『土に還る』
『土に還る』
一
大学二年生であり、怪異探偵でもある雛菊香は、同級生で助手(?)の財前優斗と友達の高校一年生、梅川春魅とともに、某県の山間までやってきていた。
「高速で一時間、降りてからさらに一時間半。電車の方がよかったんじゃないの?」
「電車だともっと時間がかかりますよ。優斗さんが朝はゆっくりしたいと言いましたよね?」
「……はい、確かに言いました。運転するから、こっちの方が大変だったよ」
「こうも言っていました。運転なんてどうにかなる。それよりも一秒でも長く寝ていたい、と」
「……はい、確かに僕の発言です」
前日のやり取りをなぞるかのように繰り返す助手席の香と、運転席の優斗。二人の間には、確かな信頼があった。
私も優斗さんみたいに……。会話に微笑みながら、春魅は後部座席で悶々としたものを抱えていた。
「春魅さんはどうですか?」
「えと、なにが……?」
「疲れていませんか、計二時間半も狭い車内に閉じ込められて?」
「閉じ込めるって、人聞きの悪い……」
香は優斗を無視し、ルームミラーに目をやって聞いた。
理知的で冷静で、大きめの瞳がちっぽけになった少女を射竦める。
「バスとは違うんだね。ほんとに狭い」
「梅川さんまで!」
率直に思った感想を述べると、優斗が吠えた。
「年下なんだから、敬語は要らないって。香さんもだけど」
「親しき仲にも礼儀あり、って言うでしょ?せめて名前だけは敬意を払わせてよ」
「まったくの同感です」
ハンドルを操りながら、自身の広い交友関係が生んだ教訓を披露する優斗。香は村外れの景色を見据えながら、追従する。
陸路の旅はもうすぐ終わろうとしていた。自然の中に畑や掘っ立て小屋などの人工物が混じり始め、村が近くなってきたからだ。
上り坂やカーブが多い山道が穏やかになっていく。開けた視界の遠くに住宅の集合が見える。
「あそこだね。とりあえず公民館でいい?」
「はい。まだ時間に余裕がありますので」
カーナビの画面の左上で時刻を確認し、香は応えた。
今まさに到着しようとしている小さな村には、旅館や民宿などの宿泊施設がない。そのため、香は事前に村の公民館に問い合わせ、使われていない部屋と設備の一部を借りる許可を得たのだった。
「距離を置いているわけではありませんよ」
幅の広くなった道を走り、畑と木造住宅が入り乱れる村の中に進みながら、香はぽつりと言った。
「え?」
「春魅さんは大事な友達です。友達になって日が浅いから敬語なのではなく、いやむしろ、私は信頼の証として敬語を使っています。敬意を表するのが普通というか、身近なことなんです。探偵と助手をやっているからなのかもしれませんが」
「僕まで含めないでよ。僕は、話し言葉はフランクだからね。名前はその人を体現する言葉だと思ってるから、年下や後輩にもさんとかくんとかをつけるってだけで」
「香さん……。ありがとう。私のことを大事に思ってくれて」
「ちょっと、僕は?」
「過去になにがあったとかは、過度に気にしすぎなくてもいいんです。ある程度反省したら、今と未来に活かせばいい。ありのままが一番ですよ」
「うん。香さんのために、友達のために、私がんばる。香さんの力になりたい。それが、私のありのままに思ってることだから」
「頼もしいですね。肝心なところで役に立たない誰かさんと違って」
「なんで?なんで、無視されてるのに刺されるの……?」
女の友情は、優斗の存在感より強いということなのだろうか。おいたわしや、優斗。
「着きましたね」
「……うん、やっと着いたよ」
「素敵な建物……」
約一名、色々な意味でボロボロになりながらも、三人を乗せた車は公民館前の駐車場に止まった。エンジンを切り、シートベルトを外してから、各々外に出る。
「やっぱり多いですよ、優斗さん。依頼が長引くにしても、三日分の着替えがあれば十分なはずです」
「いやいや、雛菊さんが少なすぎるよ。どうして、そんな小さなリュックに三日分の着替えが収まるの?」
「企業秘密です」
「企業秘密って、企業じゃないじゃん……」
「言葉の綾です。私はフリーランスで個人事業主ですから、あながち間違いではありませんよ。収納術も仕事に関わることですし」
「そう言われれば、確かに……?」
極めて単純な性格をしている優斗は、香によっていかようにも転がされるのであった。
「ふふっ」
そして、そのやり取りを見て笑う春魅。二人と知り合ってまだ数週間だが、三人の間には既にこのような『お決まりの流れ』が構築されていた。
心地良い。楽しい。喜びに満ちあふれていて、嬉しくもある。春魅は幸せな気分でいっぱいだった。
血塗られた過去はもう過去のものだ。これから起こることは心地良く、楽しく、嬉しいことばかりだ。春魅はそう信じている。香と、優斗と、それを分かち合いたいと純粋に思っている。
そんな春魅の荷物は、大きいスーツケース一つと無骨なデザインのリュックサック一つだった。両手に一つずつ旅行カバンをぶら下げ、登山用の大容量リュックサックを背負う優斗と、おしゃれな中くらいの大きさのリュックサックを軽々身につける香の、中間くらいの量と体積だろうか。
「重くないですか、春魅さん?」
「引いてるから大丈夫」
「ねえ、僕は重いんだけど」
「自業自得、因果応報という四字熟語がお似合いです」
「ひどい!」
