提案
ナイルの波間に眩しい光が躍り、あれほど賑やかだった昼が嘘のように、夜の王宮は深い静寂に包まれていた。離れの部屋には、夜の冷気を含んだ風がそっと吹き込み、卓の上に置かれた灯火が揺らめきながら室内を仄かに橙色に染めている。
私はその柔らかな光を寄せるようにして椅子に深く腰掛け、一つのパピルスを広げていた。
昼間に全身で浴びた水と風の心地良い余韻は、今も身体に残っている。ナイルに潜ったときに耳の奥で弾けた水音や、肌を撫でていった陽光の温もり。濡れて火照っていた皮膚はすっかり落ち着いたものの、胸の奥には未だに小さな高揚の火がくすぶっていて、ただじっとしているのが惜しいほどだった。
静まり返った室内でパピルスを少しずつ広げていくと、乾いた草のような匂いが鼻腔をくすぐり、かすかな擦れ音が部屋に響く。文字を追う視界に、灯火の揺らめきが映り込んだ。
「まだ起きていたのか」
静けさを揺らす穏やかな声とともに、アトラーが部屋へ入ってきた。
王宮へ戻るなり残っていた政務に引き戻されていたが、それもようやく終わったらしい。簡素な寝間着に身を包んだ彼は、昼間よりもどこか清々しい表情をしている。
「おかえりなさい」
いつものように夜になればここへ来てくれる彼を、椅子から立ち上がって迎えた。
「もう休んでいると思っていた」
言われてみれば、いつもならもう眠っている時間だ。
「あなたを待っていたの」
「それは嬉しい」
彼は私の傍まで静かな足取りで歩み寄ると、愛おしそうに目を細めて私の頬を撫でてくる。
「今日は楽しめたか」
「今までにないくらい楽しかったわ。まだ興奮して眠れそうにないの」
素直に答えた私にアトラーは低く笑い、並んで腰を下ろすと、今度はそっと私の髪に触れた。
「あれほど泳いだというのに」
優しい手つきに心が満たされていくのを感じながら、私は広げていたパピルスへ視線を戻した。こうした時間が一番好きだと思える。
「これは?」
「狩りの記録よ」
パピルスには、過去の遠征や狩猟について細かな記録が残されている。王宮の書庫から借りてきたもので、歴代の王たちがどのような狩りを行い、何頭の獲物を仕留め、それをどの神々へ捧げたのかまで克明に記されていた。なかなか勇猛果敢で、本当だろうかと疑ってしまうほどの立派な記録ばかりだ。
「あなたは獅子狩りもするのよね」
開いていたパピルスを彼へ見せる。獅子狩りがどれだけ大切なものであるかが綴られている場所だ。
「獅子狩りは王の務めでもあるからな」
百獣の王たる獅子を狩ることは、王の勇猛さを示すだけではなく、王がこの世の秩序を守る力を持つことを知らしめる重要な儀式でもあるという。神殿の壁画などにも、獅子を勇敢に狩る王の姿がよく描かれているのを目にしていた。
「婚儀の時も行われていたわよね……遠くからだったから、あまりよく見えなかったけれど」
チャリオットに乗り、疾走しながら猛獣に挑むというのは、一体どんな心地なのだろう。見られるものなら、もっと近くで見てみたかった。
「私もやってみたいわ」
何気なく口にした言葉に、アトラーは一瞬だけ驚いたように目を見張った。少し考えるように黙ったあと、困ったような苦笑いを浮かべる。
「それは……厳しいな」
一瞬でも真剣に検討してくれたのだと分かって、思わず頬が緩んだ。
「冗談よ。野鳥とは訳が違うでしょうし、なかなかの腕力と度胸が要るはずだわ」
さすがの私でも、自分で獅子を仕留められると思うほど思い上がってはいない。
「それに、私が獅子狩りをしたいなんて言ったら、今度こそメレスが卒倒しちゃう」
「それはそうだ」
アトラーが肩を揺らして笑う。
「だが、狩りそのものならまたすぐに連れて行ける。そなたが馬を駆っている姿を見るのは私も好きだ」
嬉しくなって頷き、再びパピルスへ視線を戻す。
「この書は?」
彼は狩りの記録の傍らに広げていた、もう一つの書を示した。
「これは……議事録よ。近頃の情勢も知りたくて、タニイに頼んで持ってきてもらったの」
アトラーは感心したように顎に手を当て、その内容に目を通した。
「少し前のものだな」
最近のものは政務に使うため持ち出しができず、持ち出しが許された少し前のものをタニイが書き写してくれたのだ。これならば返さなくても済むと言って。
