『雨と恋の模様』
『雨と恋の模様』
一
雨が降っていた。
「ごめん、住野くんをそういう対象に見たことなかったから、無理かも。付き合えない」
白色の雲に覆われた空から、重くも小さくもない中くらいの雨粒が降り注いでいた。
「だから、聞かなかったことにするね。男女の友情は明日からも継続」
しとしと、という表現がぴったりだ。
それほど激しくはない雨足が、ロータリーのタイル張りの床を、植え込みの葉たちを、駅舎の屋根を、金属の手すりを、行き交う人々を、そして僕と華奈美を徐々に濡らしていく。
「雨降ってきちゃったから、今日はこれくらいにしよ?」
「……うん」
「じゃ、また明日ね」
「うん」
明日なんて来なければいいのに。 駅舎の方へ去りゆく華奈美を雨から守る、頭に被せられたパーカーのフードをぼんやりと見つつ、僕は思った。
きみの意志は尊重したい。そこをどうにかするつもりはないし、ましてや捻じ曲げようだなんて以ての外だ。
でも、僕は。
僕はきみと、恋仲に……。
見上げて、降る雨を顔と両肩で受ける。
「……」
華奈美は……。
華奈美は、僕の友達だ。一番の友達。
家も近所で、小学生からの幼馴染だ。中学と高校一、二年の五年間、同じクラスだった。
僕は男で、華奈美は女という性別だから、周りからからかわれることも一度や二度じゃなかった。ときには恋仲のように囃されることもあった。
でも、華奈美はいつも落ち着いていた。ネタにされる度に訂正し、僕とはただの友達であることを強調した。
今こうして振り返ると、嫌だったんだろう。僕と恋人の関係だと思われるなんて、死んでもごめんだったんだろう。そうに違いない。
「……?」
あれ、なんで僕は彼女と恋人と思われるかもしれないなんて絵空事、考えていたんだっけ?華奈美は、あくまで女友達の一人なのに。
客観的に見ても、顔も学力も運動神経もぱっとしない僕と、整ったかわいい顔に文武両道、おまけに誰にでも優しい性格の華奈美が、釣り合わないのは明白なのに。
ただ、好きという気持ちさえあれば、そんなことは気にしないでいいのかもしれない。でも、それには『お互いに』という枕詞が必須だ。
華奈美はもちろん、僕には彼女を好きという気持ちは……。
彼女を好きという気持ちは、僕には……。
雨は依然として、しとしとと降っていた。さああああ、ぽたぽた、ばしゃ、ばしゃ。水を含んだ様々な音が、ロータリーのあちこちから奏でられる。
「……帰ろう」
彼女を好きという気持ちは、僕の中にはないように思える。
さあ、明日も学校だ。変なことを考えてないで、早く家に帰ろう。
僕は振り返り、タイル張りを踏み鳴らしながら、ロータリーをあとにした。
※※※
「これで四件目ですか……」
大学のカフェテラスの一角。マグカップになみなみと注がれたホットコーヒーの一口目を楽しみながら、雛菊香は溜め息を吐いた。
左手でスマホを操作しながら、香が『怪異探偵』として依頼者からの相談窓口にしているSNSのメッセージ履歴を見つめる。一番新しい受信メッセージに、件の依頼文があった。すかさずタップする。
一秒も置かない応答時間の末、白いメッセージ欄にびっしりと黒い文字が表示される。依頼人が一回で、レシートのような長文を送ってきているのだ。
「うわ。いつも思うけどすごいね。全部確認してるの?」
「それが探偵の仕事ですから」
「大変だあ」
右隣に座る勇斗が、ホットのレモンティーを片手に話しかけてきた。彼の正面には、画面を開いたノートパソコンが置かれている。
「勇斗さんが課題に追われていなければ、手伝わせるところだったんですが」
「ごめんね。流石に現代文学基礎Ⅱは落とせない」
「必修科目なのに、なんでサボってたんですか?時間はいくらでもあったでしょう」
「いやあ、年末の方になるとどこも混むからね。忘年会は月初に詰め込んでたんだ」
「要するに、飲み会で忙しかったと?」
「飲み会って言っても、お酒を飲むだけじゃないよ。カラオケとかボーリングとか、友達の家でシリーズものの映画を一気に見たりとか。平気で半日とか一日とか拘束されちゃうんだよね」
「青春してますね」
楽しそうに語る勇斗の姿を、香は優しい気持ちで見つめていた。
うちの『ワトソン』は、ザ・大学生と言わんばかりの遊び人。でも、それはそれであり、か。
そんな、他愛のないことを考えていた。
「ま、僕は自分のことに集中するよ。依頼はどんな内容なんだい?」
『私は私の方で動くから、きみはきみなりのやり方で動いてくれ』。勇斗の言葉で、つい一ヶ月ほど前に天使と呼んでいる存在から投げかけられた一言を思い出した。
今回の件も、神性と神性を盗んだ不届き者が関わっているのか。彼に出会ってからここ一ヶ月に渡り、香はなにかにつけてそのことを考えてしまうのだった。
「あれ、聞こえてる?おーい、雛菊さん?」
「……聞こえています。少し、どこから話したものかと考えていました」
「そう。それならよかった」
勇斗はいつもと変わらない屈託のない笑顔で、香を気遣ってくれる。
そこには感謝したいところだ。香は心からそう思った。
「それではいつもみたいに、話半分で聞いておいてください」
「ちょっと!僕がいつも半分しか聞いてないみたいじゃないか」
「それについて論争するのは時間の無駄なので、いきます」
「ちょっと!?」
他に誰もいない夜のカフェテラスで、勇斗は叫ぶのだった。
「依頼者はカナミさん。本名の名前から付けたハンドルネームでしょうか」
「確か、SNSでの依頼はハンドルネームで受け付けてるんだよね」
「別に決めているわけではないのですが、SNSを本名で運用している人はほとんどいないので、自然とそうなっていますね」
「まあ雛菊さん、依頼を受けるって決めてから会ってるからね。そのときに聞けばいいのか」
「そうです」
会話が途切れ、二人は各々の飲み物を口にする。
「依頼内容は一言で言うと、『親友がおかしい』というもの。メッセージが届いたのはついさっきです」
「おかしいって、前の三件みたいに?」
「はい。ただ、今回は少し毛色が違うみたいです。パワハラ気質だった上司が急に穏やかになった、交際費のためにバイトに励んでいた息子が働かなくなった、大の犬好きだった夫が飼い犬を愛でるのをやめ、さらに散歩好きだったその飼い犬が家の中に引きこもるようになった、というのが過去三件の依頼内容でした」
一気に喋ったので、香は一呼吸つく。
「気になってたんだけど、それってわざわざ雛菊さんに依頼するようなこと?性格とか習慣の変化って、怪異とは呼べないような……」
そのわずかな隙に、優斗は質問を挟む。
「SNSでは、どんな小さなことでも相談してくださいと謳っているので、様々な依頼が届きます。今回のこれらは怪異探偵ではなく、普通の探偵としての領分ですね。今のところは」
「今のところは……」
「前の三つの依頼は、先週の十日、十二日、十五日にメッセージで届きました」
「そして今日、十七日の火曜日に四件目が来たと。直近で身近な人やペットの性格や習慣が変化するという異変が連続して舞い込んできたから、関連を疑ってるんだね?」
「はい、それもあるのですが……」
ここから先は優斗に伝えていないことだ。情報を整理して気づいた、単純だが確たる根拠。
「特筆すべきなのは、三件とも先々週の三日もしくは四日から変化が起きたそうなんです。パワハラ上司は四日朝の始業時点から、バイト息子は三日夜にバイトを無断で退勤してきてから、夫と飼い犬は三日夕方、普段かかるよりずっと早くの時間に散歩から戻ってきてから、依頼内容のようになったと」
「なるほど、日付という共通点があるわけだ。……もしかして四件目も?」
「はい。四日の朝、親友と一緒に登校した時点から、"いつもと変わらなかった"と」
「いつもと変わらなかった?変わったんじゃなくて?」
