『闇の盟友』
『闇の盟友』
一
夢を見ていた。いつも見ている夢だ。毎日。
俺は暗くて狭い、穴の中にいた。
闇だ。穴の壁は四方八方、塗り潰された黒で塞がれていた。質量を感じる闇に囲まれていた。
上か前か、かろうじて見える穴の奥もまた、闇だった。しかし、穴の壁よりかは暗くない。
空間を感じる闇とでもいうべきか。穴の壁のような塗り潰された黒ではない、空気で希釈された暗さ。それが穴の奥にあった。
窮屈だった。だが、手足が動かない。
俺は身じろぎせず、ただひたすら待っていた。待てばいいと理解していた。
少しずつ、視界が前進し始めた。空間を孕んだ、ここよりは暗くない、でも暗い闇の方へと。
少しずつ、少しずつ。呆れるほどゆっくりと、俺は闇の方に進んでいた。だが俺は、それをじれったくは感じなかった。むしろ、安らかな気持ちで受け止めていた。
やがて、そのときが来た。穴から完全に抜け出したのだ。視界が一気に広がる。とてつもない開放感だった。
そして俺を歓迎する、三百六十度を取り囲む『地下室』の闇。
それと……。
「よくがんばったな、ニュイ」
男の、父さんの、不気味なくらい優しい声だった。
※※※
怪異探偵の雛菊香はとある人物に呼ばれ、都内の総合病院の入院病棟にやってきていた。
「畠山さん、お疲れ様です」
「ああ、忙しいところ悪かったな」
『満水』の件以来、およそ半年ぶりに顔を合わせた警視庁捜査一課一係の畠山巡査部長は、以前と変わらないお固いおじさんといった風貌をしている。
いや、心無しか疲れているような?LEDの照明が照らす白い廊下に立つスーツ姿の刑事の姿や表情から、得も言われぬ疲労感と緊張感が伝わってくる。
「どんな事件ですか?被害者がこの病室の中に?」
香は真剣な顔で尋ねた。
つい一時間ほど前、電話口で『とにかく来てくれ』と言われた香は、言われた通りに大学の授業を抜け出して病院までやってきた。つまり、なにも聞かされていない。
とはいえ、私を必要とするということはそういうことなのだろうと、香は察していた。
怪異が牙を剥き、本庁の人間が関わるような事件が発生した。そういうことなのだろう。
「ああ、それなんだがな……」
畠山は頭の後ろを掻きながら、反対の手で病室の扉の取っ手を掴む。
「事件というよりかは、事故に近い。いや、獣害か」
「獣害?獣ですか」
魂の中に獣性が詰まった、神に従う生命。天使の言葉でそう定義された獣の説明が、香の頭の中で反響する。
果たして今回は、盗まれた神性が関わっているのか。
「まあ、見てもらった方が早い」
畠山は右手に力を込め、
「ああ、くれぐれも他言無用で頼む。もっとも、誰かに話しても信じてもらえないだろうが」
「分かっています」
「よし」
今度こそ、畠山は扉を開けた。
病室の中が見えた途端、"暗くなった"。香と畠山がいた廊下の一角を満たしていた光が病室に吸収された、と言えばいいだろうか。闇が光を消費し、その分廊下が暗くなった。そう表現してもいいかもしれない。
比喩ではない。かといって論理的な説明も追いつかない。
ただ、暗い。病室には正体不明の闇が充満していた。
「入れ。漏れる」
「……はい」
闇が漏れる、という意味だろう。香はそう解釈し、畠山とともに病室に入った。
濃厚な部屋の闇が、二人の周りを取り囲んだ。
「明かり、ついているんですよね?」
「ああ、ついている」
香は照明のスイッチのある方を見て言うと、畠山は簡潔に応えた。
「なのに暗い、と」
「ああ。異常性は分かってもらえたか」
「ええ、十分に」
香はあちこちに視線を向けながら、これが自分の領分であることを確信した。
病室には四つの病床があった。左右に二つずつ。どこもベッドをぐるりと囲むようにクリーム色のカーテンがかかっている。
部屋の奥にはベランダ付きの大きな窓があるが、これにも分厚いカーテンがかかっている。
「こんなに暗いのなら、日の光を入れた方がいいと思いますが」
「いや、それはできない。これから説明することに関わってくる」
畠山は意味深なことを言い、右手前のベッドに近づく。
「山根さん、よろしいですか」
畠山が少し声を張って言うと、「はい」という弱々しい返事がカーテンの内側から発せられた。低い女性の声だ。
「失礼します」
恭しく申しおきをし、畠山がカーテンを開ける。
さらに闇が濃くなった。暗すぎて、ベッドの上で寝ているであろう山根の姿が、いやそれどころか、かけ布団とシーツの白色すらもはっきりと視認できない。
霧がかかるように、こちらに侵食してくる闇を体で受け止めながら、香と畠山はベッドの側に立つ。
「お加減はいかがですか」
「良くは、ないですね……。正直ひどくなってます」
闇に話しかけると、闇から返答が来る。
圧倒されるな、早く慣れなければ。香は自分に言い聞かせた。
「今日は捜査関係者を連れて参りました。お話を伺ってもよろしいですか?」
「はい……」
捜査関係者。私のことか。
出番を感じた香は、ベッドの上に象る闇にもう一歩近づいた。
かろうじて人の輪郭が見えるようになった。
「怪異探偵の雛菊香と申します」
「カイイ?探偵さんがどうして?」
「山根さんに起こっているその症状について、人より詳しい可能性があります」
「……そうなんですか?」
「はい。あなたを襲ったあの獣、おそらく怪異の一種は、我々警察がどうにかできる範疇の外に位置するものです。正直に言って、通常の捜査では解決の見込みが薄い。山根さんを苦しめる、異常性のある闇の晴らし方も見つけられないでしょう。私の独断ではありますが、そう判断して怪異探偵である雛菊さんをお招きしました」
「警察が、そんなこと言っていいんですか?」
「よくありません」
どこか責めるような山根の一言に、畠山はきっぱりと言った。
警察ではお手上げ。そう捉えられかねない発言を気軽にできるほど、二人の信頼関係は深いと見える。意味が分からないなりに、被害者に親身になって寄り添っていたんだろう、このお人好しの刑事は。
