高校の教師が面倒を見ていたようですが、その教師も堕落に落ちてしまいました。したがって、来栖さんは堕落下で数週間、なにも口にしていないことは確かです」
これこそが、井野昭政ではなく来栖晶に怪異の原因があると香に確信させた情報だった。
畠山を含む捜査陣は気づいていなかった。井野と違い、来栖が飲まず食わずでいられることに。
加えて、香はコンビニで話したときに、言動からして井野はなにも知らない可能性が高いと勘づいていた。
「部屋に大量の食料があるって可能性は……、ないですよね」
「いえ、あります。悪臭の原因の一つがそれです」
香は胸の前で右の人差し指をぴんと立てる。
「教師が多めに食料を持ち込んでいたんです。インスタントや加工食品の他に、足の早い惣菜や果物類などを近所のスーパーで買っている様子が、店内の防犯カメラに記録されていました。四月二日、教師と連絡が取れなくなった日の夕方に」
「それが腐って、生ゴミの臭いに……」
「教師は来栖さんにバランスの良い食生活を送ってほしかったのだと思いますが、当の本人は堕落しており、食事が要らなかった。そして、持ってきた自分も食事どころではなくなった。ああ、来栖さん以外は中途半端に堕落しているので本当は食事が必要ですが、食べる気力が失せているのでしょう。結果、部屋に残った多くの食べ物が腐り、悪臭をもたらした」
「それじゃあ糞尿は、被害者たちの……」
「はい。食事のときと同じです。来栖さん以外の人たちは排泄をしましたが、トイレではできなかった。部屋の中で失禁を続けた結果、悪臭に繋がったんです」
香は、次に中指を立ててピースサインを作る。
「確かに、それなら説明がつきますね……」
香には言っていなかったが、アパートの共用部分がほこりっぽかったのは、大家や住人たちが堕落に囚われて掃除がされなくなったからだと、遅ればせながら井野は気づいた。
「現在、来栖さん以外の人たちは、中途半端に堕落の呪いがかけられている状態にあります。中途半端故に助ける余地がありますが、遅ければ衰弱死してしまう危険性もあります」
「だから、一刻を争う、と……」
「そうです。電話など、外部からの連絡を試みても一切駄目でした。来栖さんの呪いを解き、彼を元通りにするには、誰かが直接、103号室に赴く必要があります」
「それを、俺に?」
「はい」
長い説明を終えた香は手を下ろし、まっすぐな眼差しで井野を見据えた。
井野も見返す。自分の意志が固まったことを香に示した。
彼はぼんやりとだが、しかし確実に、自分が置かれている状況を掴むことができていた。
これは、俺にしかできないことなのだろう。雛菊さんが俺に固執する理由が分かった。
『堕落』に近い『脱落』という経験を味わった俺だからこそ、晶くんの呪いに惑わされることなく今まで過ごせていたのだろう。
間違いない。これは脱落者の俺が、やらないといけないことだ。被害者たちを、晶くんを救うために。
複雑怪奇かつ現実離れした香の推理に揉まれた井野の胸中は、不思議と晴れ晴れとしていた。
「……やります。どうすればいいですか?」
伝わった。香の思いは、頼みは、しっかりと井野に伝わった。
「ありがとうございます……」
安堵した香は再び頭を下げると、それに呼応するかのようにカランッと、グラスの中の氷が鳴る音が響いた。
三
これからやることをしっかりと教わった井野は、喫茶店を出て、大通りを歩き始める。
外に出たタイミングで太陽が雲に隠れ、道路は日陰に覆われていた。流れ込んでくる風は涼しく、ともすれば寒いくらいだった。
「俺にはできる、俺にはできる、俺にはできる……」
井野は念仏のように自分を鼓舞しながら、一歩一歩を踏みしめて歩いた。
アパートに通じる路地には、すぐに戻ってこれた。道をまっすぐ進むと、偽装された工事現場にさしかかる。
「……」
交通誘導の作業員だと思っていた、絶対に通さない警察の人間は、井野を見るなり敬礼した。警察官がよくする、指を伸ばした手を斜めにして顔の横に掲げるポーズだ。
「……」
井野は行きのときと同じように、会釈するに留めた。
敬礼した状態で静止する警察官の横を通り過ぎ、軽トラの脇に退けられた立て看板の隣を抜けて、井野は先に進んだ。
どうしようか。アパートが見えてきたところで、井野はやっと考えに耽ることができた。
いや、やるしかないのは変わりないが……。
もはや、来栖が異常な力を手にしたことは疑うまでもない。しかし、彼は本当に無事なのだろうか?本当に、食事も睡眠も排泄もせず、堕落し続けているのだろうか?
