三十年前の封印
食事の後。
セリスは一人で蝋燭を灯し、薄暗い地下への階段を降りていた。
花うさぎ亭の地下には小さな記録庫がある。
地下の湿った香りと古い紙の匂いが微かに漂っている。
オレンジ色の蝋燭の灯りの中で、ページをめくった。
「……これは」
ベルノアの過去の記録。
数十年前。
森の異変。
魔獣の変質。
農地への影響。
そして——
「封印の儀式……?」
資料に夢中になっていた時。
背後でギシリと床が軋んだ。
振り向くと、ヴァルが立っていた。
暗闇の中でセリスの蝋燭の火がヴァルの顔を照らす。
「……また一人行動か?」
「調査です」
「分かってる」
少しの沈黙の後、ヴァルは棚に寄りかかる。
「何か見つけたのか?」
セリスはどこから説明しようかと迷いながらも要約して答えた。
「似たような異変が、過去にもあったみたい」
「どれくらい前だ?」
「約三十年前」
ヴァルの猫目が暗闇でギラリと細くなる。
「原因は?」
「不明です。ただ——」
セリスはパラパラとページをめくり指さした。
「途中で記録が途切れているの」
「……消されたのか」
「その可能性がありそう」
階段から地上の冷えた外気が吹き込んできたのか、空気は一層冷えてきた。
ヴァルは長いまつ毛を伏せながら、ゆっくりとページを覗き込んだ。
「封印ってのは?」
「詳細はないみたい。ただ、異変が急速に収まったという記述だけが残ってるわ」
「……誰かが止めたってことか」
「はい」
蝋燭の炎がわずかに揺れている。
地下室の空気が、わずかに重くなった気がした。
ヴァルは視線を落とす。
「三十年前……」
「何か心当たりが?」
「いや。ただ、そんな重要な記録が消されてるってのが気に食わねぇ」
セリスは力強く頷く。
沈黙の中、セリスが静かに重い口を開いた。
「……あの」
ヴァルが顔を上げる。
「何だ?」
「先日、言ってた事で気になってたことがあって……」
「……?」
「“また誰かを失う”と」
ヴァルの表情がわずかに固まる。
「……」
セリスは続けようとして、言葉を止めた。
今聞くべきではないと、直感が告げていた。
「……いえ、ごめんなさい。今は調査を優先、だよね」
ヴァルはフッと表情を少しだけ緩める。
「気になるなら聞け」
「いえ。いずれまた……」
そう言ってセリスは視線を資料に戻した。
ヴァルはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……俺はな」
セリスが顔を上げる。
「誰かを“失った”ことはねぇ」
意表を突かれた顔のセリス。
「だが——」
ヴァルの声は低かった。
「自分から切ったことはある」
地下室の空気が、さらに静まる。
「家族だ」
セリスは言葉を失った。
「……」
「だから分かんねぇんだ。本当に失うってのが、どんな感覚なのか」
ヴァルは拳を握る。
「でも。あの時、背筋が凍った」
セリスの胸がわずかにざわつく。
「お前が倒れるかもしれないと思った時だ」
ヴァルの青い瞳がセリスの紫色の瞳をまっすぐに捉えた。
「……あれは初めてだった」
ヴァルは自嘲気味に口元を歪めた。
「情けねぇよな」
セリスはゆっくりと首を振る。
「いいえ」
その声は、静かで確かだった。
「それは、弱さではないわ」
ヴァルが少し目を見開き、セリスの方を向く。
「仲間を大切に思うことは、戦う者にとって必要な強さだし……」
ヴァルは何も言わなかったが、視線は逸らさなかった。
青と紫の視線が交差した。
ランプの灯りが、二人の影を揺らす。
「……そういうのは、リュシアンに言え」
「リュシアンさんも、同じことを言うと思うな」
わずかな沈黙のあと、ヴァルが小さく笑う。
「……だろうな」
重かった空気が、少しだけ柔らいだ。
だが同時に、不穏な気配は消えなかった。
三十年前の異変。
封印。
消された記録。
そして、今。
ベルノアの夜は、静かに深まっていった。
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