第18話:壁は、規程でできている
証拠は、揃っていた。
結界札の、配備数と発注数の、食い違い。死の翌日に、書き換えられた台帳。値切られた、示談書。四十五回、繰り返された、面談台本。役員決裁、三十五件。稼働効率化目標、前年比一・五倍。そのすべてが、消せない文書として、椎名の端末の中に、日時つきで、並んでいた。
問題は、それを、どこへ、持っていくか、だった。
「第三者委員会に、直接、出せないのか」サトルは、会議室の机に、両手をついた。「うちには、第三者委員会が、あるんだろう。社外の弁護士も、入ってる。そこに、この束を、渡せば――」
「渡せません」椎名は、端末から目を上げずに言った。「第三者委員会は、取締役会が、設置を決めたときにだけ、動きます。私たちが、直接、申し立てる窓口は、ありません」
椎名は、一つの条文を、画面に呼び出して、サトルのほうへ、端末を、滑らせた。
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第三者委員会運営規程(抜粋)
第3条(設置)
第三者委員会は、取締役会の決議により、これを設置する。
第4条(付議)
第三者委員会に付議する事案は、取締役会が、これを選定する。
第5条(申立て)
本規程に基づく調査の申立ては、取締役会に対して、これを行うものとする。個人からの直接の申立ては、受理しない。
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「……取締役会が、決めたときだけ、動く」サトルは、その三行を、二度、読んだ。「取締役会が、調べたくない事案は、一生、付議されない、ってことか」
「そういう、設計です」
サトルは、次に、別の紙を、机に、置いた。昨日、自分が、総務部に出して、今朝、突き返されたものだった。
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(返戻通知)総務部 法務コンプライアンス課
宛:木村サトル 殿
件名:貴信「取締役会への上程願」の取扱いについて
4月21日付でご提出の標記文書は、当社規程上、受付の根拠を欠くため、返戻いたします。取締役会の議題は、取締役および監査役が、招集権者を通じて提案するものと定められており、一調査員による議題の上程を認める規定は、存在いたしません。
なお、内部通報に関するご相談は、コンプライアンス室 内部通報窓口を、ご利用ください。
担当:法務コンプライアンス課 梶山
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「よく、できてる」サトルは、低く言った。「内部通報の窓口に、行け、と、書いてある。その窓口が、俺たちだ。俺たちが、上げた通報を、握り潰したのが、大鷲だ。……輪の中に、戻される」
サトルは、その紙を持って、総務部の、梶山の席まで、行った。梶山は、四十代の、穏やかな男で、書類の角を、几帳面に、揃える癖があった。
「返戻の、意味は、分かります」サトルは言った。「でも、中身を、見てほしい。人が、一人、死んでるんです」
「木村さん」梶山は、困った顔で、笑った。「私が、見る、見ないの、話じゃ、ないんですよ。規程に、受付の根拠が、ない。根拠のない文書を、私が、上に、上げたら――今度は、私が、規程違反に、なる。私にも、守るものが、あるんです」
梶山は、悪い男では、なかった。ただ、規程の、外側には、一歩も、出たくない、というだけだった。そして、その一歩を、出ないことが、この会社では、正しさ、だった。誰も、殴らない。誰も、脅さない。ただ、全員が、規程の内側で、うずくまる。それだけで、声は、どこにも、届かなくなる。
「壁は」サトルは、席に戻ってから、呟いた。「規程で、できてるんだな」
サトルは、現場に、六年、いた。壁というのは、殴れば、崩れるものだと、体で、覚えていた。だが、この壁は、殴れなかった。殴る相手が、いない。梶山は、規程を、盾にしただけで、自分の意思では、何も、していない。その上の課長も、そのまた上も、同じだった。誰も、悪くない、という顔で、全員が、通報を、押し返してくる。祓う相手のいない怪異のほうが、まだ、始末が、よかった。少なくとも、あれには、正体が、あった。
椎名は、その夜、退社時刻を、とうに過ぎても、端末を、閉じなかった。内部通報規程、情報管理規程、取締役会規則、監査役会規程。会社の規程集を、端から、開いていた。サトルは、向かいの席で、その横顔を、見ていた。時折、指が、止まる。止まっては、また、動く。無言のまま、スクリーンショットが、一枚、また一枚、保存されていく、微かな音だけが、していた。