「ふふふ」
三人は雑談に花を咲かせ、公民館の前に到着した。
「すみません、ご連絡差し上げた雛菊と申します」
誰もいない受付窓口に声を張って尋ねると、奥から「は~い!」という声が返ってきた。
「わざわざありがとうねぇ〜、こんなところまで!」
人の良さそうな、ふくよかなおばさんだった。妙に高めの話し言葉で香たちを歓迎する。
「お部屋行くわよね、案内するからねえ!」
「ありがとうございます」
おばさんの職員は回り込み、窓口の脇にあった扉を開けて出てくる。
「野宮です。よろしくね」
「よろしくお願いします。雛菊香です」
「財前優斗です。数日間お世話になります」
「梅川春魅です」
軽く自己紹介をし、一同は廊下を進んだ。
野宮によると、一階の奥の二部屋が空いているそうだ。
「畳張りの和室と、木の板張りの硬い床の洋室なんだけど、いいかしら?」
「はい、構いません。お布団を借りられるのであれば」
「それはもちろんよ」
お客様を雑魚寝させるわけにはいきませんから!そう陽気に言い、野宮は手前の扉のノブを捻った。
「十六畳一間の広々空間、床の間つきよ。昔はここで、ヨガとかお茶道の教室を開いていたわねえ……」
「素敵なお部屋ですね」
香は微笑み、扉を押さえる野宮の誘う手に招かれて中に入った。優斗、春魅も続く。
「布団はそこの押し入れに入ってるのを使って。洋室にはないから、今持ってっちゃった方がいいかも」
「じゃあ、失礼します」
レディファーストの因果で硬い床で眠ることが確定している優斗が、誰にともなく確認を取りながら押し入れのふすまを開けた。
中は厚い板材で上下に分かれていた。典型的なタイプの押し入れだ。上にはマットレスと毛布と掛け布団がみっちり詰まっていて、下には折り畳まれたちゃぶ台が入っている。
優斗は両腕を突っ込み、一人分の布団一式を拝借した。
「それじゃあ、もう一部屋に行きましょうか」
「私は念のため見に行きますが、春魅さんはここで待っていてもいいですよ。すぐに戻ってきますので」
「ううん、私も行く」
荷物を部屋の隅に置いた香と春魅は、和室を出る野宮と優斗の後に続いた。
「『どこに手がかりがあるか分からない』、だよね?」
「ふふ、そうですね」
香が春魅に言った探偵としての教訓を、二人は想像していた。
和室の隣の部屋が洋室だった。和室と同じくらいの面積だが、フローリングの床だ。
「ここが洋室ね。主人と出会ったのが、ここでやってた社交ダンスのレッスンだったのよねえ……」
「思い出の場所ですね」
勇斗も顔を綻ばせ、布団と荷物を床に置いた。
三人は身軽になった。
「それじゃ、お茶は和室でいいかしら?」
「お構いなくと言いたいところですが、お言葉に甘えて」
「のど渇いちゃって……」
「私も……」
三人は遠慮がちに応えた。
「分かったわ。しばらく待っててね」
そう言い残し、野宮は洋室から出ていった。
三人は隣の和室に移動する。
「それでは、手分けをして依頼を調査しましょう」
「え、分かれるの?」
「はい、優斗さん」
押し入れからちゃぶ台を取り出し、脚を立たせながら頷く香。
「怪異が発生したと思われるお宅へお話を聞きに伺うのも大事ですが、なにも起こっていない周辺住民への聞き込みも侮れません。なにが怪異を暴く鍵になるか分かりませんから」
ちゃぶ台が立った。香は正座、優斗はあぐらをかき、春魅はいわゆる『お姉さん座り』で腰を落ち着けた。
「確かにそうだけど、結構家があったよ?村と言いつつ世帯数がちゃんと確保されている、過疎とはほど遠い……」「優斗さん」
これから押しつけられるであろうことに対して、がんばって大変さをプレゼンし始めた優斗に、香はしっかりと告げた。
「周辺住民の聞き込み、お願いします」
「え、でも……」「お願いします」
香は四十五度ほど頭を下げ、さも申し訳ないという風を装う。
「え……」「お疲れでしょうが、お願いします」
「あ……」「お願いします」
「い……」「お願いします」
「う……」「……」
「『うん』って言わせようとしてるっ!?」
優斗は驚愕した。香の強かさに、驚愕せざるを得なかった。
「……はあ、分かったよ。夕食おごってよね?」
「それはもちろん、いくらでも」
香の声色が弾み、笑みが深くなったのを見て、優斗は敵わないなと思った。惚れた弱みというやつだ。
「それじゃあ、私と香さんで、依頼者さんの家に行く感じ?」
「いえ、春魅さんには別のことをお願いしたいです」
香は春魅の方を向き、彼女の問いに応えた。
「いいよ、なんでもやる」
「……春魅さんには、この村の歴史を探ってもらいたいです。公民館に残されている資料に目を通して、怪異が関わっていそうな情報をピックアップする。それをお願いしたいです」
なんでもやる。それこそ、人殺しさえも。
軽く言ってのけた春魅の一言に底なしの冷たさを感じた香は、内心動揺した。
「失礼します」
扉を開け、野宮が入ってきた。三つの湯呑みと急須の載った盆を持っている。
「ありがとうございます」
香たちは礼を言い、お茶を受け取った。
「近所の商店で売ってる安物だけどね」
「とんでもない。頂けるだけありがたいです」
若いのにしっかりしてるわね!野宮は快活に応えた。
「本当にいいの?ご飯用意してないけど……」