「ええ」
分かりやすく驚いてくれる優斗に、香は澄まし顔で話し続ける。
「カナミさんのケースは、少々特殊でして。なんと三日の夕方、駅前で別れる際に親友からプロポーズされたそうなんです」
「あれま、それはなんともめでたいね」
「いえ、カナミさんはやんわりと断ったそうです」
「え、そうなの?」
「そうなんです」
優斗は話にのめり込んでいるが、キーボードを入力する手は止まっていない。
案外、マルチタスクの才能があるのかもしれない。香はこっそりと評価した。
「プロポーズが断られたとなれば、翌日以降少なからず意気消沈するはず。しかし、四日に姿を見せた親友の様子はいつもと変わらなかったそうです。まるで、プロポーズをしたことを忘れたかのように」
「それって、その男の子があえてそう振る舞っていただけじゃないのかな。どういう経緯で振ったとか二人の関係は分からないけど、友達として過ごすことを選んで、強い決意でそうあろうとし続けているのかも」
「なるほど」
勇斗さんにしては鋭い、穿った意見だ。香は失礼にもそう思った。
「そういうものなんですか?男性は」
「え」
「どこかで耳にしました。男性と女性で、恋愛に対する向き合い方が異なるらしいと」
「それって、男性は恋愛感情を引きずりがち、過去の女性がなかなか忘れられない。一方、女性はサバサバしている。スパッと前回の恋愛に折り合いをつけ、新しい恋愛に臨める。みたいなのでしょ?」
「勇斗さんも知っていましたか。あくまで性差でそうした傾向があるというもので、論理的な根拠は定かではないそうですが」
「言うなら、多くの人の経験則だね。俗説って例えてもいい」
でも、概ね合っていると思うよ。勇斗はそう続けた。
「男性は、男は、プロポーズにものすごい勇気を使うし、振られたらものすごい落ち込むよ。そういう習性の生き物だ」
「言い切りますね」
「……」
だって、僕もそうだから。雛菊さんに告白する勇気がないし、万が一振られたらと思うと、気が気じゃないよ。一秒の沈黙の間、勇斗は思った。
「とにかく僕の意見としては、カナミさんの親友もおかしい状態にある可能性が高い。前の三件と同じように、性格か考え方が急に変わった。おそらく三日の夕方以降に」
「分かりました。助手の意見を尊重しましょう」
「……待って、僕って助手なの?」
「では、カナミさんの件と他三件の関連性、類似性が高いと見なし、依頼として受理しましょう。明日以降、四件の依頼人と会ってみます」
香は自分の物をてきぱきと片付けると、席を立って勇斗と別れた。
「現代文学基礎Ⅱの課題、がんばってくださいね」
勇斗の素朴かつ重要な疑問は、香の事務的な笑顔によって黙殺されたのだった。
二
十二月四日、火曜日。朝七時五十分。
朝食を済ませて、ちょうど学校に着ていく服に着替え終わったところで、インターホンが鳴った。誰かは分かっているけど、念のために外を写すモニターを確認する。
栗色に近い黒のショートカットに、少し日焼けした肌。昨日とは違う色のパーカー、それと膝が見えるか見えないかの、ぎりぎり先生に怒られないくらい絶妙な丈のスカート。華奈美だ。
僕と華奈美が通う高校は、地域では珍しく私服着用が原則になっている。
「いってらっしゃい」
「いってきます。夕方には帰ると思う。買うものがあったら連絡して」
そして、校内でのスマホの使用も認められている。メッセージアプリを介してお使いを頼まれることがよくある。
母さんと言葉を交わした僕は、そそくさと玄関に向かう。靴を履き、ドアを開けて外に出る。
「……おはよう」
門扉の向こうに、眩しい笑顔の大親友がいた。
華奈美。僕の大切な、友達。
「おはよう、華奈美」
「え」
僕は少し眠気を覚えつつも、いつもの挨拶を返した。
学校がある日は毎朝、こうして華奈美が僕の家に寄ってから、一緒に通学するようになっている。わざわざ電車で隣の駅、すなわち僕の家の最寄り駅で降り、僕の家まで歩いてきてくれるのだ。
僕と華奈美の家は近所にあるけれども、それぞれの家の最寄り駅が隣り合う二つの駅と別々なせいで、こんなめんどくさいことになっている。両者の家どうしの距離より、華奈美の家と華奈美の家の最寄り駅との距離と、僕の家から僕の家の最寄り駅との距離の合計の方が短く済んでしまう。そして、高校の最寄り駅は僕の家の最寄り駅の方が近い。
歩く距離をなるべく短く、かつ二人で一緒に登校するため、こうして華奈美に面倒なことをしてもらっている。
ちなみに、帰りは僕の最寄り駅の駅前のロータリーで別れるのが習慣になっている。高校に通い始めた当初、華奈美は僕の家までついてきていたので、それは流石に申し訳ないと、僕がそうすることに決めた。そのときの僕が少し強引だったのか、華奈美は泣きそうな顔をしていたけど、代わりに昼食を一緒に食べることを約束すると笑顔になって喜んでくれた。
「今日も寒いね」
門扉を開けて外に出た僕はそう言いつつも、手袋をしていない右手を華奈美に差し出した。
どうやら僕の手は人より温かいらしく、寒さの厳しい師走の朝にはカイロとして丁度いいそうだ。
「……うん」
華奈美の少し冷たい左手を握りながら、そんなことを思い出す。
手を繋いだら歩き始める。時折白い息を吐き、住宅街の路側帯を右側通行する。当然、僕が車道側だ。
近所に混雑する道路やランドマークがあったりはしないけど、この辺りは自家用車を所有している家庭が多い。見通しの悪い曲がり角から車体が飛び出してくる可能性は大いにある。
「今日、英語の小テストだよね」
「え!そうだっけ!?」
「三時間目だから、休み時間に詰め込もうか。暗記しちゃえば楽勝だよ」
「うー、ごめん!」
「困ったときはお互い様だよ、気にしないで」
「ありがとう〜!」
他愛のない会話をしながら、僕と華奈美は駅前のロータリーに着いた。
今朝の空は快晴だった。雨水も湿気も消え失せていた。
※※※
香が最初にアポを取ったのは、パワハラ上司の依頼を持ってきた職場の部下だった。一件目から順にいくらしい。
「株式会社日進テックサービスの井口です。営業課三係で一般社員をしております」
いつもの行きつけの喫茶店のテーブル席で、香は十二月十日に依頼した井口から名刺を受け取った。
「砕けた感じで構いませんよ。私にとっては仕事ですが、井口さんはお客様ですので」
「そうですか?探偵の方にお願いするのは初めてのことなので、フォーマルな格好で参りましたが」
「リラックスされたお客様の様子や赤裸々なお話から、得られるものは多いですから。その辺りは営業のお仕事と通づるものがあると思います」
「確かにそうですね。それでは肩の力を抜いていきます」
井口は二十七歳。紺色のスーツと臙脂色のネクタイ、清潔感のある七三の黒髪に銀の細縁眼鏡という、いかにも真面目という印象を受けるサラリーマンだった。
一回り年下私が言うのもなんだが、若いのにしっかりしている。香は素直に感心した。
「早速依頼のお話に移る前に、いくつか質問をしてもよろしいですか?世間話のようなものです。井口さんや上司の方の基本情報は頂いていますが、文字だけでは掴めない空気感を把握したいので」
「もちろん大丈夫です。その人が纏ってる雰囲気を理解するのは私の仕事でも大事にしているので、お気持ちはよく分かります」
「お心遣いありがとうございます」
香はアイスコーヒーを一口飲んだ。井口も無糖のカフェラテを啜る。
「では早速。営業のお仕事では、どんなモノもしくはサービスを扱われているんですか?」
