『トロッコ問題の解法』
『トロッコ問題の解法』
「あなたは、レールの引かれた路線を俯瞰しています。路線は途中まで一本道ですが、途中から左右に二つの線が分かれています」
先生は言った。正面の壇上に立っている。
先生の向こう側には、天井から垂れ下がったスクリーンがある。こちらから見て手前の天井に備え付けられたプロジェクターから光が投影されている。
スクリーンにはシンプルにデザインされた、横向きの路線の図が描かれている。先生の言う通り、レールは画面の中央で上下に分かれていた。
図が表していたのはそれだけではない。左端のレールの始点に、デフォルメされたトロッコの絵がある。
そして、二股に分かれた先のレールに、上は五人、下は一人の白い人型がいる。レールの上に横たわっている。分岐点に矢印が置かれ、今は上のレールを指してあった。
さらに、図の下側にレバーがある。レバーからは黒の実線が伸び、分岐点の矢印に繋がっている。レバーは左側に傾いた状態だ。
『俯瞰されたレールの路線』が、いわゆる『トロッコ問題』のイラストモデルが、先生の後ろに用意されていた。
「あなたはレバーの前にいます」
先生が言うと、即座にレバーの前に自立する人型のイラストが出現する。
「トロッコは暴走しています。止まるどころか、ブレーキをかけることもできず、高速で前進しています」
トロッコがレールを滑る。分岐点の上の道を通り、五人の人型と次々に重なり合う。人々を通り過ぎ、レールの右端に到着すると、消滅。左端に再出現する。
「あなたは、トロッコがこのままだと五人の人の命を奪うことを理解しています」
先生はあくまで事務的に、一定のペースで話していく。
「五人の人をレールからどかすことはできません。あなたにできるのは、目の前のレバーを操作することだけ」
レールを行き来し、何度も五人を轢き続けるトロッコの挙動が残酷に、けれども正確に、時を数えていた。
「しかし、あなたがレバーを操作すれば、トロッコは下のレールを走行することになります」
先生が言った途端、トロッコの経路が変わった。レバーが右に倒れ、矢印は百八十度回転して下のレールを指す。トロッコは分岐点を下に進み、先にいる一人と重なり、通過する。それを何度も繰り返す。
「このように、上の五人を助ければ、下にいる一人を犠牲にしなければなりません。あなたはそれを理解しています。しかし、この一人の人も、あなたはレールからどかすことができません」
冷酷に告げる先生の声。
「さて、これであなたにできることは二つになりました。いや、ある一つの行動をするかしないかを選ばなければならなくなった、と言った方がいいですね。すなわち、レバーを操作するか、しないかです」
先生は生徒たちを見ている。しかし不思議と、その顔が認識できない。直視しているはずなのに、奥のスクリーンは問題なく見えるのに、先生の顔は霧がかかったように判別がつかない。目や鼻や口がどんな形で、どんな大きさで、どの位置にあるか。顎と頬の輪郭はどれほど鋭いか、それとも鈍く膨らんでいるか。髪の長さは、髪型はどうか。先生の人相は、全く読み取ることができなかった。
「レバーを操作し、自らの手で一人の命を奪うか」トロッコが下を駆け抜けていく。
「それとも、操作せずに、五人を見殺しにするか」トロッコが上を進む。何度も行き来する。
「あなたは、どちらを選びますか?」先生は、静かに生徒たちに問うた。
「では、雛菊さん」
唐突に名を呼ばれた。香は背筋を伸ばす。
気づけば周りには、いや教室の中には、他の生徒はいなかった。香と、顔の分からない先生がいるのみだった。
おかしい。今の今まで、他の生徒がいると思って授業を受けていたのに。香は疑問に思った。
「あなたは、どちらを選びますか?レバーを操作するか、しないか」
奇妙に思う中で、先生はゆっくりと聞いてくる。
ただ、考える時間をくれているように感じた。香はなんと発言するか熟慮する。
「……レバーを操作します。ただしその操作は、トロッコが分岐点に到達した瞬間に行います。そうすることでレールの走行機構を破壊し、トロッコを脱線させて六人を助けます」
「……面白い着眼点ですね」
しばらくの沈黙の後、先生はなんとか言葉を絞り出した。顔は分からないが、明らかに困惑していた。
