第52話:室を消す
朝、窓口の共有フォルダに、一つ文書が増えていた。
差出は人事部。件名に、確定の二文字があった。二か月、回覧の判だけを集めていたあの起案が、規程改正の答申を経て、とうとう施行日を持った。西野はそれを印刷して、サトルの机に置いた。いつもの、角を揃えた置き方ではなかった。少し乱れたまま置いた。西野の指が、途中で力を失ったように。
「もう、日数は稼げない」西野は低く言った。「私が押せる判は押した。遅らせられる手続きは遅らせた。……ここまでだ、木村くん。答申が出てしまえば、施行日は動かせない」
──────────────
コンプライアンス室 機能見直し 施行スケジュール及び事前審査会 運用細則(確定) 管理番号:2026-K-0231-2
所管:人事部/総務部 法務コンプライアンス課
根拠:内部通報規程 一部改正(答申 2026年7月14日)
施行予定日:2026年7月28日
〔施行スケジュール〕
7月22日 規程改正の社内公示
7月24日 コンプライアンス室 廃止の内示(各室員へ通知)
7月28日 内部通報窓口を 法務コンプライアンス課 通報受付係へ統合/事前審査会 第1回開催
以降 既存の未受理案件は、事前審査会の再審査に付す
〔事前審査会 運用細則(抄)〕
1. 通報は、受付後ただちに事前審査会へ回付し、付議の可否を審査する。
2. 事前審査会が「付議可」と判断した案件についてのみ、受理番号を採番する。
3. 「付議不可」とされた案件には、受理番号を付さない。受付記録は90日で消去する。
4. 経営方針・経営判断に関わる案件は、原則として付議不可とする。
5. 審査会の議事は、非公開とする。
〔付記〕現行の「受付と同時の受理番号 自動採番」は、本細則の施行をもって廃止する。
──────────────
サトルは、その付記の一行を長く見た。
九鬼の事件で二人が勝ち取った、たった一つの制度がそこにあった。受付と同時に受理番号が自動で振られる。取り下げても番号は消えない。声が番号を持てるようになった。四十五件の握り潰しは、その番号があったから束ねられた。あの一行を勝ち取るために、椎名は幾夜も規程を読み込み、サトルは九州へ飛ばされかけた。それがいま、細則のいちばん下の〔付記〕の、たった一文で廃止される。
「これは」椎名が画面を覗き込んで言った。声は平板だった。だが、指が細則の三番目の上で止まって、動かなかった。「……握り潰しですらありません。付議不可とされた通報には、番号が付かない。受付記録は九十日で消える。九十日経てば、その人がいつ、何を訴えたか。誰も証明できなくなる。受け付けたという事実そのものが消える」
「四番を見てくれ」サトルは言った。「経営方針に関わる案件は、原則、付議不可。……森下さんのような通報は、最初から受理されない。点検を間引いたのはKPIだ。KPIは経営判断だ。だから付議不可。番号も付かない。九十日で消える」
窓口は静かだった。だが、その静けさは、以前とは違う種類の寒さだった。人を飛ばすよりも、これは静かで、そして確実だった。財前は誰も報復しない。異動も懲戒も要らない。声を受け取る窓口を閉じてしまえば、それで済む。次の九鬼も、次の森下も、そもそも番号を持てない。訴えたという記録すら、九十日で消える。届く前に声を殺す。いちばん静かな殺し方だった。
昼過ぎ、その静けさを破って、事務方が来た。
人事部の戸倉だった。若い部員を二人連れて、台車を押していた。空の段ボールが積んであった。
「引き継ぎの下見です」戸倉は事務的に言った。目を合わせなかった。「六日に統合ですので。備品と書類の目録を、先に取らせていただきます。……ああ、木村さん。個人の私物は三日までにまとめておいてください。専任配置はなくなりますから。あなたは統合後、別業務との兼務です。この机も、このフロアもなくなります」
サトルは戸倉を見た。二か月前、サトルを「私怨の問題社員」だと自分の名で社内に流し、あの機構改編の起案もこの男の名で出た。だが、戸倉は絵を描く人間ではない。名を貸す人間だ。段ボールを運んでいるのも、誰かの代わりだった。目が合わないのは、良心が痛むからではない。ただ手順をこなしているだけだった。
「戸倉さん」サトルは言った。「六日まで、窓口はまだ生きてますよね。統合は六日。それまでは旧規程です。受付と同時に受理番号が振られる。……いまも」