悪臭が立ち込めるアパートの目の前に到着した。けれども、井野の疑問が解消されることはなかった。ぐるぐると頭の中を駆け巡っている。
「危ない危ない」
用があるのは103号室だ。階段は上らなくていい。
いつもの癖で砂ぼこりを被ったステップの一段目に伸びかけた足を引っ込め、井野は階段の下をくぐる。
一階の廊下部分に進入する。101号室のドアが目の前にあった。
井野はまたもはっとする。言われてみればここ数週間、アパートから人の気配が消え失せていたことに気づく。
今もそうだ。101号室からも、隣の102号室からも、人の気配が一切ない。
井野の視線は自然に滑り、103号室の玄関を見てしまう。
気配は、しない。堕落の呪いが禍々しく、オーラとして視覚化されている、なんてこともなかった。ただ、生ゴミと糞尿の臭いが漂っているだけだった。
井野は香の言葉を思い出す。『堕落は、誰にでも起こり得る人間の精神と肉体の状態です。それが呪いであっても、井野さんには目で見ることも、耳で聞くことも、感じ取ることもできないでしょう。私と同じように』。
堕落は、誰にでも起こり得る。確かにそうだ。強い精神力があるから普通の人は至らないだけで、なにか強いショックを受けたり、悲惨な目に遭ったりして精神が耗弱すれば、誰でも至ってしまいかねない。来栖のように、底なしの堕落に囚われることだってあるだろう。
井野はゆっくりと歩みを再開した。一歩ずつ、なにが起きても逃げ出せるように心構えという保険を何重にもかけながら、ゆっくりと。
忍び足で、井野は103号室のドアの前に立った。
サイズを合わせたベニヤ板をそのままはめ込んだような、質素で薄すぎるドア。下部の郵便受けはチラシやビラで詰まっていた。
丸い、掴んで捻るタイプの金属製のドアノブにそっと触れる。手を開き、音を立てないように手のひらで握り込む。力をちょっとずつ加えて、慎重にノブを捻っていく。スムーズに回転してくれた。鍵はかかっていない。
『ノックしたり、チャイムを鳴らさないで部屋に入ってください。来栖さんに準備の時間を与えず、不意を突くんです』。香の言いつけを、井野は忠実に実行した。
決して音が出ないよう、扉を引き開けていく。悪臭が途端に強まる。アパートのドアは年数が経過していてよく軋むので、細心の注意が必要だ。
ドアを十分開けたら、そっと中に入る。玄関も廊下も奥の部屋も薄暗い。照明がついておらず、外が曇っているからだ。
土間は、乱雑に脱ぎ捨てられた靴でいっぱいだった。井野はなんとか足の踏み場を探し、無音で靴を脱いで廊下に足を乗せる。
「……っ!?」
暗闇に慣れた目に映ったものを理解し、井野は声を上げそうになる。
廊下の中ほどに、二人の人が倒れていた。一人は壁に寄りかかるように俯き、両足を投げ出している。もう一人は足をこちらに向けてうつ伏せに横たわっていた。
二人とも男性だ。黒色のスーツを着ている。香の言っていた、巻き込まれた組織犯罪対策部の刑事たちなのだろう。
そして二人とも、下半身が湿っていた。下半身が接している部分の床が濡れている。井野は、それがなにであるかを考えないようにした。
井野は上がり框を跨ぎ、ほこりの積もったフローリングの床に足を乗せる。慎重に、音を立てないように、微動だにしない男たちに触れないように、廊下を抜けていく。
部屋に近づく。井野は、廊下と部屋の間の敷居付近に別の二人の男性が倒れていることを見つけた。服装からして間違いない、郵便配達員と新聞配達員の二人だ。一人は敷居を跨いで廊下と部屋の床を背に仰向けになっている。もう一人は右半身を下にして、廊下の終端で横になっていた。そして、下半身が湿っていた。付近の床が濡れていた。
井野はその二人も避けて、絶対に水たまりに足を踏み入れないようにして、部屋に入る。
するとそこには、信じられない光景が広がっていた。
冬はこたつに使えそうな背の低い正方形のテーブルの上に、大量の食料と生ゴミが置かれている。カップラーメンや缶詰、プラスチックの袋で包装された菓子パンは無事そうだが、野菜、果物、魚、肉といった生ものの類は全滅だった。原型を留めていないほど腐敗し、周囲に悪臭を放っている。プラスチックの容器に入った惣菜類も酷かった。ほとんどが汚物のパッキングと化している。