「木村さん」
どれくらい、経ったろう。椎名が、初めて、顔を上げた。
「穴が、ありました」
サトルは、身を、乗り出した。椎名は、端末を、また、滑らせた。
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監査役会規程/取締役会規則(抜粋)
監査役会規程 第9条(取締役会への出席)
監査役は、取締役会に出席し、必要があると認めるときは、意見を述べなければならない。
取締役会規則 第6条(議題の提案)
取締役会の議題は、取締役のほか、監査役も、これを提案することができる。
監査役会規程 第11条(調査権)
監査役は、いつでも、取締役および使用人に対し、事業の報告を求め、会社の業務および財産の状況を、調査することができる。
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「監査役は」椎名は、条文の、一行を、指で、押さえた。「取締役会に、議題を、上げられます。取締役でなくても。……一調査員には、閉じている扉が、監査役には、開いている」
「監査役を、一人、動かせれば」サトルは、声を、落とした。「取締役会に、届く」
「はい。私たちが、直接、叩けない扉を、内側から、開けてくれる人が、要る、ということです」
サトルは、その一行を、見つめた。会社は、九鬼の声を、内部通報の窓口で、握り潰した。第三者委員会の扉は、取締役会が、閉めていた。総務は、規程を、盾にして、返した。どこを、押しても、規程が、待ち構えていた。それなのに――同じ、規程集の、たった一条が、閉じきったはずの、その部屋に、細い、穴を、開けていた。誰かが、この一条を、消し忘れたのか。それとも、監査役という役目は、そもそも、こういう日のために、置かれているのか。サトルには、分からなかった。ただ、穴は、あった。
サトルは、机の上に並んだ、三枚の書式を、見た。第三者委員会運営規程。総務の、返戻通知。そして、監査役会規程。同じ、規程集の中に、声を、止める壁と、声を、通す穴が、両方、あった。
「規程ってのは」サトルは、言った。「声を、届ける道でも、あるんだな。……同じ文で、黙らせもするし、届けもする」
「道具ですから」椎名は、いつもの、平板な声に、戻っていた。「誰が、どの条文を、使うか、です。向こうは、第5条で、私たちを、閉め出した。なら、私たちは、第6条で、入ります」
「監査役は、何人、いる」
「四人。うち、二人が、社外です」椎名は、社内報の、役員名簿を、開いた。「そのうちの、一人に――安全問題に、関心を持っている人が、いる、と。名前は、相良」
サトルは、その名を、口の中で、繰り返した。相良。西野が、去り際に、残していった、細い糸。表で案件を止めながら、あの人は、裏で、この一つの名だけを、置いていった。社外から来ている、監査役の、一人。
「ただ」椎名は、名簿を、閉じた。その指が、また、少し、白かった。「相良さんは、慎重な人だ、とも、聞きました。安全に、関心がある、ということは――中途半端な、告発には、乗らない、ということでも、あります。文書に、一つでも、穴があれば、『私怨だ』で、握り潰される。動いてもらうには、完璧な、束が、要ります」
「完璧」サトルは、繰り返した。「今の、束じゃ、足りないか」
「足りません」椎名は言った。「今の文書は、この二か月の分です。でも、大鷲は、初めてじゃ、ない。三年前にも、同じことを、しています。篠田さんが、飛ばされたときに。……古い物証が、一つ、要ります。この台本が、昨日、今日の、思いつきじゃないと、証明する、古い一枚が」
サトルは、椎名の言葉の先に、一人の男の顔を、思い浮かべた。三年前、声を上げて、地方支社へ、飛ばされた、元通報者。篠田。
「会いに行くか」サトルは言った。「三年前に、この壁に、ぶつかった、先客に」
窓の外は、もう、暗かった。壁は、規程で、できている。だが、その壁には、一つだけ、穴が、開いていた。あとは、その穴に、届くだけの、完璧な、一冊を、束ねるだけだった。そのために、足りない、古い一枚を、拾いに行く。
証拠は揃った。だが第三者委員会へは直接申し立てられず、取締役会にも、一調査員は議題を上げられない。壁は、規程でできていた。椎名が規程集を読み込んで見つけた唯一の穴は、取締役会に議題を上げられる監査役――安全問題に関心を持つ、社外の相良だった。
次回、相良を動かすには、この台本が三年前から続いていたと示す「古い一枚」が要る。サトルは、三年前に同じ壁へ挑んで飛ばされた男・篠田に、会いに行く。
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