「商店か定食屋さんに伺いますので問題ありません。寝泊まりできる部屋を貸して頂いただけで、充分ありがたいです」
「そう。……お風呂は好きなときに使ってね。掃除したけど、ちょっとぼろいわ」
「ありがとうございます」
「一階の一番奥にあるから。パネルも浴室の近くにある。使い方は大丈夫?」
「はい。迷うことはないと思います」
事前の連絡で、寝泊まり、入浴、トイレなどは公民館の設備で行えることを把握していた。なので、香はハキハキと受け答えできている。
「それじゃ、"カウンセラー"の雛菊さん。美佐子をお願いね」
「はい。彼女と息子さんがおかしくなった原因は、必ず私が突き止めます。"メンタルケア"はお任せください」
わざとらしく胸を張り、野宮が部屋を出ていくのを見送る。香はゆっくりと扉を閉め、一呼吸ついた。
ただ事前の連絡では、どうしても解けない誤解があった。
「ちょっとちょっと、カウンセラーってどういうこと?それにメンタルケアも……」
早速優斗が突っ込んできた。とはいえ事情を察してか、声を抑え、若干上半身をちゃぶ台の上に乗り出してながらだ。
「そういえば香さん、探偵って名乗ってなかったよね」
春魅が核心を突いた。
「そうです。これが、二人に周辺情報を集めてほしい理由でもあるのですが……」
香はお茶で口の中を潤してから、
「……依頼者は『不思議なことが起きた』と依頼されてきたのですが、村の方々はそれを勘違いか、頭がおかしくなって世迷い言を言っている、と決めつけています。よって、かなり慎重に動く必要があります」
「村人の前で『怪異探偵』を名乗るのはリスキーだと感じたから、探偵とは明かさずにカウンセラーを装ったわけね」
「そうです。この村に来た目的も、依頼者とその家族のメンタルケアとなっています」
「おっけー。私たちもなにか偽った方がいい?」
香の説明と自分たちの事情を難なく理解した春魅が聞く。
「そうですね。私は東京の大学に通う心理学専攻の大学院生兼駆け出しカウンセラーと偽っているので、二人は同じ学科の友達という体でいきましょう。春魅さんには大学生のイメージが難しいかもしれませんが、いいですか?」
「任せてよ。香さんみたいに振る舞えばいいでしょ?」
「……まあ、そうですね」
少し不安な気持ちもあるが、香はゴーサインを出した。
「心理学専攻ね。……あなたの心、読めました!はっ!」
隣にもっと不安な人がいた。
両手を掲げて虚空に念を送る優斗を見て、香は溜め息を漏らすのだった。
二
三十分後。三人は各々の目的のため、別行動を開始した。
公民館を発った香は、人の腸のようにぐねぐねした道を上っていき、山の一番高いところにある依頼者の住まいを訪れた。
大きな木造住宅だった。かなり古そうだ。築三十年、もしかしたら半世紀はいっているんじゃないだろうか。
玄関扉の反対側、家の奥には土と石と木がひしめく山肌がむき出しになっている。家の左側、山肌の手前の地面は平らに均してある。庭だろうか。庭の隅、家の外壁に接するように位置する犬小屋と、その中でおとなしくしている犬種不明の犬が見えた。家の右側には車が停めてある。灰色のSUVだ。詳しい車種は香には分からない。家の外壁から一メートルほど離れた位置に横付けしてある。
「ごめんください!」
インターホンの類は見当たらない。香は三回玄関扉をノックし、声を張り上げた。
「はーい!」と、くぐもった声。ぱたぱたという音。扉の向こうに影が現れる。気配が引き戸に手をかける。
ガラガラと扉がスライドし、やや老けた女性が姿を現した。落ち着いた若草色のタートルネックセーターに、一切の飾り気のない黒いタイトスカート。化粧をしていない顔に浮かぶしわやしみが目立つものの、表情はきりっとしている。見知らぬ者の来訪に対する警戒心が窺える。
優しそうではあるが、ちゃんとするところはちゃんとする。そのようなしっかり者の性格を、香は女性の外見から読み取った。
「あら、どなた?」
「怪異探偵の雛菊香です」
「あなたが探偵さん?ずいぶん若いわねえ……」
今度は偽らざる身分を告げると、女性は品定めするような視線を香の全身に注いだ。
「若輩者ですが、腕は保証しますよ」
香は臆することなく告げた。
「先日亡くなったはずの飼い犬が蘇ったという不思議な出来事を、必ずや解明してみせます」
「……あなたは、信じてくれるのね」
「あらゆる可能性を信じ、また疑うのが怪異探偵の仕事ですので」
「まあ……」
女性は言葉を失っているようだった。周囲の無理解はよほどのことらしい。香は悪い方向へと認識を改めた。
「ぜひ息子さんと一緒に、お話をお聞かせください」
「……上がって」
まずは、信頼を勝ち取るための第一歩と言ったところだろうか。依頼者に不審がられることなく、話を聞けそうだ。
香は靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて家の中に入った。女性によって、廊下を進んですぐ左手にあるリビングに通される。
「昇太を呼んできます」
「はい」
手で促されたので、香は革張りのソファの手前側に腰を下ろした。