「申し訳ありませんが、一からお話して頂けますか。あなたを襲った正体不明の獣と、この闇について」
香は極力感情を込めず、あえて冷たく言った。
仲が良いのは結構だが、それは事前の説明無しに探偵を招いていい理由にはならない。畠山に対する抗議の意味もあった。
「警察が調べたことは私が伝えますので、山根さんは被害に遭ったときのことをお願いします」
「……はい」
山根は少しの逡巡の後、震える口調で話し始めた。
「三日前の夜、二十時くらいのことです。仕事が終わった私は、最寄り駅から家まで、徒歩で帰宅している最中でした」
この病院に入院しているということは、最寄り駅もこの近辺なのだろう。香は推測を巡らせる。
「近道のために、それほど大きくない公園を横切っていたときでした。不意に近くの植え込みがガサガサと揺れて……、化け物が飛び出してきました。公園は、夜でも街灯で明るいんですけど、化け物の周囲はちょうど今のこんな感じみたいに、暗くて……。化け物自体に至っては真っ黒でした。闇が濃く、黒く塗りつぶされたようになっていて、なにも見えなかったんです。ただ闇の大きさから、化け物は大型犬くらいの大きさをしているのは分かりました」
姿が見えないのに、それが化け物だと分かったのか。
香は逸る気持ちを抑え、なんとか口を挟まないようにした。
「それから化け物は、私に飛びかかってきました。私は押し倒され、あちこち引っかかれ、噛みつかれました。私は暗いことに理解が追いつかず、抵抗らしいことはできませんでした。そのせいで傷だらけに……」
三日も入院する羽目になったと。
不謹慎ながらも、香は考えることをやめない。それが仕事だからだ。
「のしかかられながらも、私は化け物から目が離せませんでした。とても暗かったですが、それよりも暗い、黒い毛並みがありました。黒い爪と、黒い牙、それと黒い目……」
ぞわり、と大きく体を震わせる山根。
「動物で例えるなら、ドーベルマンのような見た目でした。ほとんどが闇に包まれていましたが……。私はうずくまって攻撃に耐えていると、ふと、全身を押しつけていた重さがなくなりました。化け物が飛び退いたみたいでした。自由になってからも私は少しの間うずくまったままでいましたが、なんとか立ち上がって辺りを見たら、化け物はいなくなっていました」
「……ありがとうございます。お辛いでしょうが、怪我の経緯もお話し頂ければ」
話の頃合いを見て、畠山が先を促す。
「はい……。私の周りの闇は、化け物から負わされた傷から漏れています。引っかき傷と噛み跡からです。一応ここでお医者さんに診てもらって、止血はしてもらったんですけど……。傷が塞がらないんです。かさぶたができず、代わりに闇が出てくる。絆創膏を貼っても、ガーゼを当てても、包帯を巻いても、それらの隙間から闇が滲み出て、周りを暗くするんです」
怪異であることは間違いなさそうだ。闇をこの目で見て、獣に襲われたという証言もある。他の、現実的な可能性を疑う余地はないだろう。
「お医者さんも看護師さんも『意味が分からない』と言っていました。どんな処置をしても傷は塞がらず、闇が染み出てくるので、今日まで入院しています。それに……」
山根は一呼吸置く。言いにくいが、一気に言ってしまおうという意志が表れていた。
「……日光が、駄目になったんです。太陽の光を浴びることも、昼間外に出ることもできなくなりました。傷が疼くんです。日向に近づいただけで、全身の傷が痒くなるんです」
「なるほど」
傷が治らないだけでなく、ある種の光線過敏症にも陥ったということか。だから、病室のカーテンを閉め切っていると。香は納得がいった。
「日光以外の明かりは大丈夫だそうなんだが、ご覧の通り、部屋のLEDライトをつけても、傷口から出てくる闇に負けて少しも明るくならない。怪我の経過観察などは明るさの強い手術用照明を駆使し、なんとかこなしている状態だ」
畠山が付け足す。
彼が話を引き継いだということは、山根の話は終わりか。
「事情は分かりました。山根さん、お話し頂きありがとうございました」
「……はい」
香はベッドサイドから離れ、畠山に案内されて病室を出た。
「似たような経緯で『闇の獣』に襲われ、入院しているのは山根さんも含めて四人だ。全員この病室で休んでもらっている」
「四人とも病院の管轄内、この周辺で襲われたのですか?」
「大体そうだ。異常性が発覚する前は、病床数の関係で近くの別の病院に運び込まれたこともあったが、後からここに転院してもらった」
「情報漏洩を防止する観点からですね?」
「ああ……」
場所を変えよう。
畠山はそう言って、香とともに病院の白く明るい廊下を歩き始めた。
二
「おはよう、ニュイ」
父さんの声で終わった夢から覚めたら、母さんの声がした。
一切の光源のない、暗い部屋。『地下室』の中央に置かれた大きなベッドに、俺は寝ていた。母さんが傍らに立っている。
「朝ご飯なににする?お腹空いたでしょう」
「トーストがいい。目玉焼き乗せたやつ」
「カリカリに焼いたハムもね。分かったわ」
母さんは微笑んで、ぱたぱたとキッチンの方に駆けていった。
俺はかけ布団を剥ぎ、体を起こした。足を横に投げ出して、スリッパを履きつつ立ち上がる。いつもの癖だ。
「顔、洗っちゃって」
「うん」
カウンター越しのキッチンから、俺と向かい合うように立つ母さんの声。卵を割り、じゅうじゅうとフライパンを熱しながら、俺にシンクを勧める。これも毎朝繰り返していることだった。
俺はふらふらとキッチンに向かって歩く。水道の水で顔を洗い、ふかふかの白いタオルで顔を拭く。少し目が覚めた。
近くの棚に置いてある食パンの袋から一枚取り出し、トースターに入れる。
「今日も仕事、母さん?」
「うん、ごめんね」
父さんと入れ替わり。母さんはそう漏らした。これも、普段と変わらなかった。
「地下室から出ちゃ駄目よ?」
トースターから食パンが吐き出されるのを待っていると、母さんが言った。
