第七二話 指摘ですわ!
ブルーネンから少し離れた、森の中。
切り立つ崖のすぐ下に広がる森は未だ充分に調査が為されていない秘境であり、開墾の候補地とされている。
その森の中、泉の傍にうずくまっていた女性が、不意に上体を起こした。
「……」
両腕を地面につけた前傾姿勢のまま、彼女の黄金色の髪が風に揺れ、少し尖った耳がちらりと見える。
神聖な泉の湧水を口に含んだ後、彼女は脳に溢れ出す記憶情報に苦しんだ。
けれどそれが一旦収まった今、彼女はぼうっとしながら得られた情報を頭の中で整理していた。
「セバス……セバス……」
自分に馴染ませるように呟いた彼女だったが、口は自然に動く。
何の違和感もなくするりと飛び出した言葉は、今までどうして忘れてしまっていたのか不思議な程だった。
「それは、いいとして」
すっくと立ちあがり、腰に手を当てて彼女は上体を反らす。
指を組み掌を天に向けて伸びをして、得られなかった情報を挙げていく。
「結局、私の名前は分かりませんでしたわね」
言葉遣いこそ記憶を失う前に戻っているロトだが、その実自分自身に関する情報はとんと覚えていない。
身体が、口が覚えているから自然と言葉遣いが変わっただけであって、彼女自身が自分の事情に対して全く自覚的ではないのである。
「でも、分かったこともありますわ……どうやら私、相当な生まれのようですわね」
記憶に映った景色は、どれもこれも気品に溢れ、装飾も豪華だった。
森の中で一晩を明かし夕方になりつつある今まで見た景色とは、言っては悪いが比べ物にならない、とさえロトは思っている。
衣服に付いていたという紋章から導き出される結論として妥当な所ではあったが、彼女が記憶を頼りに導出する情報としても間違いではなさそうだった。
「でも、そろそろ暗くなってきましたわね……遅くなり過ぎないうちに、里に戻るとしましょう。今晩の夕飯は何かしら、結構頑張った私を慮って豪勢な食事を用意してくれていることでしょう……」
勝手に期待を膨らませ、足元が悪い中を跳ねるように森を掻き分け進んでいくロト。
彼女が森を出て里に着いた頃、泉に一つの生物の影が現れた。
「U、BOO──」
誰がどう見ても魔物と断言できるその生物だが、他のどの生物に近しい外見をしているか、という説明の仕方をしようとすると、存外難しい。
全身が毛むくじゃらになった人間が身体から黒紫の結晶を生やしているとも言えるし、濁った宝石が人の形を成したもの、とも言える。
ただ平常時の外見がどうであれ、現在その魔物が深い傷を負っているだろうことは誰の目にも明らかだった。
「U……BOO……OH……」
息も絶え絶えになりながら、それでも気迫だけで周辺の外敵を遠ざけつつ、魔物は泉に辿り着いた。
聖なる湧水を湛えた女神の泉に辿り着いた魔物が、自らの本能に従って湧水に前足を漬ける。
湧水の効能も原理も何も理解していない魔物だが、この水に触れれば傷が癒えるだろうことを、感覚的に把握していた。
「U~」
腕を水に付けた瞬間、魔物の神経に鋭い痛みが走った。
しかしそれすらすぐに癒え、崖の崩落に巻き込まれて負い、丸一日以上放置されていた傷がみるみる塞がっていく。
それどころか、瘴気に中てられてからずっと溜まっていた淀みが消え去っていた。
「UBO」
結晶化が進んだ今は瘴気の完全除去こそ出来ていないが、だいぶ思考力が回復していた。
今の魔物なら、強力な護衛が付いているだろう馬車の群れを襲うなどという愚行は犯さない。
傷は完全に癒えた今、魔物の欲求の大部分は空腹の解消に占められていた。
「U」
空を見上げた魔物が喉を鳴らす。
魔物は里の存在には気付いていたが、この魔物はただでさえ低い探知能力が瘴気に中てられたせいでほとんど使い物にならなくなっていた。
しかし、食料に溢れた場所が何処かにある、というのは魔物にも分かっている。
「UU~──」
のそりと魔物は踵を返し、森の奥へと小腹を満たしに向かう。
暴威の危機は、未だに令嬢の傍から消えてはいない。
<***>
逸れ者の里
逸れ者たちが自然と寄り集まって出来た里も、夕暮れを過ぎると出歩く者はいなくなる。
夜間に外へ出るのが危険だと判断しているからなのか、はたまた暗い時間に外へ出て悲鳴を挙げられた経験に恐怖を植え付けられているからなのかは、誰にも分からないし誰もはっきりさせようとはしない。