リビングは整頓されている。一対のソファがローテーブルを挟み、右の壁際にテレビを乗せたキャビネットがある。ダイニングも兼ねているようで、香から見て左側に背の高い木製の椅子とテーブルのセットがある。椅子は全部で四脚で、左右に二脚ずつ分かれている。背の高い椅子の左手前と右手前の二脚の尻を乗せるところに、それぞれ男性用、女性用と思しき無難なデザインのクッションが敷いてある。家族の定位置だろう。ということは、女性と息子の昇太の二人暮らし。事前に聞いていた情報と一致する。
ローテーブルの上にはリモコンがいくつか入ったかご。リモコンは、テレビのとエアコンのと、キャビネットに収まっているビデオデッキのものだと見られる。背の高いテーブルには白いクロスが敷いてあり、中央にはお菓子の乗せられたお盆、そしてどちらのテーブルにもボックスティッシュが置かれている。
エアコンは右側上、テレビの真上に設置されている。今はついていない。正面には大きな窓があり、すぐ向こう側が縁側になっている。その奥は外から見えた庭が広がっている。犬小屋の赤い屋根もかろうじて見えた。
背の高い椅子とテーブルセットの向こう側はキッチンになっている。冷蔵庫、コンロ、シンク、食洗機、電子レンジ、各種調理器具と調味料の入ったプラスチックのケース。特段おかしなものはない。奥の壁際は二つの食器棚が占めている。
総じて、一般的な家庭のリビングダイニングか。部屋の観察を終えた香は、情報を反芻しながら家の主たちが戻ってくるのを待った。とはいえ、階段を降りる音が近づいてきたのでもうすぐだろう。
「お待たせしました。柿元美佐子と、息子の昇太です」
中肉中背の男性、昇太を引き連れ、昇太の母親、美佐子は香の対面のソファに座った。昇太は美佐子の左に腰かける。
「SNSで依頼してくださったのは昇太さんですよね。この度はありがとうございます」
香は笑いかけながら、さりげなく昇太の容姿を確認する。
ボサボサの少し長めの黒髪。寝ぼけた丸顔。着古したスウェットの上下。靴下も黒。
依頼では自分のことを『三十のニートの引きこもり』と言っていたが、恐ろしいほどにその通りの見た目をしている。決して口にも表情にも出さないようにしながら、香は思った。
「……怪異、って言ったらいいのか分からないけど、不思議なことも扱ってるって書いてあったから」
嗄れた低い声で、昇太は応じた。ひどくだるそうだ。
「教えてください。飼い犬の、ヤマトさんが蘇ったとか。繰り返しになりますが、なるべく具体的に」
「ああ……」
軽く咳払いをし、時系列を思い出すように中空を見つめながら、昇太は話し始めた。
「二週間は経ったかな、二週間前に、うちで飼ってるヤマトが亡くなったんだ。老衰だった。亡くなる前から弱ってた。麓の町の獣医の先生に定期的に診てもらってたから、その、亡くなった原因に間違いはないと思う」
「その言い方ですと、ヤマトさんの正式な死亡診断はされなかったということですか?獣医さんに立ち会ってもらわなかった?重要なことなので聞いています」
「ああ。今となってはそうしておけばよかったと思ってるよ。ここで看取ったから、先生を呼ばなかったんだ。でも俺と母さんで呼吸をしていないのを確認したし、ヤマトの、遺体はぴくりともしなかった。亡くなっていたんだ、そのときは……」
昇太は泣きそうになりながら言った。隣の美佐子も沈痛な面持ちで頷いている。同意の意思表示か。
「それならきっと、そうなのでしょうね。私は信じます。ヤマトさんはそのとき確かに亡くなった。ではその後、どうなったのでしょう?」
「ヤマトを埋めた。弔ってやろうと思って、庭に埋葬したんだ。亡くなった次の日に」
「なるほど。そのときは、美佐子さんも一緒だった?」
「はい。作業したのは昇太ですが、私も立ち会いました」
「お二人でヤマトさんを埋葬したのを確認した、と」
「ああ」
美佐子も昇太も冷静に、話を披露してくれる。それは香にとってありがたいことだった。
「埋葬は何時頃に行いましたか?」
「朝の八時だ。いつも散歩に行く時間だったから……」
「そうですか」
努めて感情を出さないように、香は相槌を打つ。
「不思議なのはここからだ。ヤマトを埋葬した次の日の朝。もういないのに散歩のために、玄関から出た俺の目の前に、ヤマトがいたんだ。元気そうなヤマトが、おすわりして待っていたんだ」
「それで、蘇ったと考えたわけですね」
「ああ」
昇太は少し間を置いた。興奮する自分を抑えつけるように。
「……見た目はヤマトそのものだった。俺も母さんも、もちろん最初は疑った。ヤマトに子どもはいないが、どこかで作ってきたのかもしれないって。いなくなったこともここ数年はないけど、放し飼いしてたから、可能性はなくはないかなって……」
「ヤマトさんはオスですか?メスですか?」
「オスだ。去勢はしていない」
「なるほど。それなら考えてしまいますね」
もし子どもがいたとしたら、ヤマトがメスであれば妊娠の兆候や外見の変化が現れるはずなので、誰の目から見ても明らかだっただろう。しかし、ヤマトはオス。隠し子の可能性を排除できない気持ちは、香にも理解できた。
「だが、おっかなびっくり近づいて触れ合ってみると、その犬はヤマトだってことに気づいた。首輪をしてたんだ。赤くて、長い骨の形をした金属のアクセサリーがついている首輪を。ヤマトが生前つけていた首輪を」
「その首輪は、一つしかないのですか?」
「そのはずだ。麓の動物病院で買った」
「もしかして、ヤマトさんを埋葬したときに、首輪も一緒に?」