テーブルの周りの床と、奥に置かれた革張りの横長のソファの周辺はもっと酷かった。両手で数え切れないくらいの人たちが、香によると合計九人もの人たちが床の至るところに、ソファの上や周りにいた。ただ、存在しているだけだった。
制服姿の男性警察官は、テーブルの近くの床に大の字になっている。後ろ姿で女性と分かる、おそらく高校の教師はソファの脚にもたれかかって沈黙していた。
見覚えのある数名、アパートの住人たちも、各々堕落に耽っていた。テーブルに顔を突っ伏して座っていたり、壁と床の隙間に収まっていたり、窓ガラスに左半身をへばりつかせていたり、ソファに四肢を投げ出していたり。
子どももいた。隅で体育座りをしている。隣に住んでいる夫婦の子。まだ七歳、小学一年生だったはずだ。名前は確か……。
井野は詳細に思い出そうとして、やめた。今はそんな暇はない。
そして、井野は目的の人物を捉えた。
来栖晶は他の人と比べて、自然な体勢をしていた。ソファの中央にちょこんと座っていた。足を揃えて腰かけ、顔を俯かせ、両腕を膝の上に乗せて。
ちゃんと、堕落していた。この部屋にいる誰よりも、堕落を謳歌していた。
あんなに元気だった来栖の悲惨な今を見て、井野は胸が締めつけられるような感覚を覚える。人の間を縫って部屋を進む足が止まってしまう。
そのタイミングを見計らったかのごとく、来栖は動いた。垢まみれで血色の感じられない顔をゆっくりと上げ、焦点の定まっていない濁った目を井野に向ける。
「……あ、ああ、アキお兄ちゃん」
掠れた声で、来栖は呟いた。 井野は確信する。晶くんは俺のこと、『アキお兄ちゃん』と呼んでいた。自分も『アキ』とつく名前なのに、ずっとその呼び名で。
本人で間違いなかった。正気を失っているわけでも、別の誰か、もしくはなにかに憑依されているわけでもなかった。来栖晶は来栖晶として、堕落という呪いに苛まれることを選んだのだ。
胸が張り裂けそうだった。自分を見失いなってしまいそうなほどの悲しみと虚無感に襲われながらも、それでも井野は一歩前に進んだ。
課せられた使命をほっぽり出して、弟分の無事を確かめたい一心で、井野は来栖の下へと歩いていく。
「晶くん……」
自分の声は明瞭だった。
「聞いたよ。事故のこと、ご両親のこと……」
「そっ、か……」
かろうじて会話になった。
あと数歩で、晶くんのところにたどり着ける!
しかし、近づけば近づくほど、物言わぬ被害者たちの図体が道のりを険しくしていた。ところどころに水溜りもある。 段々と足下が覚束なくなってくるが、井野は来栖の顔から目を背けることができなかった。目を離した途端、来栖がいなくなってしまう気がしたからだ。堕落の果てに肉体が朽ち、塵芥となって消滅するかもしれなかったからだ。
「もう、いいんだ……。全部、どうでもいい……。なにもかも、どうでもよく、なっちゃった……」
「そうか……」
「だからアキお兄ちゃんも、腐ろう?」
「え?」
「一緒に腐ろうよ」
「……悪いけど、それはできない」
言葉をかけつつも、井野はソファの端に到着する。投げ出されている手足を避け、寝転ぶ体のすぐ脇に着席する。来栖の隣に。
「どうして?アキお兄ちゃんも、腐ろう……?」
「俺は、堕落するために来たんじゃない。晶くんを助けに来た。もう自分を、周りの人を呪わなくていいんだ」
「どうして?皆、全員、腐った方が、いいよ……?」
「腐るよりも、動かないか?行動し続けるのが人間って生き物だ」
「そんなの、違う……。なにも考えないで、なにもしないで、ずっとこの部屋で、僕と腐るんだ……。だって、その方が……」
「その方が、なんだ?傷つかず、自分のままでいられるか?それ以上苦しまずに、悲しまずに、痛みを感じずにいられるか?」
「うん……。僕は、もう、なにも感じたくない……。失いたくない……。大切な、この家で……、皆と一緒に、暮らしたい……」
「そうか。……なあ、晶くん、少し昔話をしてもいいか?俺の話だ」
「うん、いいよ……」
