第60話:その通報は、死者からでは
八月の終わり。窓口は、いつもの静けさに戻っていた。
財前は去った。安全投資抑制方針は、撤廃された。事前審査会は消えた。だが、窓口の仕事は変わらなかった。今日も通報が届く。受付と同時に、番号が振られる。取り下げても消えない番号が。声が、番号を持てる。それだけのことを守るために、二つの事件が必要だった。
サトルは、九鬼の日報の綴りを思った。関東第二班の、几帳面な字。結界札、規定数に不足。要、補充。何十回も書かれて、誰にも読まれなかった声。あの声が番号を持てなかった、あの日から、ここまで来た。
「木村さん」椎名が言った。「一つ報告があります。……予防退魔事業部の点検が、規定通りに戻りました。全契約先。月一回。三点照合。……立花物流のあの区画も、結界が張り直されました」
「そうか」サトルは言った。
「もう、あの倉庫では誰も削られません」椎名は言った。それから少し間を置いて、付け加えた。「森下さんの指が昨日、少し動いたそうです。加奈さんから連絡が。……まだ意識は戻りませんが。少しずつだ、と」
サトルは頷いた。少しずつ。それでよかった。この仕事に、劇的な勝利は無い。あるのは、少しずつ削られる人が減っていく、それだけの地味な積み重ねだった。だが、その積み重ねの一つ一つに、名前があった。九鬼透。森下和也。椎名アヤ。数字にされかけて、名前を取り戻した人たち。
二人はしばらく黙って、それぞれの仕事をした。サトルは現場勘で数字の不自然を嗅ぎ、椎名は、法とログでそれを裏づける。信じる者と、信じない者。現場知と、法務。二つの違う目が、一つの卓を挟んで並んでいた。八年前の椎名の荷は、まだ重い。だが、もう一人では、なかった。
その静けさを破ったのは、椎名の端末の通知音だった。
新着通報。椎名が、それを開いた。そして――その指が、止まった。
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社内通報受付システム 新着通報
通報番号:2026-0828-004
受付日時:2026年8月28日 22:17
通報経路:匿名通報フォーム(社用VPN経由)
送信元アカウント:九鬼 透(第三事業部・関東第二班/退魔師)
本文:
「よく、やりました。でも、まだ、終わっていません。
次は、あなたたちの、すぐ、隣です。」
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サトルは、その送信元を見て、息を呑んだ。
九鬼透。まただった。凍結されたはずの、アカウント。特別調査で、二度、確認された。もう存在しないはずの口。それが、また開いていた。三度目。今度は、労いと警告を載せて。あなたたちの、すぐ、隣。
「また、九鬼さんから――」サトルが言いかけた、そのとき。
「木村さん」椎名の声が鋭かった。「待って。……今度は違います」
椎名は猛烈な速さで端末を叩いていた。いつもの乾いた指ではなかった。何かを追う指だった。
「一通目のときも、二通目のときも、私は送信経路を調べました。でも、凍結漏れのシステムエラーか、超常か、区別がつかなかった。ログが残っていなかったから」椎名は言った。「……でも、今回は。事前審査会を撤回したとき、通報システムのログ保全を強化したんです。全ての送信にセッション情報が残るように。私がそう変えました。だから――」
椎名は一つのログを開いた。そして、その画面を見つめたまま動かなくなった。
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通報 2026-0828-004 送信セッション ログ(抜粋)
送信元アカウント:九鬼 透(凍結済)
セッション発行:2026年8月28日 22:15
認証経路:社内ネットワーク(本社ビル内)
接続端末:〔特定済/社内貸与端末〕
同時刻の入館記録:有り
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「入館記録が有る」椎名が掠れた声で言った。「二十二時十五分。本社ビルに誰かがいた。……凍結された九鬼さんのアカウントを使って、この通報を送った、その瞬間。同じ時刻に本社ビルのゲートを通った記録がある。生きた人間の入館記録が」
サトルは、そのログを見た。背筋が、冷たくなった。
三月に死んだ男の、アカウント。二度、凍結された口。それを使って通報を送っていたのは――幽霊では、なかったのか。この二か月、いや、この二つの事件の始まりからずっと。死者からの通報だと思っていた、あの一通一通を送っていたのは。本社ビルにいる、生きた誰かだったのか。
「じゃあ」サトルは言った。「あの最初の通報も。九鬼さんの事件を教えてくれた、あの一通も。……生きた誰かが、九鬼さんの名前を借りて」
「分かりません」椎名は言った。声が震えていた。だが、その震えは恐怖ではなかった。もっと鋭い何かだった。「まだ分かりません。端末は特定できても、誰が使ったかはまだ。……でも、木村さん。一つだけはっきりしました。この通報は」
椎名は顔を上げた。その目に、証拠を掴んだ者の光があった。八年前、証拠がなくて、何も掴めなかった女が。今度は、掴んでいた。
「この通報は、死者からでは、ないのかもしれません」
窓口の蛍光灯が、じい、と鳴った。壁のポスターが、白く光っていた。安全は、すべてに優先する。サトルは、その新しい通報番号を見た。2026-0828-004。次は、あなたたちの、すぐ、隣。
誰が送ったのか。なぜ、九鬼の名を借りるのか。すぐ隣とは、どこの現場か。答えは、まだ一つも出ていなかった。だが、始まりはいつも、この窓口だった。番号のついた、たった一通の通報から。
「受理しよう」サトルは言った。「番号は残った。……調べる。今度こそ、この一通を送っている相手が誰なのかも含めて」
椎名は頷いた。それから、いつものように、その通報を無言でスクリーンショットに収めた。乾いた指で。消せない記録を、また一つ残すように。
あの一通を送っていたのは、誰か。次は、二人のすぐ隣です。