「ああ。手向けとして、つけたまま埋めたのを覚えている。なのに、蘇ったヤマトにもついていたんだ。同じ首輪が」
「それは確かに不思議ですねえ……」
香は思案顔を作った。
「ここからはもっと不思議だ。ヤマトは若返っていたんだ。念のために動物病院で診てもらったら、五歳だと言われた」
「ヤマトさんはおいくつで亡くなられたのですか?」
「十七だったと思う。人間でいう結構な年寄りだったのに……、五歳まで若返ったんだ」
「なるほど……」
約十二歳分若返ったということか。その犬が本当にヤマトだとしたら。
「失礼ですが、はっきりさせないといけないので質問します。埋葬されたヤマトさんのご遺体は確認されましたか?若いヤマトさんと出会って以降に」
「ああ、したよ……」
昇太はどこか観念したかのように、開き直るかのように声色を変えた。
話の核心か。香は悟った。
「動物病院から帰ってきてから、おそるおそるヤマトを葬った地面を掘り返してみたんだ。でも、なかった。ヤマトの体も、首輪もなかったんだ」
「それは、美佐子さんも確認された?」
「ええ……。私も、なにもない穴の中を見ました」
急に話を振ってみたが、美佐子は動揺することなく応える。
「以上が、二週間前に起きたことの顛末だ」
「お話しくださり、ありがとうございました」
香は軽く礼をすると、窓の外を見た。
「現在のヤマトさんはお元気ですか?」
「ええ、見せた方がいいか」
「ぜひ」
重い腰をゆっくり上げる昇太に合わせ、香も徐々に立ち上がった。
二人で窓際に立つ。昇太が窓の錠を解除してカラカラカラと窓を開けると、すぐに茶色い犬がぴょんっと縁側に飛び乗った。
毛並みや顔つきは柴犬に似ているが、毛の茶色が濃い。ひっきりなしに動かしている舌はきれいなピンク色で、目の輝きも毛の艶も良好。確かに若そうだ。
「ヤマトだ」
昇太はしゃがみ、ヤマトの頭をもみくちゃにする。
そして首筋の毛を倒して、
「首輪もほら、ある」
さらに輪を指でたどり、
「骨のアクセサリーも、ほら」
香に分かりやすいように見せる。
「本当だ、ありますね」
二人はヤマトと別れ、窓を閉めてソファに座り直した。
「雛菊さん。ヤマトは本当に、蘇ったんだろうか?あの犬はヤマトなのか?本当にヤマトなのか?」
身を乗り出しながら、香に問う昇太。
彼の、今のヤマトへの愛情と猜疑心、その両方が伝わってくる。
「そうですね……」
対する香は、もったいぶった調子で行くことにしたようだ。
「はっきり申し上げますと、情報不足です。さらに私からいくつか質問してもよろしいですか?」
「それは、もちろん」
昇太は居住まいを正して応えた。
「ありがとうございます。それでは、まず一つ。高齢のヤマトさんが最後に採血を行ったのはいつですか?その血液検体が残っていれば、今のヤマトさんとDNA鑑定が行えると思いますが」
「俺もそれは考えた。でも駄目だった。最後の採血は三ヶ月前で、動物病院では血液は一ヶ月間しか保存していないらしく、廃棄されて残っていなかった」
「そうでしたか」
上手くいく方が珍しいので、香は特に気落ちしなかった。昇太は消沈しているようだが。
「お二人とも、運転免許を持っていらっしゃる?」
「はい?」
「表に停めてあった車を運転されていますか?昇太さんは車で町に行っているように思われますが、美佐子さんはどうでしょう?」
「ええ、私も免許は持ってます。昇太の具合が悪いときは、私がヤマトを診せに行ったり、買い物したりします」
急な質問の転換に戸惑う昇太を横目に、美佐子は伏し目がちに応えた。
「では、ヤマトさんの死亡の届け出は、どちらがなさいましたか?」
「母さんだが……。俺に気遣ってくれて、代わりに行くと言ってその日中に死亡届を出してくれたけど、それがなにか?」
「では今、記録の上ではヤマトさんは亡くなったことになっている?」
「まあ、そういうことになるけど」
「では、若いヤマトさんは前のヤマトさんではないというわけですね。記録の上では」
「そうだけど……、なにが言いたいんだ?」
焦れったくなり、昇太が聞いた。
「それでは、狂犬病ワクチンは打ちましたか?若返ったヤマトさんを獣医さんに診せたときに」
「あっ!?」
昇太は立ち上がりそうな勢いで驚いた。
「ねえ探偵さん、そのことがなんの関係が……」「ヤマトが若返ったと思い込んでたから、頭から抜け落ちていた!もしヤマトじゃなかったとしたら、ヤマトの子の野良犬だとしたら、大変なことになる!」
「一刻も早く、ワクチンを射った方が良いでしょうね。あの子がヤマトさんだという保証がないのだから」
「それを明らかにするのが、探偵さんのお仕事じゃないんですか?」
美佐子が突っかかってくるが、香はあえて無視した。
無視し、昇太を焚きつけた。
「今すぐ打ちに行った方がいいでしょう。診察の予約や料金を気にしている場合じゃない。飼い犬の狂犬病ワクチンの接種は飼い主の義務です」
「そうする!まだ閉まってないはずなんで!」
「昇太、私がい……」「私も行きます」
「え?」
昇太と美佐子の声が重なった。
「獣医さんに確認したいことがありますので、お車に乗せてください。手間が省けます」
香は図々しくもそう言い放ち、すっくと立ち上がって玄関に向かうのだった。
三
「ええ、ええ……、ありがとうございます。それでは」
