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大手退魔会社のコンプラ室に異動したら、怪異被害は全部「人災」でした 〜安全装備を半分に減らした役員を、社内文書だけで失脚させます〜  作者: 氷室 累


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第25話:原本は、消せない

 束ねる作業が、終わりに近づいた朝、会社が、動いた。


 サトルが、それに気づいたのは、通報からでは、なかった。社内メールの、受信箱からだった。全社の、関係部署に、一斉に配られた、一通の周知。差出人は、人事部。件名には、注意喚起、とだけ、あった。


──────────────

社内周知(関係部署 各位)

発信:人事部 戸倉/2026年4月26日 08:30


 このところ、一部の従業員により、確認を経ない情報の流布、および、私的な不満を背景とした申立の動きが、確認されています。

 当該の申立には、事実誤認、および、個人的な人事上の不服(異動内示に対するもの)が、多分に含まれると、見られます。

 従業員各位におかれては、確認されていない情報に、いたずらに同調することのないよう、お願いします。

 なお、社内文書の取り扱いにつき、情報管理規程を、あらためて、徹底してください。

──────────────


 名指しは、なかった。だが、名指しより、たちが悪かった。異動内示に対する不服。私的な、不満。その二つの言葉が、社内の全員に、一つの物語を、配っていた。木村サトルという男は、九州へ飛ばされるのが不服で、私怨を、こじらせている。だから、ありもしない話を、社内に、撒いている――と。


 サトルは、その文面を、二度、読んだ。九鬼の死も、半分しかなかった結界札も、値切られた示談も、そこには、一文字も、なかった。ただ、「不服」と「私怨」だけが、丁寧に、置かれていた。事実を、否定するのでは、ない。事実の周りに、別の物語を、塗って、事実そのものを、見えなくする。


 その日の昼、発信者の戸倉が、窓口に、来た。


 人事部の、主任だという。サトルより、少し、若い。手には、別件の書類を持っていたが、それは、口実だった。戸倉は、書類を渡したあと、少しだけ、声を、落とした。


 「木村さん。……さっきの、周知。あれは、その、私の一存では、なくて」戸倉は、目を、合わせなかった。「上から、文面まで、降りてきたんです。私は、送信ボタンを、押しただけで」


 「あんたの、名前で、押した」サトルは、静かに言った。


 戸倉の顔が、わずかに、強張った。


 「……この会社で、生きていくには」戸倉は、掠れた声で言った。「押すしか、ないんですよ。押さなければ、次に、あそこに、名前が載るのは、私だ」


 サトルは、戸倉を、責めなかった。責めるべき手は、この男の、ずっと上にある。立石のときと、同じだった。ただ、立石は、書式の空欄を、埋めにきた。戸倉は、人の名前に、私怨、という色を、塗りにきた。降りてきた指示を、期日どおりにこなす顔が、一人、また一人、静かに、加担していく。悪意は、どこにも、ない。ただ、保身だけが、机から机へ、伝言のように、渡されていく。


 戸倉が、逃げるように、去ったあと。サトルの端末が、短く、音を、立てた。自動送信の、システム通知だった。


──────────────

アクセス権限 変更通知(自動送信)

情報システム部 システム管理責任者 守屋


 対象アカウント:木村サトル/椎名レイ

 変更日時:2026年4月26日 10:00

 変更内容:下記フォルダの閲覧・複製権限を、停止しました。

  ・備品台帳(結界札 配備記録)改訂履歴

  ・稟議 2025-J-0088 決裁ログ

  ・購買申請 2025-Q1-0442 承認記録

 事由:情報管理規程に基づく、アクセス範囲の見直し。

──────────────


 サトルは、フォルダを、開こうとした。開かなかった。改竄の、前と、後。決裁の、印。半分だった、発注。申立書の、背骨になる、原本の、いくつかが、たった今、サトルの手の届かない、鍵の向こうに、しまわれた。


 「消しに、来たな」サトルは、呟いた。指先が、冷たくなっていた。「周知で、私怨だと、社内に、言い触らして。その裏で、静かに、原本を、閉じる。……こっちが、束ね終わる前に、証拠そのものを、消す気だ」


 「消せませんよ」


 隣で、椎名が言った。声は、平板だった。いつもと、同じ温度。サトルが、振り向くと、椎名は、もう、自分の端末を、開いていた。


 「木村さん」椎名は、一枚の資料を、卓の中央へ、静かに、滑らせた。「原本は、消せます。でも、私が、いつ、それを、見たかは、消せません」


──────────────

原本 保全記録(椎名レイ 作成)

