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大手退魔会社のコンプラ室に異動したら、怪異被害は全部「人災」でした 〜安全装備を半分に減らした役員を、社内文書だけで失脚させます〜  作者: 氷室 累


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第51話:株主という盾

 相良から連絡が来たのは、あの二週間の、まだ半分も過ぎていない朝だった。


 文面は短かった。今夜、いつもの部屋で。それだけ。だが、サトルには、その短さが、いつもと違って読めた。相良は慎重な人だった。文字を削る人ではない。削られた、その余白に何かが詰まっていた。


 その夜、貸会議室の長机に、相良は先に来ていた。前と同じ手ぶらで。ただ、前と違って、綴りも万年筆も机の上にはなかった。相良は両手を組んで、その上に顎を乗せるようにして座っていた。疲れているのではなかった。何かを確かめている顔だった。


 「事務局が」相良は言った。「動き始めました。三年分の議事録と稟議の原本を揃える作業に。……早ければ来週の頭には、私の机に届く。逆算の材料が揃う。あなたがたに、それを渡せる」


 「それは」サトルは言った。「いい報せのはずです」


 「ええ」相良は頷いた。「いい報せです。……だから、向こうもそれを知った」


 相良は上着の内から一枚を抜いて、机の上に滑らせた。前のように万年筆で書いた控えではなかった。社内の回付書式で刷られた一枚だった。回覧の判がいくつか、隅に並んでいた。


──────────────

指名委員会 答申(案) 整理番号:NOM-2026-013


 付議事項:第七十二回 定時株主総会に付議する取締役選任議案について

 起案:指名委員会 事務局(総務部)

 回付先:各委員・経営企画部・親会社 経営管理部(参考送付)


 〔審議の背景〕

  当社を取り巻く事業環境および株主価値の観点から、

  取締役会の構成につき、経営の安定と継続性を重視すべき局面にある。


 〔社外取締役 相良氏の再任について〕

  1. 相良氏は在任中、経営判断に属する事項へ度重なる関与が見られ、

   一部に、取締役会の審議を長期化させ、経営を混乱させる懸念がある。

  2. 上記により、株主価値の安定的な向上を損なう恐れが指摘されている。

  3. よって、次期の選任議案においては、相良氏の再任を見送り、

   経営の安定に資する候補者への差し替えを検討することが相当である。


 〔留意〕本件は親会社 経営管理部へ参考送付済み。

     同部の意向も、上記方針と齟齬なきことを確認している。

──────────────


 サトルは、その三項目を読んだ。一項目で、相良は経営に口を出す迷惑な老人になっていた。二項目で、その迷惑は株主の損になっていた。三項目で、相良は次の株主総会で、椅子から外されることになっていた。


 「これは」サトルは言った。「あなたを外すための紙です」


 「そうです」相良は静かに言った。「次の株主総会。私の任期は、そこで切れる。再任の議案に私の名が載らなければ、私は社外取締役ではなくなる。……社外取締役でなくなれば、私は監査役でもなくなる。監査役でなくなれば、あの閲覧請求は根拠を失う。議事録も稟議も、私には二度と開けない」


 サトルは回付先の欄をもう一度見た。経営企画部。親会社 経営管理部。財前とは、どこにも書いてなかった。稼働目標のときも、事前審査会のときも、そうだった。承認欄にも起案者にも、名はなかった。ただ、回付を受ける部署の一つとして、経営企画の四文字があるだけ。


 「あの人だ」サトルは言った。「財前が書かせた」


 「証拠はありません」相良は言った。「起案は指名委員会の事務局。背景に書いてあるのは、経営の安定と株主価値。……財前さんの名は一字もない。彼は株主の代弁をしているだけです。株主は安定を望む。混乱を嫌う。私は混乱の種に見える。……それは嘘ではない。私は実際、取締役会を長引かせている。特別調査の動議で。大鷲のあのときから、私は自分の椅子を賭けて揺らしてきた。だから、この紙は事実を書いている。事実だけで、私を外せる」


 サトルは寒気を覚えた。一年前、財前はサトルを飛ばそうとはしなかった。異動は報復人事だと無効にされた。だから、人を飛ばさない仕組みで来た。事前審査会。窓口を締める機構。今度も同じだった。財前は相良を脅さない。相良を悪者にもしない。ただ、相良が株主価値にとって損だと、数字の言葉で示す。あとは株主が、株主の利益のために相良を外す。財前は指一本、触れずに済む。


 「声を上げる者を飛ばすのは」サトルは言った。「もう、できない。だから、次は」


 「声を聞ける立場の人間を」相良が後を継いだ。「株主の力で、椅子ごと外す。……上手いやり方です。私を切るのは財前さんではない。株主です。会社の持ち主です。誰も報復はしていない。ただ、正当な経営判断として、混乱の種が一つ取り除かれる」


 部屋が静かだった。相良は両手を解いて、机の上に置いた。その指が少し硬いのを、サトルは見た。あのとき、椅子を賭けたのは覚悟だった。だが、覚悟が本当に椅子を奪われる、その間際になると、覚悟の輪郭が揺れる。相良も人間だった。


 「怖くはないと言えば」相良は言った。「嘘になる。私はこの歳まで、会社の役員という椅子で生きてきた。それをみすみす手放すのは……正直、惜しい。株主総会まで、あとひと月。差し替えの候補が決まれば、私の名は消える」


 サトルは何も言えなかった。相良が外れれば、議事録への道が閉じる。それは、この人の椅子と引き換えだった。守ってくれ、とは言えなかった。


 「ですが」相良は顔を上げた。声が戻っていた。「私が外される、その日までは、まだ私は監査役です。事務局はもう原本を集め始めている。……株主総会より、原本のほうが早く届く。私は椅子を失う前に、あなたがたにそれを渡せる。渡してしまえば、私が外れたあとでも、逆算はあなたがたの手の中に残る。文書は腐りません。開いてしまえば、消せない」


 サトルは相良を見た。この人は、自分の椅子が外される、その締め切りまで勘定に入れて話していた。惜しいと口にしながら、それでも椅子より原本を先に渡す順番を選んでいた。焦りと覚悟が、同じ机の上に並んでいた。


 「二週間」サトルは、相良の以前の言葉を繰り返した。「事務局の二週間が。株主総会より先に来ますか」


 「来させます」相良は言った。「私の任期の残りで。……ただし、あちらもそれを読んでいる。差し替えを急ぐかもしれない。臨時の動議で、私の権限を先に止めに来るかもしれない。私の椅子が外れるのが先か。原本が届くのが先か。……時間が二重に走っています」


 窓口が締められるまでの日数。相良の椅子が外されるまでの日数。二つの砂時計は、前から落ちていた。今夜、三つ目が落ち始めた。声を上げる者の道が細くなり、声を聞ける人の椅子まで、株主の手で抜かれようとしていた。


 相良が外されれば、議事録への道は閉じる。時間切れが二重に迫っていた。


 締められる窓口と、外される椅子。二重の時間切れの内側で、二人は動きます。

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