香は顔からスマホを離し、通話を終了した。
「なにか分かったのか?」
昇太はハンドルをさばきながら、隣に座る香に聞く。
「この後話します。その方が都合がいいので」
「そうか……」
昇太は諦めた。
車に乗り込んでから麓の町まで降りてきたこの数十分もの間、昇太は何度も香に聞いた。なにが分かったのか、獣医になにを聞くのか、そしてなぜ、車に同乗してきたのか。
が、香は全然答えなかった。『この後分かる』としか言わなかった。
数分前に彼女のスマホに着信があり、なにやら話し込んでいたが、それもヤマトの蘇り、若返りに関係があるのか。昇太は気になって仕方がなかった。
「雨が降ってきましたね。昼間は晴れてたのに」
「山の近くだからな。この辺は天気が変わりやすいんだ」
応えつつ、ワイパーを作動させる。
「動物病院はもうすぐですか?」
「ああ、次の角を曲がったところ」
雨は豪雨という正体を表した。瞬く間に大粒の雨が車体を叩きつけ始め、お互いの声が聞こえづらいほどうるさくなる。
「着いた、停める!」
空いている駐車スペースにSUVを停め、香と昇太とヤマトは雨に煙る外へと出た。
「足元気をつけて!」
入り口前のステップに躓くことなく、二人と一匹は動物病院の中に駆け込んだ。
「まあまあ、風邪引きますよ!……って昇太くん?どうしたの?」
「ヤマトに狂犬病ワクチンを打ちに来ました」
「雛菊と申します。かかりつけ医の向田先生をお願いします」
「……分かったわ」
受付の女性はカウンターを回り込んでこちらにしようとしたが、踏み止まってデスクの上のキーボードを操作し始めた。その際、香に一瞬見咎めるような視線が送られたが、香は気づかないふりをした。
「どうぞ」
別の受付の人から手渡されたタオルで体を拭いていると、最初の女性が案内してくれる。他に利用者がおらず、手が空いているのだろう。
二人と一匹は清潔感のある廊下を抜け、『診察室』と書かれたプレートが掲げられた部屋の前に着いた。
女性が二度ノックし、スライド式の扉を開ける。
「院長、昇太くんとヤマトくん、それと雛菊さんをお連れしました」
「うむ、ありがとう」
向田獣医は白衣を着た恰幅の良い中年の男性だった。白髪の交じったもじゃもじゃ頭に熊のようなワイルドさと柔らかさを兼ね備えた顔立ち。べっこうの眼鏡をかけている。膨らんだ腹と短い手足も熊を彷彿とさせる。
「どうしたのかね、昇太くん」
獣医が立ち上がると同時に、後ろの扉が閉まった。受付の女性が退室したようだ。
「ヤマトに狂犬病ワクチンを……」「いえ、その必要はありません」
昇太の懇願に近い第一声を、香は遮った。
「探偵の雛菊香と申します。昇太さんと美佐子さんからお話は伺いました」
「雛菊さん?なにを言ってるんだ?」
「私もさっぱりだ。こちらのヤマトは蘇った。でも万が一別の個体かもしれないから、ワクチンを打ちに来た。そういうことだろう?」
「いいえ、違います」
香は向田ににじり寄る。
「"病院で受け持った別のメスの犬と交配させ、昇太さんに内緒でヤマトさんの子犬を産ませ、あたかもヤマトさんが蘇ったように見せかけた"のですから、ヤマトさんの子には既にワクチンが射ってある。そうですね、向田獣医?」
「……」
問われた向田獣医は渋面を浮かべ、香の問いに沈黙を貫いた。
「え?雛菊さん、どういうことですか?」
「全て壮大な芝居だったんですよ」
香は昇太と向田を交互に見据えつつ、短く息を吐いた。
「からくりはこうです。数年前、ヤマトさんは高齢により、命の危険があった。だから美佐子さんは、向田獣医にお願いしたんです。メスの犬をあてがってほしいと」
「待ってください。そもそもどうして、そんなことを?」
「あなたのためですよ、昇太さん」
香は真剣な面持ちで告げた。
「優斗さん、私の助手です、から先ほど報告を受けました。昇太さん、あなたは県内の公立大学を卒業した後、ブラック企業に就職してしまい、ハラスメントを受け心に深い傷を負って退職、家に引きこもるようになったとか」
「そ、そうだけど、それとなんの関係が……」「ヤマトさんはあなたにとって、癒やしの存在だった。アニマルセラピー、ペットセラピーという言葉は有名ですよね」
香は、向田に目線を送りながら言う。
釈迦に説法、大いに結構。それが事態の説明に、推理の披露に最も効率的な話し方であれば、香は躊躇なく選択する。
「家にこもりがちな昇太さんにとって、ヤマトさんと触れ合ったり、散歩に行ったり、こうして町まで遠出したりするのは、とても良いケアになっている。そうですよね、向田獣医?」
「……そうだな、その通りだ」
昇太のことをよく知り、なんとか彼を元気づけて社会に復帰させたいと願う向田は、鷹揚に頷くしかなかった。
香の推理は当たってしまっていた。
「ですので美佐子さんと向田獣医は、こう考えた。ヤマトさんが亡くなってしまったら、昇太さんが再び塞ぎ込んでしまうのではないか。そう考え、蘇りとも若返りとも言える今回の計画を練り、実行に移した。そうですね?」
「……」
向田は黙秘した。それが答えだった。
「始まりは数年前、なんらかの縁や都合で子どもを産ませられるメスの犬を確保したところからです。動物病院ですから、そう難しいことではないと思います。具体的にどう確保したのかは、実際に調べてみないと分かりませんが」