「ありがとう。……実は俺、脱落者なんだ。人生の脱落者。晶くんには見栄張って本当のことを言ってなかったんだけど、俺は、どこにも就職できなかった。社会から必要とされていない脱落者なんだ」
「脱落者?それなら、僕と一緒に……」
「確かに、俺も今日までそうだった。未来について、未来の自分について、考えたくなかった。なにもかも放り出して、なにもかもどうでもいいと思ってた。……でもね、晶くん。これだけは言える」
「……」
「生きていたら、絶対に良いことはやってくるよ。堕落せず、腐らず、地味に地道に挑戦を続けていけば、動き続ければ、いつか必ず報われるようになっているんだ。人生はそういうものなんだって、俺は今日、気づいた」
「そんなの、違う……」
「晶くんもきっと、良いことに出会えるよ。堕落するのは、腐るのはもう終わりにしないか?俺も協力する。一緒に、楽しいこと、幸せなことを、これから見つけていかないか?」
「嫌だ……。傷つきたくない……」
「俺が守るよ。絶対に、晶くんを傷つけさせなんかしない。俺といれば、晶くんは楽しさや幸せしか感じなくて済むんだ」
「でも……」
「俺が側にいるよ。いつでも、いつまでも、晶くんの側にいる。悲しいことも苦しいことも痛みも、全部俺が引き受ける」
「……」
「晶くん。呪いを、解いてくれないかな?嫌なら、無理にとは言わない。晶くんが解いてくれなくても、俺は一緒にいるよ」
「……」
「そうだな、まずは皆に布団を敷いてあげて、汚れた服を取り替えて床を掃除する。もちろん、晶くんや他の皆がなにかする必要はない。俺が好きでやりたいと思っているだけだ」
「……そう、なの?」
「そうとも。終わったら、食事を作って皆で食べよう。料理の腕に自信はないけど、皆の好きなものを作ってあげるよ。晶くんはなにが食べたい?食べるだけなら楽しいし、幸せしか感じないよ」
「……ハンバーグ」
「ハンバーグね。皆には後で聞くよ。ご飯を食べたらそうだな。皆で寝よう。晶くんは俺の隣で。どんな怖い夢でも、俺が隣にいれば安心だろ?眠くなかったらこっそり話そう。次に食べたいものとか、読みたい本とか、ゲームもいいね」
「ふふ、楽しそう……」
「だろ?俺は時間なんて有り余ってるからな。お金も、最悪なんとかなる。いっぱい食べて、遊んで、寝よう。ずっとこの部屋で、暮らそう」
「うん……。僕も、アキお兄ちゃんと、暮らしたい……」
「よし、決まりだな!そうと決まれば……」
「アキお兄ちゃん……」
「ん、なんだ?なにか他にしたいことがあるか?」
「ううん。ありがとう、アキお兄ちゃん……。もう、いいよ……。呪い、解く……」
「……本当か?」
「うん。僕は、一人じゃなかった……。アキお兄ちゃんが、いてくれた……」
「そう言ってもらえると、嬉しいよ」
「ごめんね……、アキお兄ちゃん……」
「謝る必要なんてない。晶くんはただ、寂しかっただけだったんだ。俺でよければ、いつでも話し相手になるよ」
「ありがとう、アキお兄ちゃん……。もうそろそろ、始めるね……。呪いを、解く……」
「ああ、頼む」
井野が最後に言うと、来栖は顔を上げて暗い天井を見上げた。そして、両腕をゆっくり動かし、緩慢な動作で立ち上がった。
「呪いを、解く……、条件は、僕が堕落するのを、終えること……。これで、呪いはおしまい……」
直立した来栖は目を閉じ、意識を失いながら元の位置に腰を下ろした。
こうして、堕落の呪いは解かれた。
四
井野から連絡を受けた香は、とある人物を連れてアパートに急行した。
香とその人物は103号室に入り、堕落から解放されてすぐに気を失った被害者たちを避けて、来栖晶の下に到着した。
「……その人は?」
来栖の隣に座り、絶望していた井野は、なんとか言葉を発することができた。
「こんな形ですが、天使です。来栖さんを苦しめていた原因を取り除くことができる、人ではないなにかです」
「酷い言い草だな」
「説明している時間はありません」
香が大事な部分を隠して簡潔に説明したが、一見細身の成人男性にしか見えないとある人物、天使のお気に召さなかったようだ。
天使は、獣に堕ちた神に付き従い、主を神に戻すために神性という超常的な力の源を集めている。香はそれに協力させられている。