「分かってる。母さんと父さんを悲しませたくない」
産まれたときから、ずっとこの部屋に住んでいた。
『地下室』。ベッドとキッチンと、テーブルと椅子と、サンドバッグと洗濯機とシャワーと浴槽とトイレがある部屋。上に続く階段がある部屋。
朝起きると母さんがいて、母さんがいなくなると父さんがやってくる部屋。俺が二人と話して、日々を過ごすための部屋。
そして、ずっと暗い部屋。明かりのない部屋。闇で満たされた部屋。
産まれてから十三年の間、俺はこの部屋で暮らしている。父さんと十三回誕生日を祝ったから、間違いない。
どうして、この部屋にいなければならないのか。『上』は、外の世界はどうなっているのか。気になったことは何度もあるが、どうでもよかった。
地下室から出てはならない。母さんと父さんがそう言うのだから、子の俺は従うだけだ。母さんに褒められ、父さんの自慢の子であり続けるために。
チーンッ!と、目の前の機械から音が鳴った。
「今日もおいしくできたわ」
ニコニコ笑顔の母さん。
熱いままフライパンを持ってきて、俺が皿に置いたトーストの上にハムエッグを乗せてくれる。
「はい、できあがり」
俺は幸せだった。
椅子に座って、テーブルの前でハムエッグトーストを食べた。母さんは向かいの席で、微笑みながらその様子を見ていた。
※※※
被害者の山根から話を聞いた十分後。病院の一階にある喫茶店で、香と畠山はテーブルを囲んでいた。
「山根さんの件も含めた四件の事故は、いずれもこの病院の管轄内か、隣接する病院の管轄内で起きている。今のところは、だが」
「警察は、化け物、闇の獣の存在や危険性が世間に漏れないよう、この病院に被害者を集めているのですね」
「身も蓋もない言い方をすると、そうだな。被害者の傷が闇を出すという特異性もあり、別々の病院に置いておくだけでも情報漏洩の可能性が高いと判断した」
「病院の人たちや利用者を信用しないのはいいことですね」
香は真顔で言い、ホットコーヒーに口をつけた。
「捜査の話をしましょう。警察は、この町か隣接する町に闇の獣がいると睨んでいるわけですよね。事故が発生した場所から鑑みて」
「そうだ」
「目星はついているんですか?事故現場の遷移や目撃情報などで」
「これも正直に言うが、全くついていない。四件の事故は現場も日付けもバラバラで、例えば、現場が西から東に遷移しているなどのプロファイルができそうな要素がない。強いて言うなら、四件とも夜中に発生している、ということくらいだ」
山根さんのも含めた、四件の事故の詳細情報は要るか?一応捜査情報なんだが。
そう続ける畠山に、香は、後でメールでくださいと澄ました顔で言った。
「目撃情報もあるが、これは逆に多すぎて使えない。異なる時間帯、日付けで、この町のほとんどの通りの茂みや公園、雑木林、田畑などで複数人に目撃されている。全て日没から明け方のうちに、『黒っぽいなにかがいた』とか、『高速で動く闇を見た』とかな」
「それだけ目撃情報が多いのに、隠蔽しようとし続ける意図はなにかあるんですか?」
「それが闇の獣という怪異であり、危険性があると世間に認知されていないからだ。目撃情報のほとんどは交番へのタレコミやSNS上の発信だった。それらの話や文章を見るに、目撃者は闇の獣が一応動物であり、人に危害を加える可能性があることまでは勘づいていないようだった。決定的な写真や動画も、運良くまだ撮られていない。だから、今のところは情報統制しようということになっている」
「なるほど」
分からないことだらけだが、できるなら、市民の不安を煽ることなく、内々で闇の獣を処理したい。警察のそうした思惑が透けて見えてきた。
「相手が動物であるという観点からのアプローチは、なにかしていますか?」
「オフレコでしている。都内の動物生態学者や分類学者、獣医やトリマー、ハンターなどに片っ端から聞いてみているが、誰も分からないようだった。一部では相手にもされなかった。警察だって、本当のことだって言ってるのにな」
「まあ、荒唐無稽ですからね。闇を纏う獣なんて」
「全くだ」
畠山は頷き、ブラックのホットコーヒーで乾いた口を潤す。その所作には、若干の疲れが滲んでいた。
彼も駆り出されたわけだ。本来は人間が犯した殺人や強盗を捜査するはずの、捜査一課までもが。
ことの深刻さは重大なようだった。香は思う。
「被害の現場では獣の痕跡は発見できましたか?」
「色々と見つかってはいる。足跡、抜けた毛、唾液、歯形などだ。毛と唾液からDNA鑑定も行ったが、既知の生物との一致は見られなかった。遺伝子型はイヌのものと近いらしいが、どの犬種とも違うと」
「それらの証拠を専門家に見てもらったりは?」
「した。話が通じて、かつ口の固い何人かに。でも、彼らにも分からんそうだ。逆に、新種かもしれないと生物の先生に言われたよ。目を輝かせてな」
「災難でしたね。学術的興味が湧くのは分からなくもないですが」
「こっちは聞き込みや見回りの強化でてんてこまいだってのに、呑気なもんだ」
畠山は大きな溜め息を吐き、白いマグカップを煽った。
「それで私に、なにを依頼するのですか?怪異として闇の獣が存在するというのは、すでに明らかかと思いますが」
「分かってるだろ。言質を取ろうとしてるな」
「なんのことでしょう」
香は視線を外して言う。
畠山はもう一度溜息をつき、真剣な目つきになった。
「前と同じだ。これは警察組織としてではなく、俺個人の依頼になる。闇の獣を探し出してほしい」
「動物探しですか。単なる犬や猫、それと人なら経験はありますが」
「これだけの人員と時間を割いても見つからないんだ。もう、正規のやり方では見つかる見込みが薄い。雛菊さんの怪異探偵としての腕を見込んで、お願いしたい」
「"怪異探偵"として、ですか……」
香は唸った。
これまで現実主義だった畠山が、実在するとしか思えない闇の獣の被害を受け、怪異の存在並びに怪異探偵としての雛菊香を認めてくれた。
