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大手退魔会社のコンプラ室に異動したら、怪異被害は全部「人災」でした 〜安全装備を半分に減らした役員を、社内文書だけで失脚させます〜  作者: 氷室 累


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第24話:監査役という細い糸

 その部屋には、社章が、なかった。


 貸会議室の、白い壁。長机が、一つ。すりガラスの、窓。社内では、会えない。それが、相良が出してきた、最初の条件だった。人目のない場所で、しかし、記録の残る形で。慎重な人だ、と椎名が言っていた意味を、サトルは、部屋に入った瞬間に、理解した。


 相良は、先に、来ていた。六十がらみの、痩せた男だった。役員という肩書から思い描く、押し出しの強さは、どこにも、なかった。むしろ、教師か、あるいは、古い図書館の司書のような、静かな佇まいだった。机の上には、何も、置いていない。手ぶらで、来ていた。


 「木村さん」相良は、立ち上がらずに、言った。「椎名さんも。お忙しいところを」


 サトルは、椎名と、並んで、腰を下ろした。椎名は、鞄から、一冊の束を、取り出し、机の中央に、置いた。表紙に、余計な飾りは、なかった。ただ、一行。内部告発申立書。二か月分の、すべてが、その白い表紙の下に、綴じられていた。


 相良は、その束を、すぐには、取らなかった。


 「先に、申し上げておきます」相良は言った。「私は、あなたがたの、味方では、ありません」


 サトルは、束に伸ばしかけた手を、止めた。


 「正確に言えば」相良は、続けた。「まだ、どちらでも、ないのです。私が、味方かどうかは、この中身が、決めます。私という人間の、好き嫌いでは、なく」


 相良は、そこで、初めて、束に、手を、伸ばした。表紙を、めくる。次を、めくる。速くも、遅くもない、一定の速さで、頁を、繰っていった。結界札の、配備数と発注数。死の翌日の、台帳。値切られた、示談書。四十五回の、面談台本。役員決裁の、一覧。相良の指は、どの頁でも、止まらなかった。ただ、一度だけ、稼働効率化目標の頁で、ほんの少し、長く、置かれた。


 どれくらい、経ったろう。相良は、束を、閉じた。そして、初めて、サトルの目を、まっすぐに、見た。


 「文書に、一つでも、穴があれば」相良は、静かに言った。「これは、握り潰されます。『私怨だ』『飛ばされる腹いせだ』――そう言われて、終わる。私が、取締役会に、これを、上げた瞬間に、争点は、事実から、あなたの、動機に、すり替わる。……完璧ですか、これは」


 答えたのは、椎名だった。


 「証言は、一つも、柱にしていません」椎名は、いつもの、平板な声で、言った。「的場さんの声も、篠田さんの話も、この束の、どこにも、証拠としては、載せていません。載っているのは、すべて、会社自身が、作った文書です。会社が、自分で、書いて、自分で、承認して、自分で、保管していた、記録。……消せない文書だけで、組んであります」


 相良は、しばらく、その束の、白い表紙を、見ていた。


 「消せない、文書」相良は、繰り返した。「なるほど。よく、できている」


 それから、ふと、窓の、すりガラスに、目を、移した。


 「木村さん。私は、社外から、来ています。私の再任は、三年ごとに、株主総会で、決まる。そして、私を、再任するかどうかを、実質、決めているのは、この会社の、経営陣です」相良の声は、変わらず、静かだった。「私が、取締役会に、『特別調査の動議』を、上げる。それは、私を、再任する人たちに、弓を、引く、ということです。……次の総会で、私は、いなくなるかもしれない」


 サトルは、言葉を、失った。


 この人は、と思った。天秤に、かけている。片方に、九鬼の死。片方に、自分の、席。安全に、関心がある、というのは、聞いていた。だが、関心と、我が身を賭けることの間には、深い、川があった。相良は、その川の、縁に、立って、水の深さを、測っていた。良識は、あった。だが、その良識は、万能の、剣では、なかった。一人の、慎重な男が、消えるかもしれない橋の上で、渡るか、退くかを、迷っている。ただ、それだけの、細さだった。


 やがて、相良は、上着の内から、万年筆を、取り出した。手ぶらで来た、と思っていたが、それだけは、持っていた。相良は、手帳を、開き、何かを、書き始めた。そして、書き終えると、その一枚を、破り、机の上を、滑らせて、サトルのほうへ、向けた。


──────────────

監査役面談記録(写) 2026年4月25日


 面談者:相良(社外取締役・監査役)

 相手方:木村サトル、椎名レイ(コンプライアンス室 内部通報窓口)