作成日時:2026年4月24日 19:20


 No.1 備品台帳 改訂履歴(改竄前・改竄後)

  取得:2026年4月18日 14:05(正規交付)

  複製保全:同日 15:10/媒体:書き込み不可メディア

  ハッシュ値(SHA-256):3f9a…(照合済)

  受領印:総務部 管財課(交付時)

  最終閲覧ログ:2026年4月24日 18:55(本人)


 No.2 稟議 2025-J-0088 決裁ログ

  取得:2026年4月20日 10:12(正規交付)

  ハッシュ値(SHA-256):a17c…(照合済)

  受領印:法務部 文書管理責任者(交付時)


  ……(以下、No.23まで同様)


 総件数:23件。全件、取得日時・交付印・ハッシュ値・閲覧日時を、保全済。

──────────────


 サトルは、二枚の紙を、並べた。片方は、権限を、閉じる通知。片方は、閉じられる前に、椎名が、全部、写し取って、鍵をかけ、時刻を、刻んだ、記録。


 「二十三件」椎名は言った。「私が、二か月で取った文書の、全件です。取ったその日に、書き込みのできない媒体に、複製して、ハッシュ値を、記録しました。ハッシュ値は、指紋です。一文字でも、書き換われば、値が、変わる。……向こうが、今日、原本を、いくら書き換えても、私が保全した二十三件と、値が、合わなくなるだけです」


 サトルは、その、周到さに、言葉を、失った。あの朝、椎名は、疑われる日を、想定していると、言った。その後、規程違反の照会も、正規の開示ログで、無効にした。あれは、途中では、なかった。椎名は、その、さらに先まで、踏み固めていた。取った文書が、いつか、消されることまで、見越して。消される前に、時刻ごと、凍らせていた。


 「それに」椎名は、続けた。声に、初めて、わずかな、硬さが、混じった。「向こうは、今日、自分で、証拠を、一つ、作りました」


 「証拠?」


 「原本に、アクセス制限を、かけた記録です」椎名は、権限変更通知を、指で、なぞった。「四月二十六日、十時。私たちが、申立を、束ねているまさにその時に、備品台帳と、稟議と、購買申請の、三点だけを、狙って、閉じた。……何も、やましいことが、ないなら、なぜ、その三点を、今、閉じるんですか」


 サトルは、息を、呑んだ。


 消された、という事実。それ自体が、消したい何かが、そこにあった、という、証拠だった。会社は、原本を、隠すことで、原本の、価値を、証明していた。改竄された台帳を、堂々と、開いておけばいい。やましくなければ。だが、閉じた。閉じたことが、そこに、閉じたい真実があったことを、白状していた。人を、私怨だと言い触らしながら、その裏で、証拠を、鍵にしまう。その、慌てた手つきそのものが、報復の、証拠になる。


 「向こうは」サトルは、ゆっくりと、言った。「消したつもりで、印を、残した」


 「ええ」椎名は、頷いた。「消した、という、印を」


 サトルは、周知メールと、権限通知と、保全記録を、卓に、並べた。私怨、という物語。閉じられた、原本。凍らされた、二十三件。向こうが、揃えたのは、二つ。こちらが、揃えたのは、消せない、記録だけ。


 「戦える」サトルは、言った。「証言は、一つも、いらない。消せないものだけで、勝てる」


 椎名は、資料を、鞄に、戻した。その指は、もう、白くなかった。それから、束ねかけの、申立書に、目を、落とした。表紙の、すぐ下。目次の、一番、はじめの段が、まだ、空いていた。


 サトルは、その、空欄を、見た。


 そこに、入れるかどうかを、まだ、決めていない、一通が、あった。二〇二六年四月十七日、九時十四分。通報番号、2026-0417-003。凍結されたはずの、九鬼透のアカウントから、届いた、あの、最初の一通。すべての、起点。


 消せないものだけで、勝てる。それは、もう、分かっていた。だが、あの一通だけは、消せないのに――申立に、載せていいのか、どうか、サトルには、まだ、答えが、出ていなかった。


 会社は先手を打った。「サトルは異動が不服で私怨をこじらせた問題社員だ」という物語を社内に流し、その裏で証拠原本のアクセス権を静かに閉じた。だが椎名は、取った日にすべてを凍らせていた。原本は消せても、いつ見たかは消せない――そして、原本を閉じたという事実そのものが、そこに消したい真実があった証拠に、反転する。


 消せないものだけで、勝てる。あとは、あの一通――九鬼のアカウントから届いた、すべての起点を、申立に含めるかどうか。


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