「私の係では法人向けに、業務用のタブレットの貸与を行うサービスを展開しています。タブレットからは弊社が提携する大容量のクラウドサービスにアクセスできまして、勤怠管理やレポート、資料やスライド、名刺、社員や採用予定者の個人情報などのデータをクラウド上で一元管理できます。さらに弊社の強みとして、データのアップロードやダウンロード、削除や編集といった権限を管理職が直感的に扱えるよう、開発部門が独自に開発した平易なUIがあります。これが画期的でして、基本的に数回のタップで、ソフトウェアの知識があまりない方でも権限の行使が可能です。そしてこれは現在進行系ですが、業務の専門性や取引先の社員様のニーズに即した特注のアプリケーションの開発、タブレットへの実装を行うサービスも開始する予定です。これにより、法人様の細かい需要にリーチした情報サービスを行き渡らせることが……」
「すいません。そのくらいで……」
「ああ、申し訳ありません」
独り善がりにまくしたてるのが悪い癖だと、上司によくどやされています。井口はそう締め括った。
「話すのが好きなんですね」
「はい。この仕事は天職だと思っています。情報技術にも興味があったので」
「タブレットの普及はすごいですよね。今や小学校でも導入されてるとか」
「そうなんですよ。弊社のものは教育用ではないんですが、個人的には、そっちの分野にも手を広げられたらと思っています。まあ、ヒラの俺が新事業を提案するのは時期尚早も甚だしいですが」
「いえいえ、目標があっていいことだと思います。私も見習いたいです」
「とんでもない。調子に乗ってるだけですよ」
会話はいつの間にか、探偵と顧客の会話らしからぬ和気あいあいとしたものになっていた。
「それでは本題に入ります。井口さんの上司さんの様子が変わった件について」
「はい」
話の潮目が変わり、お互いにかしこまる。
井口はもともと伸びていた背筋をさらにピンとさせ、口を開いた。
「私の直属の上司、係長の原田が急に穏やかになったんです。十二月四日に出勤した時点から」
「パワハラ気味で威圧的だったのが、柔和で温厚になっていたんですよね。では、変わる前の原田さんの様子を軽くお聞かせください」
「はい。あまり大きな声では言えないのですが、以前の係長はなんというか、いかにも前時代的なパワハラおじさんといった感じでした。いつも仏頂面で機嫌が悪そうで、あ、係長は五十手前です」
「存じております」
「それで、口を開けば『今日も冴えない顔してるな』だとか、『口を閉じてろ馬鹿』だとか、『定時で上がるとはいいご身分だな』だとか、平気で言ってきました。私にも、他の部下にも」
「それは嫌ですね。仕事の士気も下がる」
「そうなんです。私は軽く受け流していたんですが、同僚は皆、辟易としていました。同じ係に女性の同僚もいるのですが、彼女にも当たりが強かったです」
「男女関係なくパワハラがあったんですね。女性に対してはセクハラ紛いの発言はありませんでしたか?」
「それはなかったと思います。係長は結婚してますし、奥さんとの関係は良好だと、よく言っていましたから。私の把握している限りでは、セクハラはしていなかったです。先ほど話題に出した女性社員にも聞いたことがありますが、ないときっぱり言っていました」
「なるほど」
パワハラをする人は、相手によってパワハラの度合を調節する。そして往々にして、相手が女性であればそれがセクハラに変化するものだ。
しかし、原田の場合は違う。パワハラがあったことはほぼ間違いないが、女性を蔑視するほどひどいものではなさそうだ。香はそう判断した。
「では、原田さんの上司や、他の係、部の人や取引先の相手に対する言動はどうでしたか?これもまず、三日以前の様子をお聞かせください」
「そうですね。部署の違う社員や取引先のお客様には普通でした。自分の部下相手ではないですから、余所行きの振る舞いでしたね。ただ課長、原田の直属の上司です、にはへりくだっていました。部下にするパワハラも、係長がいるときには一切していませんでした」
「それはなんとまあ、八方美人ですね」
他部署の人間や客相手にはパワハラな一面を隠し、お行儀よくする。上司にはさらにお行儀よくする。これもありがちなパターンだ。
「評価が落ちるのが嫌だったんでしょうね。まあ、私や同僚が報告していたので、度々処分は受けていましたが」
「処分ですか。それは例えば、どんな内容のものですか?それと、処分を受けても原田さんのパワハラは収まらなかったんですか?」
「最初は課長の注意で、二回目以降はハラスメント撲滅を謳うビデオ映像を視聴させられたり、マナー講師のセミナーに出席させられたりしたと、本人が言っていました。でも係長は直す気がないのか、一向に改善しませんでした。パワハラをしている自覚はあったと思うんですが、部下を教育するには仕方がないことだと、係長の中で変に正当化されていたのかもしれません」
「なるほど。係長さんのこと、よくご存知ですね」
「なんだかんだで、結構コミュニケーションを取っていましたので。悪い人ではないんですよ。ただ余計な一言が多かったり、不機嫌なことが多いってだけで」
普通、パワハラしてくる相手とは距離を取りたがるものだが、井口は違うらしい。粘り強く対話を繰り返し、相手の本質を理解しようとしている。
香は改めて感心した。やはり目の前のこの人は、人間として素晴らしい。
「では、肝心要の部分に入ります。深刻なパワハラ気質だった原田さんが、十二月四日以降、急に穏やかになった件について」
「はい」
各々の水分補給タイムを挟む。
数秒の後、香は真面目な表情のまま、言葉を紡いだ。
「まずは、係長さんの性格や言動がどう変わったかを教えてください」
「はい。メッセージでお伝えしたとおり、目に見えてパワハラがなくなりました。余計な一言が減っただけじゃなくて、話し方にあった刺々しさのようなものもなくなったんです」
「なるほど。まさに穏やかという言葉がぴったりですね」
「そうです。いつもの仏頂面も緩んでいました。ぴりぴりした雰囲気もなくなって、リラックスしているように見えました」
「井口さんなどの部下の方たちへの当たりも、柔らかくなりました?」
「はい。最初の方は皆困惑していましたが、喜ばしいことではあったので徐々に受け入れられていました」
「他部署や取引相手、それと課長さんへの接し方はどうなりましたか?」
「俺たち部下に対する態度よりは変わっていないんですが、いずれの人たちにもより丁寧に接するようになったと感じました。課長への過剰なへりくだりもなくなりました」
「全体的に人が良くなったのですね。奥さんとのことはなにか言っていましたか?」
「明るくなったわねと褒められたそうです。笑顔で漏らしていました」
「それは喜ばしいですね」
香は心からそう思った。
「ですが、井口さんはなにかおかしいと思われた。それで私に依頼された」
「はい」
井口は視線をテーブルに落とし、カフェラテを口に含んだ。角張った氷の山が傾き、からんっと小気味よい音が鳴る。
「自分で言うのもなんですが、俺は人を見る目が優れていると思っています。小中高は誰とでも仲良かったですし、大学ではサークルやバイトに全力で取り組んで、社会人になってからは仕事で色々な人と出会い、コミュニケーションを重ねてきた経験があるからです」
「分かります。いわゆるコミュ力が高いってやつですよね」
「多分、そうです」
井口は笑顔を作って、再び香の目を見る。
「それで、そんな俺から見て、係長の変化はなんかこう、違和感を覚えたんです。もちろん、今までそんな予兆がなかったのに、急に性格が良くなったり悪くなったりする人はいますし、俺も何人かそういう人と関わってきたことはありますが、係長のは、なにかそういうのとは違う気がするんです」
「なるほど。井口さんの中で、そう思った根拠はありますか?抽象的なもので構いません」
「根拠と言えるほどのものかは分かりませんが、一応あります」
香は、井口がさっきまでと違い、言葉を探りながら話しているのを感じた。