 場所:社外/記載省略


 〔受領〕標記両名より、内部告発申立書 一式(写し1部)を受領した。

 〔監査役として確認する事項〕

  1. 申立書に添付された各文書の、原本の所在および保全状況

  2. 各文書の取得手続(開示請求の正規性・日時記録の有無)

  3. 申立内容と、既存の社内処理(事故処理・示談・人事)との整合

  4. 通報者および証言者に、報復のおそれがないこと

 〔留保〕本受領は、取締役会への付議を、約束するものではない。監査役は、確認の結果に基づき、独自に、判断する。


                    相良

──────────────


 サトルは、その、四つの項目を、読んだ。約束は、していない。留保の一行が、それを、はっきりと、告げていた。だが――四つ目に、目が、留まった。通報者および証言者に、報復のおそれがないこと。相良は、事実の、真偽だけでなく、この束の、外側にいる、人間のことまで、確認しようと、していた。的場の顔が、サトルの、胸を、よぎった。


 「一つ、聞いても、いいですか」サトルは言った。「役員は、なぜ、そこまで、安全に」


 相良は、少し、間を、置いた。


 「昔、私の、監査した会社で」相良は、窓の外を、見たまま、言った。「作業員が、一人、亡くなりました。報告書には、『本人の、不注意』と、書いてあった。私は、それを、信じた。……後で、分かったのです。彼が、何度も、安全の、改善を、求めていたことが。求めが、通っていれば、彼は、死んでいなかった。不注意で、片づけられたのは、彼のほうでは、なく、彼を、死なせた、仕組みのほうでした」


 サトルは、九鬼のことを、思った。九鬼の死は、書類の上では、退魔任務中の、怪異による、事故死だった。祓いきれなかった、不運。天災のような、ものとして、処理されていた。だが、違う。結界札は、規定の、半分しか、なかった。二十枚あれば、九鬼は、死んでいない。九鬼を、殺したのは、怪異では、なく、その半分を、削った、誰かの、判断だった。怪異事故という、四文字の下に、人災が、一つ、埋められていた。相良の言う、あの作業員と、同じだった。不注意で、片づけられたのは、いつも、死んだ、本人のほうだった。


 「役員」サトルは言った。「規程は、俺たちを、扉の外に、締め出しました。第三者委員会も、取締役会も、一調査員には、閉じている。……それを、開けられるのは、あなただけです。でも、そのために、あなたが、席を、賭ける必要があるなら――俺は、それを、軽々しく、頼めない」


 相良は、初めて、微かに、笑った。


 「壁を、越える鍵は」相良は言った。「たいてい、規程には、書いて、ありません。書いてあるのは、壁の、作り方だけです。……越えるほうは、いつも、誰か一人が、何かを、賭けて、初めて、回る。あなたがたが、そこまで、賭けたものを、私が、惜しむのは――少し、格好が、悪い」


 相良は、束を、自分の、鞄に、しまった。手ぶらで来た男が、初めて、荷物を、持った。


 「二日、ください」相良は、立ち上がった。「この、四項目。それが、埋まれば――私は、動きます。特別調査の、動議を、上げる。私の、席を、賭けても」


 サトルは、立ち上がって、頭を、下げた。椎名も、無言で、倣った。相良は、それ以上、何も言わず、静かに、部屋を、出て、いった。


 天秤が、傾いた、とサトルは思った。まだ、ほんの、少し。だが、確かに、九鬼の、側へ。


 貸会議室を、出て、駅へ、向かう道で、椎名の、端末が、震えた。椎名は、画面を、見て、足を、止めた。


 「木村さん」椎名の声に、わずかに、硬さが、混じった。「社内サーバーの、私の、アクセス権が――申立書の、原本フォルダの、いくつかが、たった今、『管理者権限により、閲覧制限中』に、変わりました」


 サトルは、振り返った。すりガラスの、会議室は、もう、見えなかった。


 相良と、会ったのは、たった今だ。誰にも、言っていない。それでも、向こうは、動き始めていた。大鷲か、財前か。あるいは、その、両方か。束ねた紙は、相良の、鞄の中に、ある。だが、その、元になった、原本を、消されれば――申立書は、写しだけの、根なし草になる。


 「急ごう」サトルは言った。「向こうも、気づいてる。原本を、消しに、来る」


 社外取締役・相良との、正式な面談。相良は「文書に一つでも穴があれば、これは私怨に握り潰される」と束を検め、椎名は「証言は一つも柱にしていません。すべて、消せない文書です」と応えました。相良は自らの再任という"席"を賭けて、取締役会に特別調査の動議を上げる――その天秤が、九鬼の側へ、ほんの少し、傾き始めます。


 次回、相良が確認に動くより先に、向こうも申立を察知していた。原本を、消される前に、守れるか。


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