そんなことを無意識に考えながら、今日の巡回を終わらせた緑色の肌の男が自宅への道を歩いていた。
「ロトのやつ、どうなったかなぁ……」
明かりの灯る我が家をその視界に収めると、途中で巡回の仕事を離脱したロトへの心配がエルデの胸中に浮かんできた。
妹のバウムの元へと送り出してから、ロトが今日どのように過ごしたかをエルデは知らない。
「健康でいりゃいいが」
後頭部を掻き、森へ入るための厚着の留め具を外しながら、エルデは自宅の玄関を押し開けた。
「お。おかえりお兄ちゃん」
「応──ん、ロトはどしたよ?」
上着を壁の突起にかけ、装備を外しながらエルデが家を見回す。
妹が返事を寄越した調理場にはいないようだし、机が置いてある居間にも姿が見当たらない。
妹のバウムが野菜を刻みながら、顎で階段を示した。
「帰ってきてからずっと二階にいるよ。何か探し物があるとかなんとか、言ってた気がするけど」
「探し物か……見て来るわ」
二階にはエルデとバウムの部屋がそれぞれ存在し、他に客間などはない。
探し物という単語を基にエルデが選んだのは、自分が普段就寝している部屋の扉だった。
自分の部屋の扉を開けるというだけの行為に何故か緊張感を覚えたエルデが、首を振ってゆっくり扉を押した。
「──やっぱ、こっちに居たか」
「? ああ、エルデ」
部屋の一角、ロトが落下してきた際に周辺に落ちていたものや身に着けていたものを纏めてある区画に、ロトは座っていた。
やはり、と胸の内で納得するエルデが、ロトの背後まで歩みを進める。
一方でロトは自分の作業に戻り、荷物が散らばる領域に手を突っ込み始めた。
「探し物してるって聞いたぜ。記憶戻ったんか?」
「ええ。一部ですけれど」
部屋の一角を漁りながら、ロトが淡々と答える。
面食らったのは寧ろエルデの方だった。
「何! おいおいマジかよ、冗談で言ったんだがよぉ」
「でも、まだ思い出せないことだらけですわ……何とか分かったのが、私と一緒にいた男の子の名前だけですの」
思わず身を乗り出していたエルデだが、記憶が完全に戻った訳ではないと理解した彼は腕を組んだ。
いや待てよ、と小さく呟いたエルデが再びロトに問う。
「アンタ、その男の子とやらとずっと居たってのか? そいつぁおめぇ、アンタの喋り方から考えてよぉ」
「ええ。恐らく私の執事にあたる人物でしょうね」
特段抑揚無く、まるでただの報告かのようにロトが応えた。
まじかよ、と零したエルデが身を引き、後ろからロトの全身を見る。
確かに気品に溢れ美しいとは思っていたが、いいとこの令嬢だと知れると嫌が応にも襟元を正さねばならない気分になってくる。
「だから、その人──セバスという名前の筈ですわ。セバスに関連する物品がないかどうか探しているんですけれど……なかなかうまくは行きませんわね」
荷物の山をひっくり返しても有力な情報が得られなかったロトが区切りをつけ、座ったまま伸びをする。
豊かな金色の髪が流れる様に見入ったエルデが、ふと生じた疑問をロトにぶつけた。
「なあロト。アンタ、自分の名前は思い出せねぇのか?」
「ええ……残念ながら。自分でも一緒にいた男の子の名前は思い出せて、自分の名や出身に確信が持てないのは歯がゆいという以上ありませんわね」
「不思議なこともあるもんだな。自分よりも自分に近い他人のことが大事みてぇだな」
「返す言葉もありませんわ。けれど、貴方も案外そうかもしれませんわよ?」
立ち上がり振り返ったロトが、エルデを下から覗き込む。
急に距離を詰めて来た金髪の麗人が微笑みを浮かべていることに気圧されたエルデが、緊張を誤魔化すように口を開いた。
「な、なんでそう思うってんだぁ?」
「貴方、自分を省みようという意思が感じ取れませんもの。妹さん……バウムさんの方がよほど大事なのではなくって?」
「……はは、そうかもな」
思った以上の直球をぶつけられたエルデが、乾いた笑みと共に否定とも肯定とも付かない曖昧な返答をした。
その様子から当たらずとも遠からずだろうと判断したのか、ロトがエルデの部屋を後にする。
彼女が扉に手を掛けたとき、エルデが決意を固めて言った。
「待ちなぁ」
「? どうかしまして?」
「そこまで筒抜けならしょうがねえ。知っといてもらった方がいいこともあるしよ──この村のこと、おでたちのことについて、今晩きっちり聞いてもらおうじゃねぇの」