トロッコ問題は本来、回答者の倫理観を問う二者択一の命題である。
しかし、実際はどうだろうか。回答者は条件の穴を探し回り、前提を穿って捉え、第三の選択を強引に見出そうとする。一人を手にかけることも、五人を見殺しにすることもせず、なんとかして全員を救おうとする。
先生はもちろん、それをさせないつもりだった。逃げ道は塞いだつもりだった。説明は簡潔なものだったが、プレイヤーはレバーを操作することしか許されていなかった。だから、回答者の香は二択を選ばなければならないはずだった。
だが香は、半ば実現不可能な第三の選択を主張した。まるで『一休さん』のとんちのごとく、レバーを操作することのみを用いて、全員を救う可能性を提示してみせたのだった。
「……雛菊さん」
「はい」
「あなたはそれが本当に、実現可能だと思っているのですか?」
「いいえ。私には無理ですね」香は即答する。
「ではなぜ、できもしないことを……?」
「『トロッコ問題』は仮定の話です。現実の話ではありませんから、たとえそれが不可能に近い選択でも、思いついたのなら主張してもいいと思ったのですが、違いますか?」
「……違わないですね。その通りです」
捻くれてはいるが、再現性に乏しいが、自分が真剣に考え、正直に主張したことが先生に理解された。授業と中での建設的なコミュニケーションが成されている。
少なくとも香は、そう思っていた。だが、実際は違った。
「……では、実際にやってみたらどうでしょうか?」
先生はそう言い、ふらふらと歩き出した。壇上から降りた。
「はい?それは……」
消えた。香が言いながら瞬きした間に、疑問を投げかけようとした数秒の合間に、先生の姿は忽然と消えた。
いつの間にか、香は外にいた。砂利よりも粗い石で舗装された、地面の上に立っていた。
目の前にはレバーがあった。少し遠くの方に、左右に分かれて伸びるレールも。
「やれ、ということですか?」
どこにともなく言ってみるが、返答はない。
外部からの干渉がない『トロッコ問題』の回答者として、系の中に放り込まれたということか。香はそう、認識した。認識するしかなかった。他に説明がつかない。
とするなら、やるしかないのか。再現性が限りなく低い第三の選択肢を実行に移すしか、ない。
「……トロッコが来てますね」
左に続いているレールをたどった先を見て、香は呟いた。
トロッコは教室で見たのと同じ見た目をしている。速度は、だいたい六十キロほどだろうか。こうして横から見てみると速く感じる。
トロッコはガーッと気味の良い音を立ててレールの上を走り、分岐点に迫っていた。上を、固定された五人に続くレールを指す矢印のところへ。
狙いは一瞬だ。矢印に到達した瞬間、レバーを右に倒す。それだけだ。それだけに集中すればいい。香はレバーを左手で握り、トロッコの走行を観察する。
もうすぐ、もうすぐだ。もうすぐトロッコが、分岐点に到着する。
「今ですっ!」
香は思いっきりレバーを倒した。
レールの続く先が変更され、分岐点の矢印は下の、固定された一人に続くレールを指す。
トロッコは、脱線することなく分岐点を通過した。そのまま下のレールを爆走し、トロッコが一人の人に迫る。
あの人が誰だか分からない。レールの上で寝そべっていることは分かるが、身体的特徴が一切認識できない。先生の顔を見たときのように。
香は目が離せなかった。現実としか思えない実験系の中で、自らが行った操作で人が死ぬ瞬間を、香は目に焼きつけていた。
トロッコが通過した。ガーッという音が不自然に一瞬途切れ、また元のように鳴り響く。
一人の人は、礫死体になった。未だはっきりと焦点を合わせて視認することができないのに、体の二カ所が両断された傷ができたことだけは、なぜか読み取れてしまっていた。脳に視覚的情報として届けられてしまっていた。
自分が選択して殺したのだと、理解させられてしまっていた。
「……これで、十分ですか?私にはできませんでした。理想と現実は違うのだと、分かりました」
香は自らに言い聞かせるように、言い訳するように、言った。
「十分です。自分で実現できない愚かな提案は、するべきではありません」なぜだ。
なぜ、礫死体の方から、声がする?