これは大きな進歩だった。怪異を調べる上で、警察関係者との強力なコネができたも同然だからだ。
そこまで考えたところで、香は立ち上がった。
「分かりました。やってみます」
報告はできるだけ逐一行います。あまり期待しないでお待ちください。
香はそう言い残して、テーブルをあとにした。
依頼の前金は、彼女のコーヒー代になった。
三
「ただいま、ニュイ。いい子にしていたか?」
「うん」
母さんが階段を上って『上』に行ってからしばらくして、父さんが地下室に下りてきた。
精悍な顔つきに柔らかい笑みを浮かべて、俺を労ってくれる。
「食事は……、目玉焼きとトーストか。相変わらず卵が好きだな」
キッチンに向かいながら、父さんはそう言った。
冷蔵庫を開け、手にぶら下げているビニール袋の中身を中に詰めていく。野菜、肉、果物。卵のパックもあった。
「暗くて見づらいが……。野菜はそんなに減っていないな。駄目だぞ、ちゃんとバランスよく食べないと」
「野菜、苦手。おいしくない……」
「そうか。でも、それじゃあ立派な大人になれないぞ。父さんみたいな、立派な大人にな」
「……それは困る」
「それじゃあ、野菜も食べるんだぞ?」
いつの間にか、父さんは俺の目の前にいた。大きな右手がぽんと、俺の頭に乗せられる。
「分かった」
「よろしい」
乗せた手をぽんぽんと上下させた後、軽く一回撫でてから、父さんの手は離れた。
その手は冷たかった。俺の手よりも、母さんの手よりも。
なぜだか、俺の背中に冷や汗が走る。
「掃除はしているか?父さんあまり見えなくてな」
「してる。たまにだけど」
「そうか」
小さく頷く、父さんの頭の様子がはっきりと見える。
今日のように、父さんは週に一、二度、母さんが帰った後にやってくる。いっぱいの食材を持ってきて。
「体は動かしているか?この前持ってきたサンドバッグは気に入ったか?」
「うん。ちゃんとやってる」
「そうか。洗濯はどうだ」
「それもばっちり」
母さんと違い、父さんは俺のことを心配してばかりいる。いつものことだが。
「そうか、ならいい」
「……」
矢継ぎ早の質問が止み、俺と父さんの間に静寂が訪れた。 聞くなら今しかなかった。
「なあ、父さん……」「地下室から出ていないな?」
俺の質問に変貌しそうな発言を遮って、父さんが聞いてきた。
暗闇に並ぶ鋭い両の目が、地下室のどこよりも暗く、黒かった。
「……出てない」
「そうか」「父さんっ」
俺に背を向けて階段の方に一歩踏み出した父さんに向けて、俺は声を投げかけた。
「ど、どうして地下室から出ちゃいけないんだ?『上』にはなにがあるんだ?」
「上は危険でいっぱいだ。ここよりもずっと危険で、ニュイは子どもだから危ない。だから……」「母さんもそう言ってた」
今度は俺が、父さんの話を遮る形になる。
「でも、でも俺、十三歳になったし、トレーニングもしたし、体力もつけた。強くなった。危なくても俺なら……」「な、なにを言っているんだ、ニュイ?」
父さんが目を見張った。俺を好奇の目で突き刺す。
そして、言い放った。
「"お前の母親は、お前を産んでからすぐに亡くなったぞ。お前の教育方針に口を刺してきたから、俺が殺した"」
冷たい声で、そう言い放った。
「え……?」
一瞬、父さんの言ったことの意味が分からなかった。それくらい、『殺した』という単語が自然に父さんの口から出てきた。
嘘だ。母さんがいないなんて。
俺に寄り添ってくれて、笑顔で微笑んでくれて、顔を洗ってと小言を言って、目玉焼きを作ってくれた母さんが、いない?
信じられなかった。信じることなんてできなかった。
首筋を走る鳥肌が、全身に駆け回るのを感じた。
「いい年になったから教えてやろう、ニュイ」
聞きたくなかった。
「『産まれたときから一切の光を与えられずに育てられた人間は、どう育つのか?性格が歪むのか?闇をなんとも思わなくなるのか?』。そんな俺の中に生まれた小さな興味を検証するために産まれてきたのがお前だ、ニュイ。言い換えれば、実験結果以上の価値はお前にはない」
「どう、いう……、どういう意味だよ……?」
「言葉通りの意味だ。もう一度言うか?」
冷たく問うてくる父さんに、俺はかぶりを振る。
俺が、なんだって……? 父さんの、興味を検証するため……?実験結果?
理解ができなかった。意味が分からなかった。
「……それでわざわざ、こんなに広い地下室のある別荘を買った。わざわざ、金で言いくるめられそうな女を買った」
なんだ?
理解できないのに、俺の胸に広がるこの感情は……。
一体、なんだ?
「その女を妊娠させ、ここで産ませたのも、光を排除するためだった。どこかで聞いたことがあるからな、赤子は産道の出口を光として認識すると」
あの夢は、暗い穴から地下室に出てくるあの夢は。
俺が、産まれたときの、夢?
「なのにあの女、『やっぱりやめる』と言った。産まれたばかりのお前を連れて、『上』に、別荘の外に出ようとした。だから、殺した。あの女から産まれたばかりのお前を引き剥がし、その辺にあった置物かなにかで頭を殴って、殺した。死体は別荘の庭に埋めた」
「冗談、だよな……?じゃあ俺が、俺が目覚めたときに、毎朝いた母さんは……」
自分の声が掠れていた。
興味の検証。実験結果。『産まれたときから一切の光を与えられずに育てられた人間は、どう育つのか?』。
これらの言葉が頭の中で、ぐるぐると渦巻いていた。
「お前の幻覚だ。お前は母親と会えるはずがないのだから」
幻覚。
母さんは、幻覚。渦を構成する要素が、また一つ増えた。
「寝ぼけていたのかもしれないし、日光不足、セロトニン不足のせいかもしれない。はたまた闇の中にいすぎて、頭がおかしくなったのかもしれないな」
父さんは、俺が父さんだと思っていた男は、今にも笑い出しそうになりながら言った。
奇しくも、常日頃ポーカーフェイスだった男の感情らしい感情が見えた、初めての瞬間だった。
俺は……。
俺は、こんな男の、子なのか……?
