第七一話 記憶ですわ!
「よっ。ほっ」
里長から森に親しんだらどうか、という提案を受けた金髪尖耳の女性が、せせらぐ小川をまたぐ。
里に落下してきた時点で着用していた衣服とは異なり運動に適した服装をしているため、彼女は思うままに森を巡っていた。
木漏れ日が差す日中に帰れる範囲で、縦横無尽に駆ける。
「えっと。確か、ここを」
ただ、やみくもに走り回っていたわけではない。
事前に里長から道を聞き、目的の場所へと向かっている。
踏み慣らされた道から大きく外れない様に意識しながら、森に沢山触れるように歩いているのだ。
そうして十分と少し経った頃。
「──着いた」
樹木に右手を当てて体重を預け、ロトは目の前の光景に息を呑む。
深い森の中にありながら陽を受けて爛々と輝く水面、中央に拵えられた小さな社。
つい昨日に瓦礫が落下してきたとは思えない、美しい泉が其処にはあった。
「ここが、私が落下したという……」
何時の間にか口調が戻りつつあるロトが呟く。
圧倒される美しさに呼吸すら忘れかけ、彼女はその場にゆっくりと腰を下ろした。
「私が落ちて来たというのに、随分綺麗ですわね」
率直な感想を口にするロトだが、彼女がそう思うのはある意味では自然なことだった。
彼女や馬車や荷車が一斉に落下した後、神聖な泉を守るために里の人々が共同して原状復帰を果たしたのだ。
木片や布切れの撤去に民衆が参加し、それでも除去しきれない濁りや枝が折れてしまった木には魔術師が対応する。
しかし、今泉が綺麗な状態なのはそれだけが理由なのではない。
「綺麗な水ですわね……少し喉が渇きましたし、掬わせていただきましょう」
足元に揺蕩う水面に見入っていたロトは、動きを止めたことで感じた喉の渇きを潤すために水を飲もうと試みる。
熟練の冒険者ならば、飲用に適しているかを判別する魔道具を働かせてからようやく口に含むものだが、ロトはそうした経験がなく、警戒せずに泉の水を喉に通した。
泉の水は奇跡的に飲用にしても問題ない水質であるが、過剰な魔力摂取による回路不全などを引き起こす恐れがあるため、無闇に天然のものを口にするのは推奨されない。
「んっ、んっ……ぷあ」
両手で椀を作って掬った水を喉に流し込み、ロトは嚥下する。
喉を冷たい水が滑り落ちる感覚を楽しみながら、彼女は服の裾が濡れてしまったことに気が付いた。
帰ったときにどう説明しようか、と悪知恵を働かせようとしたロトだったが、彼女は唐突に発症した頭痛に苛まれてそれどころではなくなってしまう。
「うっ。んん……あぁっ」
割れそうになる頭を抑え込み、ロトは脳内にあふれ出した情報に立ち向かう。
神聖なる泉の水の効能により身体機能が活性化され、失われていた記憶の蓋が少し開いたのだ。
ぱんぱんに詰められた壺の底に小さな穴が開き、彼女の中で最も重要な情報が滴り落ちる。
『──そのような恰好をされていては、御身体に毒です──』
『──うるさいですわね、これが綺麗だと思ったからこの格好を──』
『──ねえ。こちらに置いてあった指輪見てないかしら』
『指輪ですか? この部屋の掃除を担当したのはあの方でしたね、今すぐ確認を──』
『──もう! あんなクソ親父知るかってんですわよ!』
『あ、あわわ……』
『お嬢様は、どうやら御館様に叱られたようですね。こうしたときは、温かいお茶を淹れて──』
何でもない日常の断片が、彼女の記憶野を駆けまわる。
間違いなく自分である金髪の女性が、屋敷の中で退屈でありながら輝かしき日々を過ごすさま。
自分以外に何人か登場人物がいたが、百を超える日常風景の全てに出てきたのは、燕尾服を着た黒い髪の青年の姿。
「名前、名前、は」
溢れる情報の奔流を何とか制御しようと集中し、ロトが燕尾服の男の名前を探ろうと試みる。
掴むところのない水中で藻掻くような、星に向かって手を伸ばすような時間が続き、遂にロトはとある記憶に辿り着く。
『──お嬢様。こんなところにいらっしゃったのですか』
『放っておいてちょうだい! 今は誰とも話したくありませんッ!』
『……そうですか』
これは恐らく、引き籠った自分を心配して燕尾服の男が訪ねてきた場面の記憶だろう。
涙目になり膝を抱えて扉に背を向けて座る自分の背後、扉を隔てた廊下の向こう側に燕尾服の青年の声がする。
ひとしきり涙を流し、落ち着いた自分が、そこでふと気が付いた。
大理石に革靴を鳴らす音が、片道分しか聞こえていなかったという事実に。
『……ねえ、いるの?』
『ああ、落ち着きましたか。そろそろ向かいましょう、夕飯が冷めてしまいます』
『なんで、なんで行かなかったの』
『なんで、と申されましても』
