霧の森の幻影
遺跡へ続く森は、昼だというのに薄暗かった。
白い霧が低く這い、足元を覆い隠している。吸い込む空気は湿って冷たく、肺の奥までじっとりと絡みつくようだった。
「視界、三歩先までだな」
リュシアンが盾を構えたまま低く言う。
「嫌な感じだな……」
レオが小さく肩をすくめた。
セリスは足元の石畳に目を落としていた。
古い文様が刻まれている。
「この霧、自然ではありません。精霊石の反応が乱れています」
ヴァルが双剣を軽く回す。
霧に濡れた黒髪がわずかに揺れた。
「つまり魔獣の縄張りってことか」
その瞬間。
霧の奥で、何かが動いた。
音はない。
ただ、気配だけが近づいてくる。
「全員、間隔を保て!」
ルカの声が霧を切り裂いた。低く、よく通る。
「互いの位置を声で確認しろ。黙るな。幻覚に引き込まれるぞ」
「ここだ!」
レオが即座に返す。
「右側」
ヴァルが短く答える。
「中央は俺が維持する」
リュシアンが続く。
ルカは一歩も動かない。
だがその視線は霧の流れと仲間の位置を正確に追っていた。
昔の自分なら、もう突っ込んでいた。
だが今は違う。
「ヴァル、焦るな。影に釣られるな」
その声に、ヴァルの呼吸が一瞬整う。
⸻
次の瞬間、影が現れた。
霧の中で揺れ、姿が定まらない。
視界の端にだけ映る。
ヴァルが踏み込む。
だが影は分裂した。
「幻惑です!」
セリスが叫ぶ。
この霧の中に長くいれば、本物と偽物の区別は曖昧になる。
心拍が早くなり、足音すら自分のものか分からなくなる。
「下がれ!」
リュシアンが盾で影を受け止める。
衝撃が腕を震わせる。
無駄打ちはしない。
相手の動きを見極め、最小限で斬り返す。
「本体は中央寄りです!」
セリスが霧の流れを指さした。
「リュシアン、任せた」
ルカの短い指示。
「了解」
⸻
ヴァルが再び踏み込もうとした瞬間。
別方向から影が迫る。
死角。
セリスの視界の端に、わずかな違和感が走る。
「……っ」
その時。
セリスの背中に、硬い感触が伝わった。
リュシアンだった。
盾を地面に固定し、体で支えている。
「任せろ」
迷いのない声。
背中越しに鼓動が伝わる。
温度。安定。
セリスは一瞬だけ息を飲み、頷いた。
「……分かりました」
装置へ手を伸ばす。
霧を制御する遺跡の仕組み。傷つけられた精霊石の欠片が震えている。
修復すれば霧は晴れる。
だが時間がいる。
⸻
ヴァルはその光景を横目で見た。
セリスが、リュシアンに背中を預けている。
自然に。迷いなく。
まるで最初からそこが定位置だったかのように。
胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
ただ、妙に気に食わない。
「……なんで」
魔獣を斬り伏せながら、ぼそりと呟く。
「何で俺じゃないんだよ」
自分でも意味が分からない言葉だった。
吐き捨てるような独り言。
誰にも届かない。
だが剣速はさらに上がった。
速く、鋭く。霧ごと切り裂くように。
ルカは一瞬だけその視線に気づいた。
だが何も言わなかった。口元だけ、わずかに緩む。
⸻
その時、魔獣の本体が姿を現した。
霧の核。
揺らぐ黒い塊。
「ヴァル、右だ!」
リュシアンの声。
迷いはない。
踏み込み、交差斬り。
悲鳴とともに霧が震える。
同時に。
セリスが精霊石をはめ込んだ。
淡い光が広がる。
霧がゆっくりと薄れていく。
⸻
静寂。
森の輪郭が戻った。
ヴァルは荒い息を整え、視線を逸らす。
セリスはまだリュシアンの背に触れていることに気づき、慌てて離れた。
「……すみません」
「問題ない」
リュシアンは短く答える。
胸のざわつきは消えない。
霧は晴れたのに。
⸻
「いやー、いい連携だったな」
ルカが軽く笑う。
「特にリュシアンとセリス」
ヴァルの眉がぴくりと動く。
「……そうですね」
一瞬だけ、視線が揺れる。
それでもセリスは、小さく頷いた。
ルカの口元がわずかに歪む。
「息ぴったりだったな。
長年組んでる相棒みたいだった」
「ヴァルはさっきから妙に気合入ってたな」
「いつも通りだ」
「いやー?」
レオが首をかしげる。
「なんか今日、無駄に速かったぞ。
張り切りすぎじゃね?」
「……うるさい。別にいいじゃん。頼もしかっただろ?」
ルカが肩をすくめる。
「ま、たまにはそういう日もあるよな」
それ以上は誰も触れなかった。
ヴァルは小さく舌打ちを飲み込む。
自分でも理由が分からない苛立ちが、まだ胸に残っていた。
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