「『パワハラは部下の教育に不可欠だ』という考えが深く根付いていたはずなのに、係長がたった一晩で心変わりしたのが腑に落ちません。人は、自分の中にある主義主張をおいそれと捻じ曲げることは、できないはずです」
「……確かに、そうですね」
香はまたしても、天使との邂逅を思い出していた。
人間の形をした肉体と、その中にある魂。魂は人間性、神性、獣性で構成されている。人間は、人間性が他の二つより多いから人間なのである。
彼方に飛行しようとする思考を、香は無理やり手繰り寄せた。
「質問を続けます。係長さんに変化が起きた理由に、井口さんは心当たりがありますか?」
「ないです。本人に聞いても周りに聞いても、誰も知らないようでした」
「では例えば、係長さんは頭を打って直近の記憶を失くしてしまい、それに伴って性格が変わったというようなことは考えられませんか?外傷が原因という説です」
「それは俺も考えました。しつこく係長に質問したり、奥さんにも聞いてみたんですが、退勤中や家の中では怪我はしていないと」
「おや、係長さんの奥さんの連絡先をご存知なんですか?」
「はい。以前、飲み会で酔い潰れた係長を家まで送ったときに、固定電話の電話番号を教えてもらったんです。それ以降、係長が泥酔したときは奥さんを呼んで迎えに来てもらうようにしています」
「なるほど」
今回の件と関係があるかは分からないが、情報は多い方がいい。香は頭の隅にメモをした。
「それでは、最後の確認です。井口さんは私に、係長の原田さんの性格が変わった原因、もしくは理由を突き止めてほしい。納得のいく説明が欲しい。そういう依頼として受理しても構いませんか?」
「はい。大丈夫です。ぜひよろしくお願いします」
「承りました。……あと一つだけ。失礼ですが、なぜ井口さんは、係長さんにそこまで親身になっているのですか?一般的な部下なら、上司の良い変化に迎合し、原因の解明をわざわざ探偵に依頼したりしないはずです」
「なぜ、ですか」
井口は不思議そうに首を傾げた。
「自分の中にある違和感が無視できないからというのと、もし係長の身になにか起こっていたとしたら、なんとかしてあげたいから、ですかね」
「なるほど」
「正直に言いますが、パワハラがあったときから、俺は係長を尊敬しています。もちろん、パワハラの部分は反面教師としてですが、それ以外の仕事に対する熱意とか、社会人としての心構えとかの部分を大変勉強させてもらいました」
「原田さんは恩師のような存在ということですか」
「そうです。俺をいっぱしの営業マンにしてくれたのは係長です。返しきれない恩がたくさんあります。そんな係長に万が一のことがあったら、俺は悲しいし、後悔すると思います。あのとき明らかに変わっていたのに、なにもしなかった自分を恥じると思います」
「……」
「だから今、俺なりにできることをしたい。でも仕事があるし、自分一人でできることには限りがある。ならせめて、調べることのプロである専門家の人にお願いした方がいいんじゃないか。そう思って、今回依頼させて頂きました」
「そういうことだったんですね。よく分かりました」
香は小さく息を吐き、マグカップを煽った。
残りのホットコーヒーを飲み干し、席を立つ。
「それでは、お話は以上になります。できるだけ早く、調査結果をお知らせします。ありがとうございました」
腰を浮かせた井口にそう伝え、香は伝票を掻っ攫って会計に向かった。
三
キーン、コーン、カーン、コーン。
四時間目の終わり、すなわちお昼休みを知らせるチャイムが教室中に響き渡る。
「今日はこれまで!」
世界史の先生が覇気のこもった号令を上げ、僕たちは授業から解放された。
「疲れた〜。お腹ぺこぺこだよ!」
「小テスト、なんとかなってよかったね」
「本当にありがとう、住野くん!」
早速僕の机にやってきた華奈美は、満面の笑顔でお礼を言ってくれた。
僕は思わず照れくさくなる。
「……混むから行こうか」
「うんっ!」
「相変わらずお熱いね〜、お二人さん!」
席を立った僕と華奈美に、ポニーテールを揺らして近づいてくる一人の女子。
同じクラスの友達、神田結だ。
「ちょっと結。住野くんとはそんなんじゃないって」
「そうだよ。いつも言ってるけど」
「……そうそう」
僕たちは廊下を歩きながら、茶々を入れてきた結の相手をする。これもいつも通りのことだった。
「私にとっては不服しかないんだけど?それならなんでさ、今も手、繋いでるわけ?」
「ろ、廊下が寒いからだよ。住野くんの手は温かいから」
華奈美の声は少し上ずっていた。視線もあちこちふらふらだ。
僕は助け舟を出す。
「それに、どっちか転んでも平気だ」
「はいはい、言い訳は聞き飽きました!大体ね……」
前を歩く結が、急に振り返った。
「……年頃の男女が手を繋いだら、それはもう恋人どうしなのよ!恋人がすることなの、手繋ぎって!」
「でも、指は絡めていないよ。恋人繋ぎってやつ」
「アレは大人の男女がやる、愛の確認行為みたいなものよ。というか半分せ……」
「結」
華奈美の冷たい呼びかけ一つで、喋りすぎた結は拳銃で撃たれたように静かになった。
「……とにかく、恋人繋ぎじゃなくても、手を繋ぐのは恋人のやることなの。早く付き合っちゃいなさいよ」
「またそれ?」
「あーたたちが付き合わないからでしょっ!」
「あはは」
「住野っ!笑いごとじゃないわよ!」
華奈美と結の愉快なやり取りは、一階に降り、校舎を出、食堂に入るまで続いた。
「とうちゃ〜く!」
「相変わらず混んでるわね」
両開きの扉が明け放たれている入り口から中に入ると、華奈美と結が言った。
中は人でごった返している。混雑を構成しているのはほとんどが生徒だけど、ちらほらと先生の姿もある。
体育館よりも広く、全学年と教職員が一緒に食事することができる、大きな二階建ての建物。僕と華奈美の高校には、特大サイズの食堂があるのだ。
「二人はなににするか決めた?」
「私はチーズバーガーっ!ポテトとメロンソーダ付きのセット!」
「好きねえ、華奈美。私は日替わり定食にするわ」
「毎日日替わり定食の結に言われたくないよ。住野くんは?」
「親子丼セットにしようかな」
それじゃあ、しばらくのお別れだね。僕は華奈美の手を離し、一旦二人と別れた。
人の波に揉まれながら、僕は和食コーナーの方に向かう。華奈美はファストフードコーナー、結は定食コーナーに行ったはずだ。
食堂はフードコートのようなレイアウトをしている。ご飯のコーナーがジャンルごとに分かれているのだ。生徒は食べたいご飯のコーナーに向かい、カウンターでお金を払ってご飯を受け取る。それから、クラスごとに割り当てられているエリア内のテーブル席に座り、食べる。
人数分以上の席があるので座れないことがないのが、普通のフードコートとは違って良い点だ。
僕は少し列に並んだ後、親子丼定食を注文。カウンターで受け取って、近くの螺旋階段を登った。吹き抜けになっている二階に着いたら、二年二組のエリアに向かう。
「おまたせ。椅子ありがとう」
「ふふ、いいよ」
空いている二つの席のうち、華奈美の隣の席に腰かける。
花が咲いたような可憐な笑顔を、また一つ受け取りながら。
「お疲れっす」
「木戸くんもお疲れ様。蕎麦もいいね」
「やっぱり天ぷらがうまいっす。やめられないっす」
「いずみくんも大概、同じもの食べてるよね」
「天ぷらはさいきょーっすよ。揚げておいしくないものはないんすから」
向かいで海老天をかじるほっそりとした長身の男子生徒、木戸いずみくんとも世間話をする。
彼も同じクラスだけど、昼休みになるといち早く食堂に来て、四人がけのテーブル席を確保してくれる。二年で同じクラスになって彼と仲良くなった僕たちは、残りの三席を使わせてもらっているのだ。
「お待たせー!木戸もこんにちは」
「お疲れっす、神田さん」