「まあなんにせよ、流石に誤魔化しきれなかったな。もう十三だしな、少しは考えられる頭になっているか」
「……」
「好奇心は抑えられまいか。実験データは充分に得られた。べらべらと話し過ぎたしな……」
ああ。 この感情は……。
俺がこの男に抱いている思いは……。
「……殺すか」
男が懐から刃物を取り出す。
父親だと思っていた人間からの殺意を浴びながら、同時に、胸のうちから湧く殺意を迸らせながら。
俺は部屋の隅に置いてあるダンベル目指して、素早く走り寄った。
※※※
畠山から『闇の獣』事件の依頼をされる前日。
香は偶然にも、山根の入院する総合病院にやってきていた。
「人探しをしてほしい、ですか」
「ええ。なるべく急ぎで、他言無用で」
一階の喫茶店。香の対面、畠山が明日座ることになる席には、白衣を着た一人の男性が腰掛けていた。
ここの医師のようだった。左胸のネームプレートに、内藤克也と書いてある。
「小児科医の内藤と言います」
依頼主の内藤医師は、始めに礼儀正しく自己紹介をした。
今回は、ちゃんとしたアポのある依頼だった。内藤は、SNSを通じて香とコンタクトを取ってきた。
依頼を聞く限りでは緊急性が高いものの、仕事が忙しいらしい。それならばと香は、昼休みの間に彼の職場であるこの病院のカフェスペースで会うことに決めていたのだった。
「娘が家出をしまして、探偵さんに探してもらいたくて」
「人探しのご依頼ですね。……娘さんは十三歳だとか。十分幼いですが、警察には届け出ましたか?」
「もちろん」
内藤は頷きながら言った。
その目からは感情が読み取れなかった。子を思うが故のストレスのせいか、それとも……。
いつもこうなのか。香は邪推を働かせる。
「警察の人も探してくれているのでしょうが、どうにも心配で。お伝えした通り、娘は二日前の夜に家を飛び出したきり、見つかっていません」
「失礼ですが、その傷は……」
「……はい。娘に突き飛ばされて、棚にぶつけてしまいました」
内藤の額の右側、左目の上の辺りに大きなガーゼが当てられているのを、香はそれとなく尋ねた。
「なるほど。やんちゃ盛りですね」
「お恥ずかしながら、我が子なのに手綱を握れていません」
実の子をじゃじゃ馬扱いとは、単なる言葉の綾なのか。それとも、世の父親はこういう言い方をするものなのか。
香は、引っかかることをまた一つストックした。
「ご依頼の意向は分かりました。続いては、娘さんの捜索に必要な、個人的な情報をお聞きしたいのですが、よろしいですか?」
「……はい、大丈夫です」
内藤は、左手首の腕時計に視線を落としながら言った。
右利きか。香は瞬時に記憶する。
「ありがとうございます。ではまず、娘さんのお名前を教えて頂けますか?」
「……ヤコです。夜の子と書いて、夜子」
なぜ。
なぜ、実の娘の名前を言うだけなのに、手間取っている?
「……内藤夜子さんですね。次は、夜子さんが家出されたときの外見をお聞きします。どんな服装だったか、荷物を持っていったか。あと髪型も教えてください」
「はい。服は上下ともに、黒のスウェットです。荷物はなにも持っていないと思います。スマホも財布も置きっぱなしでした」
「なるほど」
「髪は……、分かりません」
「分からない?」
疑問がもう一つ増える。
「……ああ、分からないというのは、今の娘の髪型が、という意味です。しょっちゅう髪型を変えるんです。腰の辺りまで伸ばしたかと思えば、次の日にはおかっぱ頭にしてたり、それで……」
「家出当夜、内藤さんは夜子さんと喧嘩なさったんですよね?そのときの髪型を教えてください」
「……肩くらいの長さの髪を、ポニーテールにしていました」
「髪の色は、黒でよろしいですか?」
「はい……」
なぜか安堵しながら、内藤は溜め息を吐くように首肯した。
「靴は?」
「はい?」
「夜子さんは、どんな靴を履かれていますか?家出の際に履いていった靴です」
「あ、ああ……」
ここでも内藤は渋面を作り、間を置いた。
なぜ、そんなに悩む?なにを迷うことがある?香の疑心が更に深まった。
「……黒のスニーカー、いや、裸足で出ていきました」
「裸足で?靴が置きっぱなしだったのですか?」
「はい、そうです……」
視線を彷徨わせながら応える内藤。
「あと念のため、娘さんの身長と体重を教えてください」
「……分かりません」
「分からない?」
「恥ずかしがって、私に教えてくれなかったんです。なので、分かりません……」
「奥様も知らないのですか?」
「え?……ええ、妻も知らないと言っていました」
母親は健在と。
「では、大体で構いません。何センチメートルくらいで、痩せているのか中肉中背なのか、太っているのか。およそでいいので教えてください」
「背は……、百三十センチくらいです。痩せている方だと思います」
だと思う?娘のことを知らなすぎではないか。
「……ありがとうございます。娘さんの外見は掴めました。続いて、内藤さんのご住所はどこになりますか?夜子さんとお住まいの住所です」
「……それ、必要ですか?」
内藤が嘯くように言った。
「はい?……ご住所を中心に捜索範囲を決定するので、できればお教え願いたいなと思っていますが」
「……家の周りは私と妻で探しました。それでも見つからないのでお願いしているんです」
香は頬を掻きながら、
「……つまり、ご住所は秘密になされたい?」
かろうじて、このような言い方しかできなかった。
内心、もっと強い言葉が出そうなのをこらえるので精一杯だった。
「はい。……自宅周辺は私たちや警察の人が何回も探しているので、探偵さんのお手を煩わせる必要はないと思って。この病院の近辺ではあるのですが」
「そういうことでしたか」
そういうことに、しておく。
「では、最後にお尋ねします。夜子さんが行きそうな場所に心当たりはありますか?」
「ありません。子どもの体力ですし、そう遠くには行っていないと思うのですが……」
「自転車は?」
「はい?」
「夜子さんは自転車に乗って出ていかれましたか?聞くのを忘れていました」
「あ、ああ……。徒歩です。自転車には乗れないので」
「十三歳ですが、乗れないのですか?あまり考えたくはありませんが、放置された自転車を盗んで乗ることもないですか?」
「ありません」
内藤は、やけにきっぱりと言い切った。
大の大人を突き飛ばせるのに、自転車に乗れないくらい運動神経が悪い?