「……え」
合わなかった両目の焦点が、徐々に合っていく。
レールの上に寝転んでいたのは、礫死体になったのは、先生だった。顔は霧がかかったように見えないが、顔以外の体は、全て先ほどまで授業をしていた先生のものだった。
「このように、殺した相手が知っている人物である可能性もあります。実際には、本当の現実では、完全に見知らぬ人が用意されるとは限りません」
先生は血をこぼしながら話し続ける。
肺が潰れているのに、横隔膜と繋がっていないのに、先生は話し続ける。
「あなたはこれが現実だと意識しながら、軽はずみにレバーを操作しました。どうせ上手くいかないだろうと思いつつも、万が一の確率で走行機関が壊れることに賭けました」
「……」
先生の声は、声量や声色は、轢かれる前と変わっていない。
意味が分からなかった。香は半分呆けて、死体が喋るのを聞いていた。
「しかし、その考え方は浅はかです。上手くいかなかったら?あなたは上のレールの五人を救ったことになりますが、同時に下のレールの一人を殺したことになります」
「……」
轢かれた先生は、轢いた生徒に指導を続ける。
「その後のことも考えなければなりません。助かった五人からは感謝されるでしょうが、殺された人の家族や友人知人からは恨まれるでしょう。文字通り、『人殺し』と詰られるでしょう。あなたはそれに耐えられますか?」
「……」
耐えられない。香は素直にそう思う。
怪異探偵として様々な経験を積んできたが、香は人を殺したことはない。『人を殺す』とはどういうことかを、よく理解できていなかった。
「これこそが、『トロッコ問題』の本質です。レバーに触れた瞬間、あなたは人の命に責任を持たなければならないのです。一人の命を奪ったという事実を、背負い続けなければならないのです」
「……」
先生は首を動かし、香の方を向いた。
相変わらず目元は見えないが、両目で睨まれている。香はそう認識した。
「過去は変えられません。現実は実験のようにやり直せません。詭弁で第三の選択肢を選べば、取り返しのつかないことになります」
「……」
先生は責めていた。とんちで逃げて、本質を考えない香のことを、責めていた。
「あなたの場合、最初から最後までトロッコを脱線させることしか考えていなかった。分岐点までの時間はあったのに、これから人を殺すことへの覚悟について、全く思慮が及んでいなかった」
「……」
その通りだった。香には返す言葉がなかった。
最後に、先生は血の滴る口をゆっくりと開け、言った。
「あなたが、殺したんですよ」
「……さんっ、雛……んっ、起きて!雛菊さんっ!」
遠くから声がする。軽い力で体を揺さぶられる。
香はゆっくりと目を開ける。先ほどまで路線を、先生の体を見ていたはずの両目を覆うまぶたを、ゆっくりと開けた。
「……ここは?」
白い部屋だった。白いノートのページ、白いペンケース、白い長机、白い壁、白いドア、白いホワイトボード、白い天井。
そして目の前には、同級生の財前優斗が立っていた。
「もう、まだ寝ぼけてるの?ここは倫理基礎の講義室だよ。まあ、今日は休講だけど」
「休講?先生は?」
「当然来てないよ。連絡あったけど、見てなかった?」
そういえば、あったような気がする。
香はポケットからスマホを取り出し、電源をつける。大学の学生用の授業支援サイトを開き、メールの受信箱にあったお知らせを開く。
「『四月十三日の授業は休講とします』、ですか……」
「気づいた?今日は休講なんだよ。だからほら、講義室には僕と雛菊さんしかいないでしょ?」
優斗に言われて周りを見ると、確かに室内はがらんとしていた。顔の分からない先生も、『トロッコ問題』の図を映すスクリーンもない。
そして、香が先生を殺した線路の風景も、当然なかった。
「夢、だったんでしょうか……」
「それより雛菊さん、急がないと!次の時間は必修だよ!休み時間になっても講義室に来ないから、念のためここまで来てよかったよ。雛菊さんが机に突っ伏して寝てたから」
「ああ、そうでした」
そうだ。ここは私が通う大学内の一室だ。講義が始まる前の休み時間にここに着席してから今日の授業が休講であることを知り、空き時間を利用してそのまま自習していたんだった。
香は思い出しながら、広げていたノートとペンケースを、隣の席に置いていたトートバッグに詰めていく。
「行こう」
席を発って早足で歩く。優斗の後についていき、廊下に出た。
去り際、香は後ろを振り返って扉を閉める。忘れ物はない。
「夢でよかった……」
講義室の中は無機質に白いまま、閉じられたドアに遮られていき、やがて見えなくなった。
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『次のニュースです。昨日午前五時すぎ、日本鉄道交通の京進線内の、明和大学前駅と花見公園駅の間の線路上で、女性が亡くなっているのが発見されました。死因は、電車に撥ねられたことによるものと見られます。周囲に踏切はなく、京進線は昨日、ダイヤ通りの運行で終電まで終えたことから、警察は女性が亡くなった詳しい経緯について、今後捜査を進めていく方針です』。