「あーたも好きねえ、天ぷら蕎麦のセット」
「それ、さっきやったよ」
今日の日替わり定食はカキフライのようだ。僕は自然と笑みをこぼしつつ、目の前の親子丼に視線を戻す。
「それじゃあ、食べようか」
僕と華奈美と結は同時に『いただきます』をし、各々の食事にありついた。
「……住野くんの、おいしそう」
「食べる?」
「うんっ。……えへへ、おいしい」
「ご飯粒ついてるよ。……はい、これで大丈夫」
「ありがと……」
「だああああっ!はよ付き合えやああああっ!」
「毎度のことながらうるさいっすけど、これには俺も同意っす」
「……私のも食べる?」
「うん、もらおうかな」
同級生の友達二人と、そして華奈美と食べるお昼ご飯は、今日もおいしかった。
※※※
香が次に面会を取りつけたのは、二件目の依頼人だった。少し前までバイト戦士だった息子を持つ、四十六歳の母親だった。
「野間坂秋江と言います。パートの間に抜けてきたので、あんまり長居はできないのですが……」
「構いませんよ。むしろ、無理を言ってお時間を作って頂き、申し訳ないです」
「私は大丈夫です。早く相談したかったので」
秋江は落ち着いた雰囲気のある、寡黙な人だった。ブラウンの交じったショートカットに薄いメイク、濃い緑色のセーターを着ている。
今二人は、秋江の指定した喫茶店の店内にいた。
「それならよかったです」
香は微笑み、マグカップを手に取る。
「それでは始めます。まずは、十二月三日の夜以前の彼の人となりについてお聞きします。息子さんは、以前はどんな方だったんですか?」
「はい……」
秋江は短く返事すると、温かい紅茶で喉を潤した。
「息子は、芳樹は、とにかく明るく社交的でした。主人に似たんでしょうね。サイクリングと旅行が好きで、小さい頃からじっとしていられないというか、毎日色んなところに出かけては、思い出や怪我を持って帰ってくる。そんな子でした」
「わんぱく少年だったんですね。ちなみに、旦那さんもそうだったんですか?」
「はい。主人とは大学のワンダーフォーゲル部で出会い、家族の反対を押し切って学生結婚をしました。私も主人も自分の足で景色を探しに行くのが好きで、馬があったんです。夫婦になってからも国内外の色んなところに出かけて、楽しい経験を積みました。良い思い出です」
「刺激的ですね」
アクティブな両親から、アクティブな子どもが生まれたわけだ。
やはり血は争えない。香は実感した。
「芳樹さんは現在二十歳で、都内の大学に通われているとのことですが、大学生になってから先月までの間の彼の様子はいかがですか。アクティブで社交的なままでしたか?それとも、性格や習慣が変わったりしましたか?」
「いえ、特には変わっていないと思います。大学ではサイクリングのサークルに入ったと言っていましたが、芳樹は昔から好きだったので、まあそうだろうな、と。あとは、大学生になってから友達と遊ぶことが増えて、お金を稼ぐために居酒屋でアルバイトを始めたんですが……。すぐに持ち前の人当たりの良さで職場の人と仲良くなれたそうですし。今月までは、続けてたんですけどね……」
最後の方は弱々しくなりながら、秋江は香の質問に答えた。
「よく分かりました。それでは本題に入っていきます」
香は居住まいを正し、早口にならないように意識して言葉を紡ぐ。
「最初に、十二月三日のことを教えてください。バイトに行く前の芳樹さんの様子。バイトを無断で早退して、帰ってきたときの様子。帰ってからの様子。分かる範囲で教えてください」
「はい。芳樹会ったのは朝、大学に行くのを見送ったのが最後でした。それまでは普通だったと思います」
「明るく、社交的だった?」
「はい。確かめたわけではありませんが、母親なので分かります」
「お子さんのことを大事にされているのですね」
「いえ、当然のことです。主人は出張が多くて家を空けがちなので、私がしっかりしないといけないんです」
「殊勝な心がけですね。芳樹さんと同年代の私が言うのも恐縮ですが」
「あら、雛菊さんも大学生なんですか?しっかりしていますし、失礼ですがもう少しお年を召されていらっしゃると……」
「ありがとうございます。探偵は信用が命ですので」
仕事用に使っている香のSNSアカウントのプロフィールに大学生であることを記していたのだが、秋江は知らなかったらしい。
まあ、些細なことなので構わないが。香は気にしないことにした。
「話が逸れました。三日朝の時点では、芳樹さんに異常はなかったんですね。それでは、帰ってきたときはどう変わっていましたか?具体的に教えてください」
「はい。パートから帰ってきて夕食の準備をしていたところ、雨音に混じって自転車を停める音がしたんです。芳樹のマウンテンバイクを停める音でした」
「耳が覚えちゃいますよね。頻繁に聞く音だと」
「そうなんです。マウンテンバイクのスタンド?を下ろす音は独特なので、間違いないと思います。そのとき時計を見たら、ちょうど十九時でした」
「なるほど。普段芳樹さんがバイトに出かける時間と、帰ってくる時間は何時頃ですか?」
「出るのは十七時です。マウンテンバイクに乗って、近所の居酒屋まで行きます。帰ってくるのは大体、二十三時頃です」
「それで、早すぎると感じたわけですね」
「そうです。それで予想通り、玄関の鍵を開けて芳樹が帰ってきました。あ、芳樹は家の鍵を持ってバイトに行っています」
「はい」
「それで、いつもは『ただいま!』と大声で言って扉を開けるのですが、そのときは声がしませんでした。リビングに入ってきて私が『おかえり』と言うと、小さな声で『ただいま……』と言ったんです」
「朝と違って、元気がなくなっていたんですね」
「そうなんです」
秋江は口調こそ変わらないものの、大きく頷きながら同意した。
「見た感じ、怪我はしていなさそうでした。頭を打ったとも思えませんでした。濡れた体を拭きながら『大丈夫?なにかあったの?』って聞いたんですけど、あの子は答えてくれませんでした。ただ少しして、私の目を見て『バイト辞めたい』って言ったんです」
「急ですね。秋江さんはバイト先の人間関係かトラブルに原因があると考えました?」
「はい。バイトの前は大学に行っていたはずなので、そこで友達となにかあったのかな、とも考えました。それで何回か聞いてみたんですけど、教えてくれなくて」
「教えてくれないということは、なにかを隠しているように感じた、ということですか?」
「はい。受け答えがぎこちなかったですし、なにより元気がなくなったんです。すっかり内向的になってしまいました」
「……」
「きっと、芳樹はなにか隠しています。今も」
「なるほど」
香は顎に手を当て、視線を落として考え込む仕草をする。
「質問を変えます。芳樹さんのバイトの内容はご存知ですか?居酒屋で働かれているそうですが」
「主に接客です。注文を聞いたり、料理を運んだり、会計をしたり」
「いわゆるホールってやつですね」
「そうです」
香は、小刻みに上下する秋江の顔を眺めていた。
しかしふと、その表情がくもる。
「あ、でも最近は宅配もするようになったって言ってました」
「宅配ですか。居酒屋なのに?」
「店で人気のおつまみとかおかずと、ご飯をよそったお弁当を宅配するサービスが秋くらいから始まったそうなんです。遠い住所のときは社用のバイクを使える人が出るけど、芳樹は免許を持っていないので、近場の宅配をマウンテンバイクで請け負っていると」
「自転車の機動力が買われたわけですね。ますます、お辞めになったのがもったいない」
「私もそう思います。一刻も早く、芳樹には元気になってほしいんです」
秋江は切実な感情で、香にすがるように訴えた。