「……そうですか。ありがとうございました。お聞きしたいことは以上です」
「ありがとうございました。……もう行かなくちゃ、それでは」
急ぎで、他言無用でお願いします。
内藤は再度念を押し、小走りで去ってしまった。
彼のコーヒー代は、残された香が払うことになった。
四
「だ、ぼああっ!」
暗闇の中、男が呻き、頭の右側を押さえる。
俺の振り下ろしたダンベルが命中したのだ。
「あ……くぅ……!」
今しかない。俺は走り出した。
男の脇を抜け、階段を目指す……。「ふざ、……けるなあっ!」
男とすれ違う瞬間、男はでたらめに右手を振るった。ナイフを持った右手を。
「いたっ!」
俺は左の二の腕を切られた。痛みで一瞬体が止まりそうになるが、気合を入れて無理やり足を動かす。
階段にたどり着き、上へ上る。途中で振り返ると、男はうずくまって静止していた。前を向き直す。
木製の温かな階段を上り切り、『上』へとやってきた。
『上』、別荘の一階は、とにかく明るかった。
俺は目が眩むのを必死でこらえながら、まっすぐ伸びる板張りの廊下を走り出す。
廊下の終端に扉があった。金属と木材が使われたおしゃれな扉だった。
俺は扉の前まで迫り、止まった。取っ手を掴み、押してみる。開かない。何度か押してみても、駄目だった。鍵がかかっている。
早くしないと、男が来る!
俺は焦りながらも、扉をよく観察してみる。すると取っ手のすぐ下に、つまみのようなものがあった。
これか?『上』の扉では、これが鍵なのか。俺は、トイレのドアのつっかえ式の鍵しか知らない。
悩みながら俺はつまみを握り、捻った。
カチャッという音が鳴る。鍵が開いたのか?
俺は再び扉を押してみる。
ガチャッ、キイイイ。開いた。
これが、外の世界……。
背の高い緑と茶色の柱がいっぱいある。奥の方には、俺が出てきた建物と似ているものがもう一つあった。そして上には、青いもの。白いなにかが浮かんでいて、模様みたいだ。
扉の敷居をまたぎ、一歩踏み出す。冷たい。裸足の足の裏に、ジャリジャリとしたものが触れる。たくさんだ。
なんだろうか。足を持ち上げて確かめたい気持ちをどうにか抑える。
今は、逃げなくては。ここではないどこかに逃げて、外の人に助けてもらう。
外の世界が危険なんていうのは嘘だ。男の戯言だ。
俺はそう断言し、明るい道を走り始めた。男の気配はなかった。
ジャリジャリとしたものが敷いてある道を走って、疲れたら歩いて。その繰り返し。白く光る道は、果てしなく続いていた。眩しいことこの上ない。
だが俺は、諦めなかった。足を動かすのを止めなかった。白いものを踏みしめ、緑と茶色の柱たちの間を駆け抜けていく。 人の気配はない。男の気配もなかった。
「……!」
少し振り向いて、気づいた。血が落ちている。男の刃物で切られた左腕の袖が裂けており、血が流れ、手を伝い、指の先から滴り落ちていた。血の赤が、眩しくて白い地面の上に等間隔で彩られている。
走るのに精一杯で、流血に気づかなかった。俺は速度を緩め、右手を左の二の腕にあてがう。ずきりと、今更になって痛みが主張してきた。
寒さも押し寄せてきた。吐く息が白いことに気づく。でも止まれない。ここではないどこかに、逃げなくてはならない。俺は歩き続けた。
しばらく道を進んでいると、視界が開けた。眩しい。緑と茶色の柱たちがなくなり、前方の景色が青い空気と、緑色の地面と、白い道になった。
私は進むにつれて下っていく道の先に、奇妙なものを見つけた。棒だ。黄色と黒の棒が、道の脇に立っている黄色と黒の柱から伸びている。棒は道と平行に伸びており、道の右半分を塞いでいた。通れないようにしていた。
これはなんだ?疑問を感じ、俺は棒の前で立ち止まった。前を見ると、左奥にも棒と柱があった。奥の棒は、道の左半分を塞いでいた。
さらに奇妙なのが、棒と棒の間の道だった。道は少し盛り上がっているが、ちょうど棒と棒の中間辺りは平坦になっている。その平坦な道に、溝が二本、道と垂直な方向に刻まれている。
あの溝はなんだろう。俺は右の方を向いてみる。溝は道の端まで続いていて、その先には規則正しい間隔で置かれた木の板の上に敷かれた金属の線に繋がっていた。
この線はなんだ?石でいっぱいの地面の上に、右のずっと奥の方まで続いている。石でいっぱいの地面の両側は、これも奥まで続いている白くて低い板で区切られている。板の外側は緑の地面だ。
さらに遠くではほとんど見えないが、手前側の板の延長線上に、壁のない部屋みたいなものがあった。地下室とは全然違うが、床と壁と天井らしきもので構成されている。
今度は反対を向いてみる。壁のない部屋がない以外、右を向いたときと似たような景色が広がっていた。
でも、違うところもあった。遠くて、眩しくて見えにくいが、なにか黒いものが、金属の線の上に乗っている。どんどん大きくなってくる。
カンカンカンカンカンカンッ!「うあわあっ!」
急に近くで音が鳴り、俺は飛び退いた。視野を手前に戻す。
音は、右と左奥の柱から出ているようだった。柱の上にある、丸い平べったい二つの目のようなものが、交互に赤く光っている。依然として音は止まない。
更に、別の音も聞こえてくる。ゴトゴト、ガタガタという音。地面がかすかに揺れるのを感じる。左から聞こえる、感じる。
俺は左を見て、驚愕した。黒い大きな塊が、すぐそこまで来ていた。空気を押し除け、金属の線の上を滑りながら、黄色と黒の棒の向こう側、道の溝の上を通り過ぎていく。
わけが分からなかった。母さんと……、男が、外は危険だと言っていた意味が分かった。
黒い塊は大きいだけじゃなく、長かった。それと速度を落としているらしい。
目が乾くのを感じながら見ていると、尻尾の部分がはっきりと視認できた。尻尾には黒い塊は下半分しかなく、平らだった。その平らな面の上に、等間隔で大きくて四角いブロックのような塊がいくつも置かれていた。
分からないことだらけだった。目に焼き付けるので精一杯だった。男に追いつかれるかもしれないという恐怖は、いつの間にか消えていた。
黒い塊の尻尾の先が、溝の上を通過した。
代わりに俺の心を満たしていたのは、好奇心だった。未知であふれる外の世界に、興味と感動を抱いていた。
「……よし!」