戸倉の手が一瞬止まった。それから、目録の紙に目を戻した。
「規程上は、そうです」戸倉は低く言った。「六日零時までは。……ですが、木村さん。いま駆け込みで何件番号を振ったところで、六日以降、それは全部、事前審査会の再審査に回ります。細則のスケジュールのいちばん下。既存の未受理案件は再審査に付す。……徒労ですよ」
戸倉は台車を押して出ていった。サトルは、その背に何も言わなかった。
だが、西野は違った。戸倉が消えた廊下を確かめてから、声を落とした。
「あの男の言い分には」西野は言った。「一つ穴がある。……再審査に回るのは未受理案件だ。だが、いったん受理番号が振られ、正式に受理された案件は、既に係属中だ。規程は遡って、係属中の案件から番号を奪えない。……六日まで私が室長でいるうちに、受理まで通したものは消せない。事前審査会でも消せない。それが駆け込みの意味だ、木村くん。徒労じゃない」
サトルは西野を見た。この中間の人が、いま何をしようとしているか分かった。表では施行スケジュールに判を押し、廃止の内示を各室員に回し、従うふりをする。だが裏で、室長の決裁権がまだ自分にある残りの数日を使って、受け付けられる通報を片端から受理まで通す。番号を振り、係属させ、消せないところまで運ぶ。定年間際の一人の室長にできることは、それだけだった。だが、そのそれだけを、彼は命がけでやろうとしていた。
「西野さん一人では」椎名が言った。「限りがあります。受理まで通すには、初動の調査が要る。決裁が要る。六日まであと数日で通せるのは、せいぜい」
「分かっている」西野は疲れた目で頷いた。「一件、二件だ。全部は救えない。……だが、一件でも番号を持って係属していれば。それは事前審査会が立っても消せない楔になる。この機構改編が違法だと、あとで争うときの生き証人になる」
サトルは机の上の綴りを見た。相良から託された業務監査の文書閲覧請求。AUD-2026-0072。二週間で三年分の議事録の原本を開ける、と相良は言った。あれから日は進んでいた。だが、原本が開いても、それを稟議と突き合わせ、意思決定を逆算するのは、この窓口の仕事だった。窓口が六日に消えれば、逆算する立場そのものがなくなる。相良が鍵を回しても、扉の内側に立つ者がいなくなる。
そして、その相良の椅子さえ、いま揺れていた。昨夜、相良から短い連絡があった。定時株主総会を控えて、監査役再任に反対する株主提案の動きがある、と。誰が裏で糸を引いているかは書いてなかった。書く必要もなかった。相良が再任されなければ、AUD-2026-0072は宙に浮く。監査役でなくなった人間の閲覧請求など、事務局はいくらでも店晒しにできる。
二つの砂時計が落ちていた。室が消える六日までの日数。相良の椅子が揺れる株主総会までの日数。どちらか一方でも落ち切れば、逆算は止まる。財前は名を残さないまま、卓の向こう側で笑っている。
「最後の一枚だ」サトルは言った。「原本が開くまでにこっちが消えたら終わる。だが逆に、こっちが消える前に係属した案件が一つでも生きていて、相良さんの監査が動いていれば。……財前が最初に安全投資抑制を口にした、その議事の一点。あれを掴めば、番号を消しても記録を消しても遅い」
椎名は無言で綴りを開いた。それから白紙に二つ、日付を書いた。七月二十八日。株主総会。二つの日付のあいだの狭い隙間を、指でなぞった。その指が、いつもよりわずかに速かった。八年前、姉の訴えが「口頭だから残っていない」で消された、あの女が、いま記録を消させないために時間と競っていた。
そのとき、サトルの私用の端末が鳴った。短いメッセージだった。差出人は的場ユカ。一年前、記録の裏に隠して守った、あの現役退魔師だった。
「木村さん。……予防退魔事業部の点検班に、一人、話したいと言っている人がいます。篠田さんから聞いた、と。私もいっしょに行きます」
サトルは、その文面を二度読んだ。守った証言者が、次の証言者を連れてくる。削られていく残り時間の内側で、削られる側の数が一つ増えていた。
「椎名さん」サトルは端末を伏せて言った。「……増え始めてる。あっちが削るより速く、かもしれない」
椎名は顔を上げた。日付を書いた白紙から目を離した。何も言わなかった。ただ、机の上の綴りの角をそっと揃え直した。いつもの彼女に戻る、その所作だけで答えていた。
削られる側に、味方が増えはじめました。通報者のネットワークが静かに芽を出します。