私はパピルスに記された文字を指で辿りながら口を開く。
「読めば読むほど、今のエジプトがどれほど巨大で、複雑かが分かって驚いているわ。あなたが即位した時の記録も見たけれど、先代の王が築かれた平和のおかげで、今は諸外国との大きな戦争が起きる心配はほとんどない……」
先王の代までに北のミタンニやバビロニアといった大国との争いには一区切りがつき、婚姻や贈答品のやり取りを通じた『平和な外交』の時代に入っている。いまや諸外国の王たちは、エジプトの黄金と莫大な富を求めて、競うように親善の書簡を送ってくるという。
だから、彼の側室には大小様々な国の王女がいるのだ。
彼自身の母も、そうやってこの国に嫁いだミタンニの王女だった。
「戦がないのは素晴らしいことだわ。でも……だからこそ、内政の舵取りはより一層複雑に見える。遠方の領土からの貢納品の管理、ナイルの増減に応じた収穫の予測、そして……各地の大神殿、とりわけアメン神殿に集まる膨大な財と権力……」
武力による征服の時代が過ぎ去った今、この国を治めるということは、莫大な富をいかに分配し、諸外国との均衡を保ち、強力すぎる神官たちの影響力をいかに制御するかという、目に見えぬ緻密な政治の駆け引きを意味していた。
父が神官側との繋がりを強めたかったのも、こういった背景があったからだったのだ。
彼は私に頷く。
「父からこの国を引き継いで、今私が向き合わねばならないのは、外の敵ではなく国の中にある膨大な仕組みそのものとも言える」
一瞬、沈黙が降りた。彼がじっとこちらを見つめているのに気づいて顔を上げると、灯火を映す彼の深い黒い瞳の中に、私が映り込んでいた。
「ティイは、本当によく学んでいる。タニイから聞いていたが、そこまで読み解いているとは思わなかった」
思わぬ称賛に、私は少し照れくさくなって手元に視線を落とした。
「あなたの隣に立つ身だもの。何も知らないままではいられないでしょう」
でも、と肩を落とす。
「知れば知るほど、自分の知識の浅さに気が遠くなりそうになるわ」
「ティイ」
彼はパピルスの上にあった私の手を包み込むように握った。そこから体温が伝わってくる。
「政務の場に出てみるか」
思ってもみない提案に目を瞬かせた。
「私が……?政務に?」
宰相ラモーゼや兄アネンをはじめ、この国に関わる臣下たちが揃う重要な話し合いの場だ。ほぼ毎日開かれていて、軍事司令官である父イウヤや最高神官ペネフが参加することも多い。毎朝開かれる朝議のような小規模なものから、この国の行く末を決定するような大きなものまで様々だ。
「もう少し先にしようと考えていたのだが、これだけ読み解けるのならば明日から出ても問題ないだろう。さすがは私が選んだ妃だ」
誇らしげに褒め湛えてくれる相手を、驚きながら見つめてしまう。
「私の隣で政務の場に出れば、我が国の最新の情勢を知ることができる」
それはそうだろうが、そもそも王妃が政務に出るなど許されるのだろうか。
「でも、政務に出られるほど学べていないわ」
各国の情勢や歴史、交易、神殿のこと。知らなければならないことはあまりにも多く、いくら学んでも足りないように思える。
妃として、いつか彼の手助けをしたいとは考えているが、今はまだその域に達していない。
「書物を読むだけでは分からないこともある。実際に政務の場に出て、何が話されているのかを自分の耳で聞くのも良いだろう」
彼は私を覗き込んでくる。
決して冗談で提案していないのだと伝わる、真剣な眼差しだ。
「まずは私の隣で皆の話を聞き、慣れてきたら、思ったことを発言してもらって構わない」
「私なんかが発言だなんて……」
王の政務は国を左右する重要なものだ。
まだ知識の足りない私が同席し、口を挟めば、それこそ皆の邪魔になってしまうのではないだろうか。もし見当違いな発言をして、皆を混乱させたらどうなる。
躊躇う私を見て、アトラーは大丈夫だと静かに告げる。
「ティイは自分を卑下しすぎなのだ」
自分に自信なんてない。
この人と過ごすようになって、ようやく少しだけ自分が好きになったくらいだ。