「……芳樹さんが帰ってきたところまでは理解しました。最後に、三日から今日までの状態を教えてください。バイトをどのようにして辞めたのか、大学は行けているか、交友関係に変化はないか。それと、空いた時間になにをしているのか」
「はい。芳樹をお風呂に入れて、その間に私は夕食を作って、芳樹が上がってきてから二人で食べていました。しばらくすると、無断で抜け出してきたので当然ですが、バイト先から電話がかかってきました。芳樹はスマホを持ってリビングを出て、通話していました。そのときにバイトを辞める意向を伝えたそうです」
「内向的でしたが、辞めることを言えたんですね」
「昔から、落とし前は自分でつけたがるタイプでしたから。そこは変わっていないのかなと思います」
「なるほど。続けてください」
「揉めたのか、通話はかなり長かったと思います。でも認められたようで、翌日の四日の夜にバイト先に行って、諸々手続きや引き継ぎを済ませて辞められたようでした」
「分かりました。交友関係はどうでしたか?」
「友達と遊ぶことは減ったと思います。大学にはちゃんと行くんですが、授業が終わったらまっすぐ家に帰ってくるんです。それと、これは最近知ったのですが……」
「教えてください」
お、依頼文に書いていないことか。香は好奇心を悟られないように身を乗り出す。
「芳樹は部屋に閉じ籠もって、勉強しているんです」
「勉強?」
「はい。休みの日はほぼ一日中です。サイクリングも旅行に出かけることもせず、ずっとです」
もっと突飛なものを想像していた香は、肩透かしを食らった気分だった。
確かに、これまでアウトドア全開だった息子が急に勉強に打ち込むようになるのは、不思議ではある。
不思議ではあるが……。
「失礼を承知で申し上げますが、芳樹さんはあまり勉強家ではなかったんですか?」
「はい。テストはいつも赤点ぎりぎりです。私や主人の頭が悪いのも遺伝してしまったようで」
「……」
香は黙るしかなかった。
SNSのプロフィールを見ていないという伏線が、こうした形で回収されるとは。
「学のない私と主人の子だからこそ、おかしいんです。趣味もバイトも差し置いて、勉強に勤しむわけがないんです。真面目に授業を受けるわけないですし、テストで良い点を取れるわけがないんです」
「もうちょっと、信頼してあげたらどうですか」
「え?」
思わず言ってしまった。
透明な水を絵の具の色が濁していくように、秋江の顔に困惑が満ちていく。
「子どもの可能性は無限大ですよ。無礼千万で申し訳ありませんが、鳶が鷹を産むことだってあります」
「……」
「芳樹さんが真面目になった原因は、こちらで調査します。できるだけ迅速に動き、近いうちに報告致します」
「……ありがとうございます」
「ただ秋江さんと旦那さんは、今の芳樹さんを肯定してあげてください。人が変わったように見えても、芳樹さんはあなた方の子どもなんですから」
「はい……」
「それでは、本日はありがとうございました」
香は唐突に立ち上がり、テーブルの上の伝票をひったくって会計に向かった。
マグカップにはまだ半分ほど、温くなったコーヒーが入ったままだった。
四
『……次は、並田あ。並田あ〜』
車内に響く機械的なアナウンス。僕の家の最寄り駅はすぐそこだ。
「華奈美起きて。着いたよ」
「むにゃ……。住野くん、好き……」
「目を覚まして」
「……んぅ?」
隣で僕に頭を預けて目を閉じている眠り姫を、僕は優しく揺らして起こす。
朝は強いのに、電車で座れると眠ってしまうのが華奈美の癖だった。
「……ついた?」
目をこする華奈美に肩を貸し、席を立つ。
車両が完全に停止し、ドアが開く。僕と華奈美は早足で出口に歩いた。
空いた二つの席にはすぐさま、疲れの見えるサラリーマンたちが腰を下ろした。
『ドアが閉まります。ご注意ください』
音声が鳴り、背後でドアが閉まる。
ホームに降り立った。
「今日も良い日だったね、住野くん」
「うん」
傾きかけた陽を臨みながら、僕たちは階段に向かって進んだ。
雲一つない快晴だった。
「いつも悪いね。わざわざ降りてもらって」
「うんうん、いいの」
本来なら華奈美はここで降りずに、隣の東並田駅で降りた方が楽だ。徒歩三分とかからずに家に着ける。
なにも僕を見送るためだけに、駅舎の外のロータリーまでついてこなくてもいいのだ。
「……私は、住野くんと少しでも長くいたいだけだから」
階段に差しかかり、華奈美の顔を彩っていたオレンジの光が翳った。
段差を登り切り、線路の上をまたがる連絡通路を抜け、階段を下れば改札口だ。
華奈美はパスケースを、僕は財布から取り出したICカードをかざし、人がまばらな改札を通過する。
南口から駅舎を出る。ロータリーに着いた。
ここだ。
ここで僕は、昨日……。
「お疲れ様でした、華奈美」
「お疲れ様、住野くん」
いつの間にか繋いでいた手を離すと、なぜか胸が痛んだ。
僕は昨日、ここで。
華奈美の縋るような潤んだ両目を見つめ、僕は言った。
「バイバイ。また明日」
「……バイバイ、また明日」
オレンジに光るタイルの上に踏み出す僕の足取りは、どこかぎこちなかった。
※※※
秋江と話した数日後。
香が相対したのは、やはり三件目の依頼人だった。十二月十五日にメッセージを寄越した人物である。
「あまり時間はかからないわよね?買い物っていう体で抜け出してきたから!」
「はい。お時間は頂きません」
「よかった!ま、いつも井戸端会議して時間食ってるんだけどね!」
三十七歳の東海林恵美は、アハハと笑った。
頭のてっぺんでお団子にしたカラスの濡れ羽色に、濃く鮮やかなメイク、耳たぶには金の長方形のイヤリングが光る。上下はピンクとオレンジの濃淡が目立つシャツに、黄色のスラックス。
恵美は、明るいムード全開の女性だった。
「素敵なコーディネートですね」
彼女の全身をそれとなく眺めつつ、香は褒める。
決してお世辞ではなく、素直に独創的だと感じた。
「服は心を映す鏡よ!楽しくなくっちゃ!」
「心を映す鏡、ですか。勉強になります」
「自分がこれだ!って思えるものを着ればいいの!周りの目なんか気にしちゃだめ!」
会話の合間にレモンティーをごくごくと飲みながら、恵美は話す。
「でも探偵としては、目立たない格好の方がいいかもしれないです」
「それもそうね!アハハ!」
商売上がったりだもんね!恵美はそう続ける。
「恵美さんは現在、専業主婦をされていらっしゃるとか。テレワークの旦那さんをサポートをし、愛犬のココアちゃんの面倒を見ていらっしゃる」
「そ!服飾の専門学校を卒業して、そこそこいいところのアパレルに就職したんだけど、旦那と結婚して辞めちゃった!ココアを迎え入れて、今だ!って思い切ってね!」
「自分の人生ですから、自分で舵を取らないといけないですよね。その決断力と行動力、すごいです」
「やあだもうっ!褒めてもなにも出ないわよおっ!」
とは言いつつ、恵美は満更でもなさそうだった。
「そろそろお話に移っていきます。まずは十二月三日の夕方以前の旦那さん、光博さんとココアちゃんの性格を教えてください。メッセージと合わせて重ね重ねとなってしまいますが、なるべく具体的にお願いします」
「んもう、なんべんでもいいわよ!私と香ちゃんの仲じゃないっ!」
気づいたら仲良しこよしにされていた。
「旦那はSE、システムエンジニアをやってるんだけど、例の流行り病のせいかおかげか、仕事のほとんどがテレワークになったの!」
「よく聞きますね。テレワーク」
遠いところから話が始まった。香は首を傾げないよう堪えて先を促した。
「そうなのよ、旦那の子守が大変で!……でね、旦那は元々物静かで、私と正反対みたいな性格なの!」
「はい」
「それと、これは私もなんだけど、犬が好きなの!だからココアを飼うようになって!家で仕事するようになってからは、一層ココアラブになったのよ!」