「……」
昇太は絶句していた。向田は沈黙していた。
香だけが話し続ける。
「その後、美佐子さんがヤマトさんを連れて来院したタイミングで、交配を行ったのでしょう。一回で妊娠するかは分かりませんので、もしかしたら数日に分けて何度か繰り返したのかもしれません」
「……」
「メスの犬が妊娠したら、この動物病院で秘密裏に、かつ大事に育てます。ヤマトさんそっくりの子どもを出産させ、その子どもも手厚く育てた。ヤマトさんそっくりの外見に育つまで」
「……」
「まさかとは思いますが、ヤマトさんに似た子どもが生まれるまで、今説明したことを繰り返してはいませんよね?もしそうだとしたら、それは命の冒涜です。人間のエゴです」
「……」
「……追及は後にしましょう。ヤマトさんそっくりの子どもが用意できたら、二人にとっては一安心です。それから時が経ち、ヤマトさんが息を引き取ったら、美佐子さんが死亡の届け出をすると言ってここに来院し、子どもを持って帰ってくる。埋葬したヤマトさんの遺体は夜中にこっそり掘り起こして、山の別の場所に埋めたんでしょう。首輪はそのときに回収した」
「……」
「最後に、ヤマトさんが亡くなった翌朝に昇太さんと子犬を出会わせることで、あたかもヤマトさんが若返って蘇ったように見せかけた。ヤマトさんは亡くなったのではなく、若くなって戻ってきた。昇太さんが塞ぎ込むことはない。そのはずでした」
「……」
「でも、昇太さんは美佐子さんに言わずに、私に依頼してしまった。『不思議なことがあったから調査してほしい』と。そのせいで、こうして真実が白日の下に晒されることになった」
「……」
「以上です。なにかご意見があれば、どうぞ」
「……」
「また、これはあくまで私の推理です。証拠はなに一つありません。あくまで、考え得る現実的な可能性の一つです」
香は話し終えると、一歩下がった。
「本当なのかよ……!」
代わりに昇太が震える声で、一歩踏み出した。
「向田さん、本当なのかよっ!本当に、そんな無茶なこと……!」
「……すまない」
遂に、昇太が向田の前に立つ。
その顔は泣いていた。涙を流し、自分のために使われた犬たちを、亡くなったヤマトを、そしてまだ若いヤマトの子どもを思っていた。
「俺が悪いのか……?俺がニートで引きこもりで穀潰しだから!迷惑ばかりかけて……!」
「……」
「そんなことないですよ」
「……え?」
「昇太さんにはなんの責任も、罪もないですよ。昇太さんのためとはいえ、美佐子さんも向田さんも、自分の意志でやったんです。これは二人の責任であり、罪です」
「でも……!」「れっきとした大人が、子どものせいにして責任を負わないなんてこと、許されませんよ。セラピーのためだからと、罪を被らないなんてことも許されません」
「……」
香は静かに怒っていた。無責任な母親に、おそらく罪に問えないであろう獣医に。
対して昇太と向田は、打ちひしがれていた。片方は受け入れなければならない真相を受け入れきれず、もう片方は深い自責の念が、言葉を発することを妨げていた。
重苦しい静寂が、小さな診察室を満たした。
四
「母さんと話し合ってみます」
村に戻る車中で、昇太はやっと言葉を発した。
「雛菊さんはああ言ってくれたけど、俺が社会から目を背けていたせいもありますから。今度は逃げずに、もうちょっとだけがんばろうと思います」
激しい雨の中、車が村の中に滑り込む。
香は、昇太の声を張った一言一言を傾聴していた。
大丈夫だろう。真実を知った今では、昇太がこれから先に取り得る選択肢は様々ある。だが、どんな選択をしても、昇太なら上手くやってくれるだろう。香はそう思っていた。
「それがいいでしょう」
なのに、胸騒ぎを覚えていた。雨粒の打ちつける音に不快感を感じ、気づけばスマホを取り出していた。電源をつけるわけでもなく、固く握りしめたまま。
「私は応援しますよ。力が必要なときは、またご贔屓にしてください」
自分の声が、自分のものじゃないように感じられた。励ましの言葉なのに、軽薄さすら感じる。
車は、幅広い道を右に左に曲がりながら上っていく。柿元宅が見えるのはもう少しだった。これから車で一旦柿元宅まで行き、香は傘を借りて公民館まで歩いて帰る手はずだ。
しかし、なぜだろう。なぜ私は、着いてほしくないと思っているのだろう。
最後のカーブにさしかかった。その瞬間、スマホが震える。
「もしもし、雛菊です」
フロントガラスのスクリーン上に、柿元宅の木造住宅が……、
「春魅です。重要なことだけ言うね。この村、かつては土着神の信仰が盛んだったみたい。で、村が山ごと県の所有になるまで、依頼者の柿本家が村長として土着神を祀り、村を運営していたそうで、それが美佐子さんの父の代まで続いていたって……」
「……」
「……で、美佐子さんの旦那さんは十年前に病死して、……香さん?聞こえてますか?」
土砂崩れに遭っていた。
昇太が帰るべき家が、美佐子が待っているはずの家が、奥から、山の高い崖からなだれ込んできた岩に、石に、木に、土に、砂に、飲み込まれていた。
「母さんっ!」
昇太が急ブレーキを踏む。シートベルトが斜めに食い込み、香は慣性で下を向いてしまう。道の手前側に、ガラスの割れた玄関の戸が転がっていた。