俺は意を決して、一息に黄色と黒の棒を飛び越えた。眼前に尻尾の先が来て、それから……。
楽しくてワクワクしながら、俺は尻尾の先端に飛び乗った。
※※※
内藤医師と話した二日後、または畠山刑事と話した次の日。香は、件の総合病院の付近の通りに立っていた。
横断歩道手前で信号が青に変わるのを待っている風に装い、スマホで畠山に電話をかける。
「はい、こちら畠山。どうした、探偵さん」
「お願いがあります。昨日訪れた病院に勤務する、小児科医の内藤克也さんの住所を知りたいのですが」
「内藤?小児科医だって?」
畠山の困惑が声に滲み出ていた。
「その医者先生が、闇の獣と関係あるのか?」
「いえ、直接的には関係ありません」
「おいおい、それじゃあ……」
「ただ、事件を解決するのに彼の住所が必要です」
「どうしてそう言い切れる。根拠は?」
「秘密です」
「……」
通話相手が沈黙した。
「……推理を明かすまでは、手の内を見せないつもりか。どっかの名探偵みたいに」
「そう受け取ってもらって構いません」
ハア。スマホからおじさんのため息が漏れた。
「分かったよ、分かった。これから病院に向かうから、一時間くらい待ってろ。分かったら折り返す」
「ありがとうございます」
「それにしても、なんで昨日会ったときに言わなかった?二度手間だろう」
「……流石に、昨日の今日で嗅ぎ回るのはどうかと思いまして」
香は小声で言い訳した。
「あ?聞こえない」
「……その医師にたどり着いたのは、畠山さんと別れた後でしたので」
「そうかい」
適当に並べた嘘に、畠山は不満たらたらに応えて通話は終了した。
それから小一時間の間、香は昨日夜に畠山からもらった闇の獣事件の詳細情報を基に、襲撃現場や目撃場所を巡った。が、特にめぼしい発見はなかった。
「そろそろですかね」
病院から五百メートルほど北西にある、そこそこ大きな公園内のベンチに腰を下ろすと、ちょうどスマホが鳴った。
「雛菊です」
「探偵さん、この内藤って医師は何者だ?」
「それを今、調べています。住所を」
「……後で必ず教えてくれよ」
畠山は、内藤の住所をゆっくりと言葉にして伝えた。
「そこって……」
「鋭いな、探偵さん」
畠山は鼻で笑って、
「内藤の家は、闇の獣の四件の襲撃場所のほぼ中心にあるんだ。どの現場からも近い」
「新たな点が打てて、プロファイルに値する共通点が浮かび上がりましたね」
「ああ」
畠山は面白そうに、けれどもなにか面白くなさそうに相槌を打つ。
「なあ探偵さん。闇の獣の件に、内藤医師が関わっているのか?この人は、子どもに優しいって看護師さんは言っていたが……」
「関係はないでしょう」
「は?ない?」
「直接的にはありません。今の段階では、それだけしかお伝えできません。確実ではないので」
「……そうか、悪い」
「ありがとうございました。ああ……」
香は話を締めにかかったが、最後に付け足した。
「くれぐれも、内藤さんの家周辺の見回りは強化しないようにしてください。闇の獣は、私が捕まえます」
「捕まえる?危険だぞ、やめ……」「では」
ぶつ切り。
これこそぶつ切りと呼ぶにふさわしい、にべもない通話の終わらせ方であった。
香はその足で内藤家を直撃し、実に有意義な情報を得た。
内藤に子どもはいたが、娘ではなく息子であること。その息子は家出などしていないこと。内藤の妻は夜子という女の子を知らないこと。聞いたこともないこと。週に数回、内藤は飲み会で帰りが遅くなること。随分前に隣の県にある別荘を一戸、購入したこと。にも関わらず、内藤は妻と息子を別荘には近づかせないこと。怪しく思った妻が内藤に内緒で訪れたが、別荘の中には怪しいところがなかったこと。内藤家では闇の獣はおろか、ペットを飼っていないこと。飼っていた経験もないこと。
香は自らを小児科の研修医と偽り、これらの情報を内藤の妻から引き出した。
「なるほど」
内藤家から十分離れた道の真ん中でマップアプリを開いて、内藤が所有する別荘の最寄り駅を調べる。そしてその最寄り駅と病院の、この付近の最寄り駅が隣接しており、かつ線路でつながっていることを確認した。
さらに、この路線を検索にかけてみる。すると路線を走る列車は、旅客用の一般的な電車の他に、主にコンテナを輸送する貨物列車も走っていることが分かった。
今、点と点が繋がった。
あと分からないのは……。香はスマホを閉じ、周りを見渡した。
そして見つけた、なんの変哲もない一軒のコンビニに、吸い込まれるように向かっていった。
五
その日の夜。香は夜子と一緒に、畠山から電話を受けたときに座っていた公園のベンチに並んで腰かけていた。
「よくここまでがんばりましたね、ニュイさん」
「怖いけど、楽しかった」
香の左で夜子、いやニュイがぎこちなく微笑んだ。
公園の街灯が、周囲の遊具を、茂みを、公衆トイレを、ベンチを、そして香とニュイを明るく照らしていた。
「もう一度お聞きします。ブロックのようなものが積まれた黒い鉄の塊、すなわち貨物列車に飛び乗ってこの町にやってきたのは、四日前の朝で間違いないですね?」
「うん。未菜が四回出ていって、四回帰ってきたから」
この一言が意味することは、未菜、バイト先のスーパーでニュイを保護した女子大生、が住んでいる家に、未菜が四度行き帰りをしたということだ。
未菜はバイトの他に、近所の大学に通っている。ニュイを保護したのがスーパーのバイト中で、ニュイを家まで連れ帰り、未菜はバイトに戻った。それが一回目の『出ていった』の一カウント。次に『帰ってきた』のは、バイトからという意味だ。一カウント。
そしてその翌日、翌々日、二日後においては、未菜は大学に『出ていき』、『帰ってきた』が三カウントずつ。
最後に、初日から三日後、すなわち今日の朝、未菜が五回目に『出ていき』、スーパーで働いているところに、香が聞き込みをしにやってきたのだ。
「未菜さんのお家は安心できましたか?」
「うん。地下室みたいに暗くなくて、光と明かりがいっぱいで、これが外の世界なんだって思った。最初は父さ……、男が来るかもしれないとも思ったけど、そんなことないってなぜか安心できた。実際にも来なかった」
「巡り合わせに感謝したい気分ですね。未菜さんを見つけることができたのも僥倖でした」