「それは微笑ましいですね」 香は恵美とのSNS上でのやり取りで、ココアのことを理解していた。頼んでもいないのに恵美がココアの写真を何枚も送ってきたので、それはもう十分すぎるほど理解していた。
「お写真拝見しました。まるでココアパウダーかのようなきめ細やかな茶色の毛並みのトイプードル。本当にかわいいです」
「でしょう!?それで、四六時中一緒に過ごすようになったからでしょうね、旦那のココア好きは私と同じくらい、いや私以上にすごかったんだから!思わず、私あなたの妻なんですけど!って言いたくなるくらいに、私をほっぽって溺愛してたの!」
「……なるほど」
「それが十年前から、今月初めくらいの旦那の人となりね!」
再びカップを持ち上げ、勢いよく傾ける恵美。
「それでココアの方は、小さい頃からとにかく遊びたがりで、散歩と走るのが大好きだったわ!」
「お行儀も良かった?」
「ええ、ココアは賢いから!吠えるのも噛んだりも全然!しつけもトイレの場所くらいで、本当に偉いのよ!」
「素晴らしいですね」
香は、やけに乾く喉を熱いコーヒーで潤した。
つい数日前に訪れた、ちょっと見慣れた喫茶店のレイアウトを、頭の中で無意味に展開していた。
これは、どういうことだ。
「……三日以前のことは掴めました。続いて、三日のことをお聞きします。三日、光博さんがココアちゃんと散歩に出かけるまでの間で、変わったことはありましたか?どんな些細なことでも構いません」
「ん~、香ちゃんに言われて思い出してみたんだけど、特に変わったことはなかったわ!」
溜め息を吐き、回想するように視線を巡らせながら、恵美はきっぱりと言った。
「あの日は私も旦那も七時くらいに起きて、七時半に朝ご飯を食べて、それから旦那はココアを朝の散歩に連れていったわ!日課なの!」
「健康的でいいですね」
「そうでしょ!それから、旦那は書斎に籠もって九時から仕事!十二時すぎにお昼食べて、ココアとちょっと遊んでからまた仕事!午後の、五時三十分くらいまでね!」
「それから、光博さんは夕方の散歩に行かれた?」
「ええ!旦那とココアは、六時前には出たわ!少ししたら、雨が降ってきたのよね!大丈夫かなって思ってたら、案の定帰ってきて!十分ほど経った頃かしら!」
「そこから、光博さんとココアちゃんが変になった?」
「そうなの!ココアが濡れてたら自分より先にココアのことを拭いてあげる旦那が、玄関でぼーっと突っ立ったままで!風邪引くわよ!ってバスタオル放ったら、それで私に気づいたみたいにびっくりして!その日から、旦那はココアにそれほど構わなくなっちゃったの!ココアもココアで、なぜかそれを受け入れてて、それどころかすっかり大人しくなっちゃって!歩くのも億劫みたいになって、散歩も朝しか……」
本当に心配なのか、最後の方は声のトーンが落ちていた。
こんなに元気な人のエネルギーを削いでしまうとは。香は改めて、本件の重大さを痛感した。
「それこそ頭を打ったかのように、人と犬が変わってしまいましたが、お一人と一匹に怪我などはありませんでしたか?」
「なかった!少なくともココアには!全身を拭いたから間違いないわ!」
「そうですか」
驚きはしなかった。前の二件と共通しているからだ。
「もう一つ。恵美さんは今しがた『光博さんはそれほどココアちゃんに構わなくなった』とおっしゃいましたが、完全に没交渉になったわけではないのですか?」
「そうよ!それまではべったりだったけど、テレワーク以前の、たまに触れ合う程度の関係に戻ったの!」
「なるほど」
香は何度か頷き、聞き込みの情報を脳内にダウンロードしていく。
「お仕事はどうですか?変になって以降、光博さんはお仕事に取り組めていますか?」
「そこは変わってないそうなのよ!旦那の同僚で連絡先を知ってる人がいたからそれとなく聞いてみたんだけど、雑談のときにココアへの愛を囁くのがなくなった以外は、特に仕事で問題はないそうなの!」
「不思議ですね。ココアちゃんに対する愛情だけが小さくなってしまったとは」
「そうなのよ!私も意味が分からなくて!旦那とココアが私を騙してて、全部ドッキリじゃないかとも思ったんだけどね!流石にないわよねえ!?」
「ええ、その可能性は低いでしょうね」
香は確信的な表情を作って応える。
根拠は、恵美に説明する必要はないと判断した。
「……状況はよく分かりました。頂いた情報を基に、調査を進めていきたいと思います」
「まあ、ありがとう!」
「ああ、最後に一つだけ」
「なあに?」
「野間坂さんという方をご存知ですか?」
「野間坂……。いいえ、知り合いにはいないわ!名前に覚えがない!」
「そうですか」
香は残りのコーヒーを胃に流し込み、
「結果はできる限り早くお知らせします。ありがとうございました」
早口でお礼を言い、伝票を手に取って会計に向かった。
香は奇妙な仮説を胸に、"並田"の街に溶け込んだ。
四
『もう寝た?』
『起きてるよ。どうしたの?』
『昨日のこと、覚えてない?』
『昨日?学校でなにかあったっけ?それとも宿題のこと?』
『……ううん、なんでもない。奥の手で確かめてみる』
『なんのこと?』
『個人的なことだから。住野くんは気にしないで』
『分かった』
『おやすみ、住野くん。また明日』
『おやすみ、華奈美。また明日』
既読が付いたのを確認し、僕はスマホの電源を落とした。
※※※
十二月二十四日、クリスマスイブの黄昏時。
香は、並田駅前のロータリーに来ていた。寒風に吹かれながらかれこれ十数分、今か今かと待ち人を待っていた。
日が沈みかかっていた。ロータリーの隅に申し訳程度に存在する植え込みに被せられた、電飾の群れが一斉に光り始めるか否かの瀬戸際だった。
見上げる。今日の空は白く、くもっていた。今にも涙を落としそうだった。
そう、あの日みたいに。
来た。
住野と華奈美が手を繋いで、駅舎から出てきた。
「こっちです」
香は手を挙げ、自身の存在を主張する。
初めに華奈美が気づいた。住野の手を引き、小走りでやってくる。
「華奈美さんですね。そしてそちらが住野さん」
「はい、そうです」
香が二人の顔を見ながら聞くと、華奈美は重々しく答えた。
「怪異探偵の、雛菊香さんですか」
「はい、私が雛菊です」
香はぺこりと頭を下げた。つられて華奈美と住野も会釈する。
「か、カイイタンテイ?華奈美のお知り合い?」
「これから話します」
余計に時間はかけたくない。今夜は聖夜なのだから。
「まずは、ご依頼ありがとうございました。情報提供により、十二月三日以前と四日以降の住野さんのご様子がよく分かりました」
「原因は、分かったんですか」
「まあ、そう焦らないでください」
身を乗り出す華奈美に、香は落ち着いて言った。
「僕の様子?」
一方住野は、話の流れに理解が追いつかないまま、ただ白い息を吐いていた。
「お話を聞いた限り、華奈美さんは翌日の四日に色々試しましたが、効果がなかった。住野さんは三日のことがなかったかのように、朝華奈美さんと登校した。いつも通り手を繋いで、親しげに話しながら」
「そうです」
「……華奈美?説明してほしいな。華奈美が探偵さんに依頼したの?」
「もう少しお待ちください」
香と華奈美は、住野を置いてけぼりにしたまま話を続ける。
「ご学友に『早く付き合え』と急かされつつ、お昼時にはいわゆる『あーん』イベントもこなした。しかし幸か不幸か、それは三日以前にも普通にやっていたことだったため、住野さんが思い出すことはなかった」
「……はい」
「いつのことを言ってるんだろう。結が騒ぐのも華奈美に一口あげるのもいつものことだし」
「そう、今回の一連の件において、住野さんと華奈美さんのその仲睦まじさが、却って事態を複雑化しているのです」
「……」
「自覚はありますね?」
華奈美は無言で頷いた。