今回の堕落の呪いは、天使によると奪われた神性が用いられているらしい。井野と別れた後、香は念のために天使を呼んで、そのことを確かめておいたのだ。
「この方の力で、来栖さんにかかった呪いを取り除きます。そうすれば、来栖さんは……」
「もう、意味ないよ……」
香の言葉を遮り、井野は言った。
「亡くなってる……。晶くんは、もう、亡くなってるんだ……」
「本当ですか?失礼。……本当ですね」
来栖の手首に指を当て、口元に耳を近づけ、胸の上下を確認する香。脈も呼吸も読み取れなかった。
「堕落による栄養失調で、一時的に仮死状態にあるのかもしれません。急いで……」
「いや、神性を取り除いても蘇生はできない」
一を聞いて十を知る天使は、冷たく言い放つ。
「……どうしてですか?」
「神性により、肉体の内部が改変させられているからだ。ただ堕落して生き続けられるためだけの内臓組織に作り変えられている。これは私が神性を除去したとしても、元には戻らない」
「ですが、春魅さんのときはなんの問題もなかったでしょう?」
「あれは体の内側を変質させていなかったからだ。今回とは違う」
「では……」
「なあ、雛菊さん」
天使と問答を繰り広げる香に、井野は問うた。
「はい」
「俺は、正しいことをしたのか?晶くんに、これからの人生を楽しもう、幸せに生きようだなんて綺麗ごと言って呪いを解かせて、死なせることは正しいことだったのか?」
「……正しいことだと、私は思います。これ以上の被害者が出ることはないのですから」
香は正直に応えた。しかし、『来栖さんが亡くなったのは予想外だった、結果論でそうなってしまった』という言葉は口にしなかった。
「そうか……。結局、ご両親のいるところに行かせてしまった。俺のせいで……」
「あなたのせいではありませんよ」
「え?」
香はきっぱりと否定し、顔を上げた井野と目を合わせる。
まっすぐな黒目で、井野の全てを肯定するように。
「今回の解決方法は、一から十まで私が考案したものです。私の責任です。来栖さんを救えなかったのは、私のせいです」
「そんなことない、俺がもっと……」
「どんな手段を尽くそうとも、呪いを解いてもらった時点で来栖さんは亡くなっていたでしょう。つまり、井野さんのやり方が間違っていたわけじゃない。井野さんにそれをお願いした私の責任です」
「……」
井野は黙り込んだ。香が気遣ってくれているのは分かるが、それでも自責の念は晴れなかった。
「そろそろ、いいか?」
「はい、お願いします。……井野さん、私がこれから言うことは理解できないかもしれませんが、聞いてください」
「……聞くよ、なんだ」
「今回来栖さんが使った呪いの力は、『神性』という本来神が用いるべき力です。とても、一人の人間が扱っていいものではない」
「神性……」
「進めます。そしてこの天使は、主の神から奪われた神性を集めています。今日は、来栖さんに宿っている神性を取り除いてもらうために私が呼びました」
「神……。晶くんは、神に殺されたのか……?」
井野は天使の方を向く。
香の目には、井野の顔がひどく虚ろに見えた。目に生気が宿っていなかった。少し見ない間に、顎や頬はまるで堕落した人のように痩せ細り、血色のない青白い肌に変わっていた。
「有り体に言えばそうだな。来栖晶にその傾向があったとは言え、神性を与えて堕落させた主犯は堕落の神だ」
「堕落の、神……」
井野は小さく、しかし忘れないように噛み締めて呟いた。
「堕落の神が、晶くんを……。堕落の、神のせいだ……、俺じゃない……、堕落の神……」
呟き続ける。何度も。虚空に視線を這わせ、何度も何度も、早口で。
香は、残酷な結末を、神の所業を受け入れられず、一人の人間が狂う瞬間を目の当たりにした。
「さあ、そろそろ……」
「お願いします」
「堕落の神……、堕落の神が、晶くんを……。堕落の神のせいで……、俺じゃない、堕落の神、堕落の神が……」
堕落した103号室で、腐り切った臭いと狂人の呪詛が広がる空間の中で……。
ただの人間に過ぎない香はただ、天使が手をかざして来栖晶の遺体から神性を回収するのを、じっと見ていることしかできないのであった。