「ティイには政に携わる素質がある。その素直な視点は、必ずこの国に新しい風をもたらす。私はティイの意見を聞きたい」
「あなたは……私を買いかぶりすぎよ」
それでもなかなか首を縦に振らない私に、彼はふっと優しく目を細めた。
「ならば、いきなり政務の場に出るのではなく、まずは順を追って学ぶ時間を作ろう」
少し考えてから、一人の名を出した。
「ナルメルはどうか」
思いがけない名に、思わず目が丸くなった。
脳裏に浮かぶのは、ひょろりとした少年の姿だ。
アトラーが膨大な書記官たちの中からその類稀な才能を見抜き、弱冠十三歳にして側近へと抜擢した、頭脳明晰な少年である。
「ナルメルはこの国の情勢や財政、諸外国とのやり取りを誰よりも正確に把握している。あの若さで膨大な行政記録を完璧に捌く男だ。基礎を頭に入れて政務に出てみれば、見える景色もまったく違うだろう」
それは魅力的な提案だった。
「ナルメルから一通り話を聞いて、分からないことがあれば尋ねればいい」
実際に政務に携わる人から話を聞けるのはありがたいことだった。
タニイから学んではいても、タニイは政務に参加しているわけではないから、どうしても情報が最新のものではない。
「迷惑ではないかしら。あの子の仕事はあなたの側で手助けをすることでしょうに」
王の側近に、王妃を相手に講義する時間などあるのだろうか。
「問題ない。ナルメルもティイと話してみたいと言っていた。喜んで引き受けてくれるはずだ」
胸の奥で、昼間ナイルに飛び込んだ時とはまた違う、静かな熱がこみ上げ、私は彼に頷いた。
「ナルメルからしっかり学んで……そのうえで、あなたの隣で、あなたのお役に立てるよう力を尽くすわ」
答えると、アトラーは心底満足そうに目を細め、私の額へ愛おしそうに唇を寄せた。
「明日からナルメルを遣わそう」
ありがとう、と微笑む。
まだ政務に出ることへの不安は消えない。それでも、ナルメルから国のことを教わり、そのうえで少しずつ政務の場を知っていけるのなら、今よりは自分にもできることが増えるかもしれない。
「さあ、今夜はここまでだ」
彼はそう言って卓の上のパピルスを一つずつ引き寄せると、手慣れた様子で端からくるくると巻き上げた。
「狩りもして、ナイルで泳いで、身体も疲れているはずだ。休まなければ」
狩りをしたことも、ナイルで泳いだことも、何だか昨日のことのように思えるほど、濃密な一日だった。
「なんだか急に眠くなってきた気がするわ」
彼が軽く笑いながら、私の手を取って自分の方へ引き寄せる。
重ねられた手を見つめてから、もう一度彼を見つめ返した。
「今日は本当に、楽しかった」
彼の瞳に、自分だけが真っ直ぐに映っていることがとても嬉しい。ずっと見つめていたいと願うほどに。
「あなたと一緒にいられたことが、何より楽しかった」
一瞬、アトラーが目を丸くした。
けれどすぐに柔らかな笑みを浮かべると、繋いだ手にそっと指を深く絡めてくる。
「私もだ」
胸の奥が温かい熱で満たされていく。
そのまま彼の手が滑るようにして、私の頬に添えられた。
「今日はよく笑っていたな」
そう言いながら、彼がゆっくりと顔を寄せてくる。
「ずっと見ていたくなるほどに」
静かに唇が重ねられた。
触れるだけの口づけであったにも関わらず、離れた後も唇には熱い余韻が残り、私は思わず、その熱を閉じ込めるようにそっと唇を結んだ。
この温かな瞳も、優しく触れてくれる手も、私だけに向けられる愛おしげな表情も──彼のすべてが好きでたまらない。
想いが溢れて零れ落ちそうになったその時、私を見つめていたアトラーが、込み上げるものを堪えきれなくなったように、私の身体を力強く掻き抱いた。
低い声が私の名を紡ぐ。ただ名を呼ばれるだけで、胸が震えた。
「……好きよ」
溢れる想いが唇から零れた。
それに応えるように背中に回された腕にぐっと力が込められる。私は背中に回された腕の強ささえ愛おしく感じながら、彼の広い胸へと素直に身を預け、背中に腕を回した。
「あなたが大好き」
言葉にした途端、胸の奥まで満たされていくような幸福感が広がっていく。私は彼から伝わる確かな体温と鼓動を感じながら、その温もりの中でそっと目を閉じた。




