第22話:一番、暗いところで
電話は、昼過ぎに、鳴った。
内線の表示を見て、サトルは、少しだけ、身構えた。人事担当役員室。大鷲の、直通だった。
「木村くん。急にすまないね」受話器の向こうの声は、いつもと同じ、穏やかな温度をしていた。「今朝、通達を、一つ、出してね。念のため、私の口からも、伝えておこうと思ってね」
サトルは、社内ポータルを、開いた。人事通達欄の、一番上。四月二十日に載った、あの辞令の、上に、新しい紙が、重なっていた。
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社内人事通達(2026年4月24日付)
下記のとおり、先の異動内示(4月20日付)を、一部、変更する。
木村サトル(コンプライアンス室 内部通報窓口 主任調査員)
→ 九州支社 総務課
発令:4月28日(前倒し)
事由:計画的配置
〔付記〕本人の在職中の一部業務につき、業務命令違反の懸念が報告されている。着任後、別途、事実関係の確認を行う場合がある。
人事担当役員 大鷲
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発令が、翌月一日から、四月二十八日に、繰り上がっていた。あと、四日。それだけでも、息が、詰まった。だが、サトルの目を、本当に、刺したのは、その下の、六文字だった。
業務命令違反。
「役員」サトルは、努めて、静かに言った。「この、付記は、なんですか。俺は、命令には、違反していません」
「うん、うん」大鷲は、否定も、肯定も、しなかった。「だからね、着任してから、ゆっくり、確認しようという話でね。木村くん、悪い話じゃ、ないんだよ。九州は、いいところだ。海も、近い。……こっちで、無理を続けるより、きみのためにも、ね」
温和なままだった。決して、語気を、荒げない。それが、この男の、一番、冷たいところだった。殴られたなら、殴り返せる。だが、大鷲は、微笑んだまま、サトルの首に、そっと、手をかけていた。
電話が、切れた。
サトルは、しばらく、動けなかった。「業務命令違反の懸念」――たったこれだけの一行が、辞令に、色を、つけていた。これは、もう、ただの異動では、ない。懲戒の、匂いのする、追放だった。九州へ飛ばされ、そこで「違反の確認」という名の調査にかけられれば、サトルの言うことは、何もかも、疑わしくなる。椎名が、照会状で、そうされたように。通報する側を、通報される側に、する。同じ、台本の、続きだった。
隣の席で、椎名が、こちらを見ないまま、端末に、何かを、打ち込んでいた。無言だった。ただ、いつもより、ほんの少しだけ、キーを叩く音が、速かった。
サトルは、目を、閉じた。四日。証拠は、揃っている。だが、それを、届ける先が、まだ、ない。社内のルートは、西野が示した細い糸も含めて、ことごとく、塞がれた。残るは、社外。だが、その扉の前で、自分は、飛ばされようとしている。
――ここまで、なのかもしれない。
初めて、その言葉が、頭を、よぎった。九鬼の遺影を、思った。几帳面な、業務記録を。あの真面目な男が、安全を、訴え続けて、黙殺されて、死んだ。自分も、同じところへ、行くのか。声を上げた人間が、静かに、箱に、詰められていく。それが、この会社の、順番だった。
携帯が、短く、震えた。
私用の番号だった。登録のない、番号。開くと、たった一行の、メッセージが、あった。
『私は、大丈夫です。何も、していませんから』
的場ユカ、だった。番号は、教えていない。的場が、どこかで、調べて、送ってきたのだ。サトルは、その一行を、二度、読んだ。何も、していない――違う。的場は、話した。現場のことを、稼働率のことを、九鬼のことを、全部、話した。なのに、大丈夫だと、言う。
そこで、気づいた。的場は、噓を、ついているのではない。的場の証言は、椎名が、記録の裏に、隠した。開示請求の履歴にも、面談の台帳にも、的場の名は、証言者として、残っていない。だから会社の側から見れば、的場は、本当に「何も、していない」人間なのだ。呼び出す口実が、ない。報復する、糸口が、ない。
椎名が、あのとき、証言者を、記録の裏に、隠した。その、一手が、いま、一人の現役退魔師を、守っていた。的場は、震えながらも、飛ばされずに、現場に、立っている。
サトルは、その一行を、もう一度、見た。何も、していませんから。それは、諦めの言葉では、なかった。あなたは、私を、守った。だから、あなたも、折れないでください――そう、聞こえた。
顔を、上げた。息が、戻っていた。
その、直後だった。デスクの端末が、着信を、告げた。社外用の、メールアドレス。差出人の名を見て、サトルは、椅子から、腰を、浮かせた。
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差出人:相良(社外取締役)
宛先:木村サトル
件名:Re: 内部通報に関する申立について
木村さん。ご連絡、拝見しました。
貴殿の申立について、一度、話を、伺う用意があります。
ただし、私が動けるのは、感情ではなく、文書に対してだけです。証言ではなく、消せない記録で、示してください。
時間が、限られていることは、承知しています。
相良
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短い、返信だった。約束は、一つも、していない。話を、聞く、とすら、書いていない。「伺う用意がある」。ただ、それだけ。慎重で、抑制の効いた、役員の文面だった。感情ではなく、文書に対して。証言ではなく、消せない記録で。相良は、扉を、開けたのでは、なかった。開ける、かもしれない、と、鍵に、指を、かけただけだった。
だが、サトルには、それで、十分だった。
この会社の、一番、暗いところで――発令を、前倒しにされ、懲戒の色をつけられ、社内のどのルートも、塞がれた、その底で。ただ一本、社外へ届く、細い糸が、繋がった。
サトルは、そのメールを、椎名に、見せた。
椎名は、画面を、一瞥した。それから、端末を、伏せ、開示請求ログの束を、まとめたフォルダを、静かに、卓の中央へ、押し出した。何も、言わなかった。だが、その所作が、答えの、すべてだった。証言ではなく、消せない記録で。それなら、こちらには、最初から、それしか、ないのだと。
サトルは、二枚の文書を、並べた。前倒しの辞令と、相良の返信。片方は、自分を、黙らせるための刃。片方は、その刃を、証拠に変えるための、糸。
――報復人事は、規程どおりの、手続きだ。
だからこそ、握り潰せない、とサトルは思った。会社は、正しい手続きで、サトルを飛ばそうとしている。発令を早め、違反の懸念を書き添え、すべて、規程の枠内で。だが、その手続きが、あまりに、性急で、あまりに、椎名の照会状と、日付が、揃いすぎている。口封じの刃を、規程の形に、研いだ。その刃の、存在そのものが、報復が、あったことの、証拠になる。
あとは、束ねるだけだった。改竄されたログ。半分しかなかった発注記録。値切られた示談書。四十五回の面談台本。取り下げられた声。稼働率という名の、人災。そして、この、性急すぎる辞令。ばらばらの紙を、一つの束にして、握り潰せない、場所へ、渡す。
「椎名さん」サトルは言った。声に、暗さは、もう、なかった。「あと、四日だ。……間に合わせよう」
椎名は、頷いた。そして、フォルダの一番上に、真新しい表紙を、一枚、重ねた。まだ、何も、書かれていない、白い、紙だった。
発令が前倒しされ、辞令には「業務命令違反の懸念」の一行が添えられた。追い込みの、底。けれど的場からの短い連絡が――椎名が記録の裏に隠した盾が――サトルを折れさせず、社外取締役・相良が「文書になら、耳を貸す」と、細い糸を、一本だけ、垂らしてきました。
次章「文書という武器」。ばらばらの証拠を、一つの申立書に束ねて、握り潰せない場所へ。白い表紙に、最初の一行を書くところから。
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