濡れるのも構わず、香と昇太は急いで車から出た。
ひどい光景だった。土砂が家一軒を破壊し、住人もろとも飲み込んでいた。平坦だった庭にもうず高く土砂の山ができていた。犬小屋など跡形もない。
昇太が玄関があったであろう場所で跪き、素手で岩や瓦礫を取り除き始めた。
無駄だ、とは言えなかった。土砂の下には、潰れた家の下には、母がいるはずなのだから。
「な、んでだよっ……!?」
小石をどかし、掘った土を投げ飛ばし、
「なんで、こんな……!」
砂を払い、折れた木材を引き抜いて、
「まだ、まだ親孝行も……できていないのに……!」
昇太は再び泣いていた。
力が次第に弱々しくなり、動かす手はやがて止まり、土砂と瓦礫の山の前で、地面に額をこすりつけるように体を折り、嗚咽を響かせるだけになった。
「……二次被害が想定されます。お気持ちは分かりますが、避難しましょう」
香は断腸の思いで、うずくまる昇太に言った。
※※※
翌朝。
公民館の和室で、香と春魅は洋間からやってきた優斗と昇太とちゃぶ台を囲んだ。
昇太は顔を泣き腫らしていた。目の下には濃い隈ができていた。寝ずに枕を濡らしていたことが窺える。
朝食は、冷めた弁当を電子レンジで温めて食べた。定食屋の女将と主人に気に入られた優斗が、多めにもらってきたのだ。だから昇太の分もあった。
誰もが物悲しい気分だった。勇斗も春魅も、濡れながら帰ってきた香の説明を聞いて、絶望した様子の昇太を見て、深く悲しんだ。
飼い犬のヤマトは蘇ったのでも若返ったのでもなく、美佐子と獣医による極秘のブリーディングがそう見せかけていただけだった。
そのことについて美佐子と話し合おうと戻ってきたら、家が土砂崩れに遭っていた。美佐子の姿がない。連絡も取れない。などという顛末。とても、耐えられようがない。昇太の悲しみと喪失感は甚大なものだった。
皆無言で箸を進め、十分もしないうちに食べ終わった。昇太は箸を持つことすらせず、あぐらをかいたまま放心していた。
「街へ続く道の途中で倒木があり、重機と救助隊が来るまでもう少しかかるそうです」
「……」
香は一応伝えたが、返事はなかった。
昇太はゆっくりと立ち上がり、ふらふらと扉の方に向かった。
「優斗さん、お願いできますか」
「うん……」
香は春魅を伴って、外に出た。公民館の裏手に回り、倉庫の鍵を開ける。
外は昨夜と打って変わって、快晴だった。
二人はそれほど広くはない、日の差さない倉庫の中に入る。
「野宮さんが言うには、なんでも使っていいって」
「鍵も貸してくださって本当にありがたいです」
昨日公民館に戻ってから、香は消防へ通報し、春魅は電話で、既に退勤していた野宮に事情を話した。事の重大さを理解した野宮は、倉庫の道具を使っていいと許可を出してくれたのだ。
「スコップとヘルメットと、ゴミ袋もあった方がいいか」
「懐中電灯と軍手と、……念のためつるはしも持っていきましょう」
中身を空にしたリュックサックに、必要だと思うものを詰め込んでいく。
「多すぎても持て余します。これくらいにして行きましょう」
「うん」
二人は倉庫を出た。スマホで時間を確認すると、八時すぎだった。
曲がりくねった道を歩きながら、二人は上にある元柿元宅を目指して歩いていく。
「地盤が緩くなってますから、絶対に無理はしないでください」
「分かった。焦りもしない。美佐子さんは助けたいけど、危険は侵さない」
消耗しないように急ぎながら、二人は安全を確認し合う。
数分後、無造作に道の途中で停めてある灰色の車が目に入る。昨日昇太と香が乗っていたSUVだ。ということは、あそこの角を曲がったら……。
車の近くまでやってきた香と春魅は角を曲がり、凄惨な土砂崩れの現場を視界に……。
「どういう、ことでしょう……?」
真新しい木造の住宅が、そこにはあった。
新築のように新しいという以外は、元の柿元宅と同じ形と大きさをした住宅が、そこにはあった。
「土砂崩れは……?」
春魅がこぼす。
庭も以前の通り、平らに均されていた。土砂も瓦礫も倒木も、なに一つない。犬小屋もぴかぴかだった。
理解ができなかった。できるはずがなかった。
一晩で家が建った?いや……。
"土砂崩れがなかったことになった挙句、家が新しくなった"?
「考えられることは……」
考えられることは、
「土着神の奇蹟……、いや……」
香は前に進み、ひび一つないガラスの引き戸を三回叩いた。
「ごめんください」
「はーいっ!」
溌溂とした、香には聞いたことのある声に、若さが加えられた声。ぱたぱたとスリッパの音。気配が近づき、扉の向こうに影ができる。引き戸がガラガラと開けられる。
「お待たせしました!……ああ、探偵の雛菊さんと、あなたは?」
「……梅川春魅です」
若草色のタートルネックセーターに、黒いタイトスカート。すっぴんの肌は弾力と張りがあり、しわやしみは一つもない。女性でありながら、きりっとした瞳と顔つきが逞しさを醸し出している。
そんな"二十八歳の柿元美佐子"が、香と春魅を出迎えた。
考えられることは……。
土着神による天罰。動物の命を粗末にし、息子を欺き続けた母親に対する天罰。
土に還った人間と家を新しくして現世に送り返すという、神による残酷な天罰。
「天罰……」
美佐子に聞こえないように、香は呟くことしかできないのだった。