「学校の帰りでもそうでした。電車内の席に並んで座り、寝た振りをして揺さぶってみても、単なる寝言として受け取られて意味がなかった。そうですね?」
「はい……」
「寝た振り?なんでそんなことを?」
「あと少しです」
香は焦らしに焦らす。
「そして最後。寝る前のメッセージのやり取りでは思い切って尋ねてみましたが、これも失敗に終わった。というか、覚えていないようだった」
「メッセージ……。もしかして、昨日のことを覚えていないか、聞いてきたこと?」
「そうです」
住野はうっすらと思い出したみたいだ。
「華奈美さんは十二月四日にこれらの、一種の『試し行動』を実践しました。が、ことごとく空振りに終わり、『奥の手』を使うことにしたんです」
「それも確か、メッセージで言ってました」
「ええ……」
香はそこでようやく、住野の方に体を向けた。
「私がその『奥の手』です。事情を知った探偵という第三者にこうして話をさせ、三日の夕方に起きたこと、いえあなたが華奈美さんにしたことをあなたに直接説明する。それが『奥の手』です」
「……!」
横で華奈美が両目を見開く。
どうしてそこまで気づいたの!?とでも言いたげなリアクションだった。
「華奈美さんは私の、三日以前と四日以降のあなたに変化がないことについて依頼してきました。十二月十七日のことです」
「はあ……、なんでそんなことを」
「華奈美さんは、あなたが自分で気づくのを期待していたんでしょう。ですが、ついぞ叶わなかった」
「あの、気づくって、なににですか?三日に僕が華奈美にしたことって、なんなんですか?覚えがないんですけど」
ずっとはぐらかされていた住野は、これ以上辛抱できなさそうだった。
頃合いだ。
「それは、私の口から申し上げてもいいのですか。華奈美さん?」
香は華奈美の方を向く。
「そうやって大事なことを人任せにして、あやふやなままにしますか?やっと気づいた本当の気持ちに、ふたをし続けますか?」
「……」
「それでもいいんですね。では、私から……」
「待って!」
香がもったいぶると、大声を上げる華奈美。
往来の人々の注目が集まる。
「……私が言います」
「かしこまりました。きっと、それがいいでしょう」
ご清聴ありがとうございました。では。
香は改めて華奈美と住野に頭を下げると、並田駅の南口に消えた。
「え、行っちゃうんですか……。華奈美?華奈美が言うって、なにを?」
「……あのね、住野くん。三日にアレがあって、私気づいたの。自分の本当の気持ちに」
「華奈美……」
「私、住野くんのこと……」
そこから先は、野暮ってもんだ。
※※※
香は改札を通過し、夕暮れに染まる並田駅のホームへと降り立った。
無人だった。いや、一人だけいた。
香はその人物に向かって歩き始めた。
「はじめまして。神田結さん、とお呼びすればいいですか?」
「いいわよ、それで」
香の目の前にいたのは、一見、溌溂そうな女子高生に見える存在。
住野と華奈美の友人である、神田結だった。
「申し訳ありません、あなたの邪魔をしてしまいました」
「いいわよ」
「でも、これだけは聞かせてください」
「なに?」
「あの日、あなたが神性を用いて十二月三日の夕方に降った雨に奇蹟を与え、住野さんの華奈美さんに対する恋愛感情を萎ませ、なおかつプロポーズした記憶は忘れさせたのは、なぜですか?縁結びの神様としての使命感によるものか、それとも二人の友人である神田結としての願望だったのか」
「あら、野暮なこと聞くわね」
「一応確かめないといけませんから。あなたが神性を奪った悪い神様なのかどうか」
「そ」
結は、縁結びの神は、やれやれと息を吐いた。
「両方よ。つかず離れずの住野と華奈美のやりとりが、見ていて楽しかった。だから住野の告白で、二人の関係が壊れてほしくなかった。でも、二人にはくっついてほしいという気持ちもある」
「なるほど」
「他の人に迷惑をかけたけど、私はあいつの言う悪い神様じゃない。私は神の中では力がある方だし、他から盗る必要もない。これ以上の力も欲してない」
あいつというのは天使のことだ。
神は全知全能である。香と天使の関係は、縁結びの神には筒抜けというわけだ。
「信じます。あなたはなんだか、今のあなたで幸せそうですから」
「あら、縁結びの神に幸せを説くなんてね」
「すいません。釈迦に説法でした」
「いいわよ、私は気にしない」
言い終わると縁結びの神は振り返り、香に背を向けて歩き始めた。
話は終わりという意思表示だと、香は受け取った。
「依頼は、私の方でけりをつけておきます」
結の背中に、香は言い放つ。
反応はなかった。
※※※
「それで、前三件の依頼人には適当言って納得させたと?」
「適当ではありません。あり得ないながらも最も論理的な原因を提示しただけです」
他に誰もいない夜の大学のカフェテリアで、香と優斗は駄弁っていた。
「直接浴びた者の心の中にある一番大きな感情を萎ませ、更にその感情に起因して行っていた行動の記憶を消去する。そんな奇蹟のような雨が実際に、十二月三日の夕方に並田で降ったんです」
「そのせいで、原田さんはパワハラの気がなくなって、芳樹さんは就労意欲が薄まって、光博さんはココアちゃんへの愛情が抑えられて、ココアちゃんは内向的になったってこと?」
「そういうことになりますね」
「……まあ、そう納得するしかないか。結果そうなってるんだし」
「ええ」
香は優斗や依頼人たちには、神云々について隠すことにしている。理解も納得もできないだろうからだ。
「それと、感情に起因していた行動の記憶を消去するってどういう意味?確かに、住野くんはプロポーズしたことを忘れてたけど」
「それはですね……」
香はそこでコーヒーを飲む。
「芳樹さんは社交的な感情の根幹にあった、バイトの仕事中だという記憶が飛んだんです。これは推測ですが、マウンテンバイクでお弁当を配達している途中、並田駅前を通って奇蹟の雨を浴びた彼は、今が宅配の仕事中であることを忘れ、更には働く意欲もなくなって、家に帰ったんです」
「なるほど。それなら無断で退勤したことの説明になるね」
「光博さんとココアちゃんも同じような感じです。散歩で並田駅前を通り、急に降ってきた奇蹟の雨を直接浴びた。そしておそらく、一人と一匹の感情の根幹にあった散歩に対する記憶が失われた」
「それですぐに帰ってきたと。雨が降ってきたからじゃなかったんだね」
「その辺りの動機は不確かですが、私の考えではそうです」
香は言い切り、また黒い水を啜った。
「ってことは、原田さんも並田に住んでるの?」
「はい。秋江さんと恵美さんに会ったのが同じ喫茶店だったことで、メッセージでは気づかなかった地理的な共通点に気づけました」
「そっか。SNSで依頼する時点では雛菊さんが受けてくれるか分からないから、どの依頼人も住所とかは明かしていなかったんだね」
「そうなんです。もしかしてと思って調べてみたら、原田さんも並田にお住まいでした」
香は三度口を湿らせる。真相解明パートは話すことが多い。
「原田さんは電車で会社から帰り、並田駅の駅舎から出たところで雨に降られた。彼のうちにあったパワハラも辞さない教育論は衰退し、それと結びつきの強かった、会社の人間や取引先との付き合い方を忘れた。だからパワハラが止み、礼儀正しくなったんです」
「理に適ってるね」
「そうなんです。あの日の雨が奇蹟だと仮定すれば、こうして辻褄が合うんです」
香も勇斗も頷きながら、飲み物を摂取した。
「不思議だね。僕はてっきり、住野くんがなにかしたのかと思ったよ。告白で玉砕した黒歴史をなかったことにするために」
「……そう単純だったらよかったんですけどね」
実際は、縁結びの神様がそれに近い理由でやったのだが。
運良く(運悪く)ニアピンを射止められ、香は助手の直感にひやひやするのだった。