「ぎょうこう?」
「運が良かった、という意味です」
香は目を細めてニュイに語りかける。
ニュイが貨物列車に無賃乗車して隣駅のこの町にやってきたと推理した香は、すぐに付近のコンビニ、スーパー、ドラッグストアなどに聞き込みを行った。子どもが入りやすく、かつ食べ物がありそうな店に絞り、駅前から病院にかけて虱潰しに当たった。裸足で黒い服を着た女の子を見かけなかったか、店員や客に徹底的に聞いて周った。
その結果、二日前にニュイを保護していた芹澤未菜というバイトの女子大生にたどり着いたのだ。
「俺がおかしいのは分かった。学校?に通ってなくて、戸籍?がなくて……。でもそれ以上に、あの男がおかしいのも……」
「自分を責めてはいけませんよ。ニュイさんはなにも悪くありません」
「うん……」
ニュイは顔を落として小さく、力強く頷いた。
香は笑った。
「それで、なにを待っているんだ?もしかして……」「内藤さんではありませんよ。ニュイさんはあの人に二度と会わなくていいんです」
香もはっきりと言った。
「もうすぐ来るでしょう。夜の闇が更けてきた、もうすぐ」
「……?」
ニュイが可愛らしく小首を傾げたところで、近くの茂みがガサガサと揺れた。
「来たようです」
香が言い終わる前に、茂みから闇が飛び出してきた。
目に見えて辺りが暗くなる。街灯の光が薄まり、弱まり、ほとんど意味を成さなくなる。
「危険……!」
ニュイが奥の闇を指差して言った。
「見えますか?あれはまあ、特殊な犬みたいなものです。外の世界には人間以外にも動物がいて、その一種類です。暗いのは……」
「母さん……?」
夜目の利くニュイは、闇の獣の向こう側に立つ人影に呼びかけた。
「……せっかちですね」
香も遅れて気づく。
黒い、暗い。輪郭が闇に溶け込んでいる。足元は見えない。影を纏うかのようなドレスに身を包んでいる。袖から見える両手と、襟の間から立つ首と頭だけが、対比で一層白く見える。
彼女が……。
「闇の神様。そうお呼びすればいいですか?」
「闇の神でいいわ、神の遣い。いや、天使の協力者と呼んだ方がいいかしら」
女性が、闇の神はそう言って口元に手を当てる。
手前の闇が蠢いた。闇の獣が、その場で『おすわり』をしたのだ。
「一週間ほど前から闇の獣がこの町に出没したのは、ニュイさんを保護するためだった。内藤の魔の手に捕まる前に、どうにかして保護したかった」
「だいぶ無茶をしたわ。闇を、私の一部を獣として現世に具現化するのは想像以上に難しかった。暴れてしまって、関係ない人を傷つけてしまった」
「母さんっ!」
話の途中だったが、ニュイが飛び出した。
獣が作る闇を突っ切って、闇の神の胸に飛び込む。
「であれば、ニュイさんが地下室で会っていた母親は、幻覚ではなく……」
「ええ、私よ。目玉焼きを作ってあげるくらいしか、干渉できなかったけど」
闇に中に産み落とされた娘のような我が子を受け止めながら、夜の神は応えた。
わあわあというニュイの泣き声が、夜闇の公園に反響していた。
※※※
数日後の夜、他に誰もいない大学のカフェテリア。
香は優斗に、公園での出来事を除いた事の顛末を話していた。
「無戸籍児は社会問題として知ってはいたけど、まさか身近にいたなんて……。それでその後、ニュイちゃんはどうしたの?」
「獣と一緒に、知り合いのところに預けました」
「それ、大丈夫なの……?」
「大丈夫なはずです」
「はず、って……」
優斗は遠い目をして、肩を落とす。
一方香は、知り合い、体の部位が複数生えてくる昔からの友達である新庄に、ニュイと闇の獣を預けたときのことを思い出していた。
『いきなりやってきて子どもと犬を預かれって、どういうこと?』
『申し訳ありません』
『謝るならせめて、腰を九十度は曲げなさいよ』
新庄が住んでいるワンルームで、二人は問答を繰り広げていた。
『というかここ、ペット禁止の物件なんだけど』
『犬の方は押し入れか屋根裏に放ってあげてください。その方が落ち着くと思うので』
『……分かった、って言うと思った?どうしてこんなに暗いの!?』
『怪異ですから。新庄さんの体と同じ理屈です。説明できない』
『……』
そう言われたら黙らざるを得ない。新庄はあたふたさせていた"多腕"を落ち着かせ、複数ある膝の上に二つずつ置く。
『こちらのニュイさんには、小学校の教育を施してください。あと、戸籍がないのでなにかあったら私に連絡を』
『よろしく、お願いします』
『戸籍がないって言った!?……はあ、分かった』
香相手に怒るのは無駄だと、新庄は思い出した。
『あなたには恩もあるし、なんとかしてみる』
『ありがとうございます』
こうして、無事(?)円満に(?)ニュイと闇の獣の引き取り手が見つかったのだった。
「……ニュイちゃんと闇の獣を引き合わせて万事解決したのは、もうそういうこととして受け止めるよ。闇の獣に怪我を負わされた人たちは?治療の方法は見つかった?」
「日光を浴びるリハビリを繰り返せば、闇は晴れるそうです。晴れたら普通の傷のように治ると」
「え、誰が言ってたの?」
「……病院の人です。一か八かで対症療法を試してみたら効果があったと」
香は濁して言った。闇の神の受け売りだとは、口が裂けても言えなかった。
「あとはあの、内藤っていう小児科医はどうなったの?」
「ニュイさんの供述を基に別荘の庭を掘り返したところ、白骨が見つかりました」
「白骨……!」
優斗の顔がすぐさま青ざめる。
「直ちに警察へ通報し、内藤さんは死体遺棄容疑で逮捕されました。直に殺人の罪で再逮捕されるでしょう。ニュイさんを矢面に立たせるわけにはいかないので鑑定していませんが、骨はニュイさんの血縁上の母親のものかと思われます」
「なるほどねえ……。ん、血縁上ってどういう意味?ニュイちゃんのお母さんは一人しかいないんでしょ?」
実の子のように彼女を気にかけていた第二の母親、闇の神のことは、勇斗には一切明かしていない。
「……言葉の綾です」
そのため、香は適当に誤魔化して、
「それより、今はニュイさんと闇の獣の、明るい将来を願いましょう」
「獣の周りは暗いけどね」
無事巡り会えた一人と一匹の、闇の盟友に乾杯。香と優斗はそう唱えて、コーヒーの入ったカップを突き合わせるのだった。