何故そんな当たり前のことを、といった困惑が滲む声で燕尾服の男が語る。
『私は、お嬢様の執事ですから』
『──』
無償の奉仕をするために、それ以上の理由が必要か、という信念が感じられる声で、燕尾服の男が言い放った。
当時の自分は、たったそれだけの言葉が途方もなく嬉しくて、泣きはらし冷たくなっていた胸が温かくなって。
どうしても我慢できなくて、燕尾服の青年の名前を呼んでいた。
「──セバス」
<***>
ブルーネン近郊:崖上の荒原地帯
オディール一行のうち、崩落から免れた人員が簡易拠点を形成した場所。
奇跡的にオディール本人以外の人的被害は無に近く、魔獣の襲撃以外で怪我を負った者はいなかった。
野営地点の中央に張られた天幕の中に、軽装備に着替えた近衛兵たちが入る。
「第三捜索小隊、ただいま帰還しました」
「報告します。崖下の森の捜索を進めている状況ですが、未だに有力な情報は得られておりません」
「落下地点を中心に調べようとしているのですが、似たような光景が広がるばかりで……地図に正確に記しながらだと、どうしても捜索速度が限られてしまい」
「──そうですか。ありがとうございます、御三方はお休みください」
報告を受けたセバスが、捜索隊に活動を中断して休むように命じる。
それを受けて第三捜索小隊が退出した後、彼は簡易椅子の背もたれに体重を預ける。
疲労が滲む彼の様子を心配した魔術師が、気を利かせて熱い茶を淹れて彼に手渡した。
「どうぞ」
「ありがとうございます……しかし、手がかりが何もない、というのは如何にも変ですね」
一口茶を含んだセバスが、懸念点を挙げる。
あれだけ派手に落下したのだったら木々が被害を受けているはずで、地図と方位磁針を照らし合わせて捜索すれば情報の一つも見つかろうというもの。
そうした目論見は、里の人々が森を治癒しようとしたことによってご破算になってしまっているのだった。
「そうですね。わたしの方でもオディール様の魔力を追跡しようとしているのですが、上手くいかず……」
魔術師が魔力追跡に失敗した理由は、大きく分けて二つある。
一つは、オディール本人が有している魔力が乏しく、外界から認識しにくい点。
エルフの血を引く彼女がルーフェ家を追い出された理由でもある。
ただ、気がかりなのはもう一つの理由である。
「崖下の森は魔獣の数が多く、野良の魔力が検知に多く引っかかってしまうのです」
「なるほど……それは危険ですね。お嬢様の身の安全は確認できていますか?」
「それは問題ないはずです。出発前に登録しておいたこの魔道具を見てください」
そう言いながら、魔術師は懐から短剣を取り出した。
革製の鞘から抜かれた短剣は、照明によって明るい天幕の中でさえもはっきりわかる程、強く光っていた。
「これは特殊な短剣でして。体毛を切った相手の魔力反応が途絶えているか否かを判別できる優れものです。効果は判別だけで追跡や特定はできませんが、その分情報の精度には文句のつけようがありません」
「つまり、その短剣が光っている限り、お嬢様の命は無事である、と」
要約したセバスの台詞に対して、魔術師は頷きで返す。
ひとまず命に別状はないという情報は得られたセバスが胸をなでおろすが、かといって立ち止まってばかりもいられない。
自分の行動を貫き通す覚悟を確かめたセバスが、中央の天幕から退出する。
「それでは、私は休みます。暫くは貴方に任せました」
「はい、わかりました」
魔術師に全体の情報精査や報告の確認を一任したセバス。
彼が布に手を当てて持ち上げた時、その背中に悲壮感を見て取った魔術師が耐え切れずに言葉を飛ばした。
「あの、セバスさん」
「はい?」
「その……気を付けてください」
これから休む、と言っている人間にかける言葉ではないため、セバスは魔術師の思惑が大体掴めた。
それでも動揺することはなく、至って平静を装って彼は軽く笑う。
「はは、嫌だなぁ。貴方の方こそ、休む時はしっかり休んでくださいね」
「ええ。頼りないかもしれませんが、こちらはわたしに任せてください」
仕事仲間の頼もしい発言を背中で受け止め、セバスが日没間近の外に出る。
簡易拠点から少し歩いた点、オディールが崩落に巻き込まれた地点から、彼は崖の下を見る。
「何処にいるかはわかりませんが……」
セバスは崖の端に足を置き、ゆっくりと体重を前方に傾けていく。
彼の身体は徐々に垂直から傾き出し、遂に水平に辿り着く。
山道を辿って森に行く、という時間の浪費を、今の彼は受け入れられない。
「私が、必ず、見つけて差し上げましょう」
夜の森に光る流星となり、彼は主が待つ何処かへと飛んでいく。




