ナイルの畔
賑やかな昼食を終え、日差しが木々の影を短くし始めた頃、私たちはさらに奥にある穏やかな川辺へと移動した。
ナイルの畔は驚くほど緑豊かだ。
ほんの少し馬を走らせれば、見渡す限り赤い砂ばかりの大地が広がるというのに、川沿いには天を突くように美しいナツメヤシが立ち並び、水際では青々としたパピルスが群生している。水面には可憐なロータスが花を咲かせ、水面を渡る風に、ほのかな甘い香りを漂わせていた。
乾いた砂漠と背中合わせに存在する、命の源たる黒い土の豊かな緑。
何度見ても不思議で美しい光景に胸が打たれる。これもまた、神々がもたらしてくださった恵みなのだろう。
移動先には小舟が数隻用意されており、私たちは何人かずつに分かれ、それぞれの舟へ乗り込んだ。
舟ならば侍女たちもすぐ傍にいられるし、水に入らずとも景色を眺めて楽しめる。
湿り気を含んだ黒く豊かな土と、日差しを浴びた木々の葉の青々とした香り。木漏れ日の揺れる木陰に入ると、ナイルを渡ってきた風が肌を心地よく撫でていく。
どこまでも澄み切った青空のもと、深く鮮やかな緑と光を反射する黄金色の川面が美しく広がっていた。
「ティイ様、絶対に遠くへ行き過ぎてはなりませんよ。鰐の来ない浅瀬から出ないとお約束くださいませ」
目の前にいるメレスが繰り返し念を押す。
私が乗っている舟にはメレス、ラジヤ、タニイ、そして護衛役のニアンが同乗していた。髪を一つにくくり、泳ぐ支度はすでに整っているというのに、肝心のメレスがなかなか首を縦に振ってくれない。その様子に、ラジヤは困ったように笑い、タニイは口元を押さえて肩を揺らしていた。
「メレス、心配しなくても大丈夫よ。危険なところには行かないし、泳ぐのは得意なの」
「泳がれなくとも、こちらで皆と舟遊びをなさるのもよろしいと思います。舟の上から眺める景色も格別ですよ」
「そうね、でも……」
「ティイ!」
メレスをどうにか宥めようとしていたその時、不意に名を呼ばれてナイルを振り返った。
その瞬間、小舟がぐらりと大きく傾き、背後から伸びてきた強い腕が私の腰をさらう。
「あっ──」
メレスの目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
悲鳴を上げる間もなく身体が宙へ浮き、視界一面に青空が広がる。
倒れる――そう思った刹那、水面へと吸い込まれていた。
ひんやりとした水が全身を包み込み、気づいた時には頭上の波立つ水面を見上げていた。
降り注ぐ太陽の光が青い水の中で弾け、まるで黄金の粒が散っているかのようだ。
なんて美しい世界だろう。水の中では、これほどまでに光が踊るのだ。
その美しさに目を奪われながらも、自分を引き込んだ相手へと視線を向ける。私をしっかりと抱きかかえるアトラーが、悪戯を成功させた子どものような笑みを浮かべていた。
軽やかに水の中を進み、彼が私を支える腕に少し力を込める。
上へあがるのだと察して身体を預けると、彼は私を抱えたまま水面へ向かっていった。その勢いに任せ、私は咄嗟に彼の肩へ腕を回す。
水面を打ち破った瞬間、清々しい空気が一気に肺を満たした。
勢いのまま、アトラーの顔が私の肩口へ寄せられ、私は思わずその頭を胸元へ抱き寄せた。
眩しい陽の光が水面を照らし、濡れた身体を温かく包み込む。久しぶりに全身で受けるナイルの水と風があまりにも心地良くて、私は声を上げて笑った。
「ああ、楽しい……!」
自分の腕の中に収まる彼を見下ろすと、私の髪から落ちた水滴が彼の顔に弾けた。私を眩しそうに見上げる彼の瞳は、陽光を受けて煌めき、見惚れるほどに綺麗だ。
「こんなの、初めてよ」
そう口にすると、また溢れるように笑みが零れてしまう。
まさか舟の上から直接ナイルに飛び込むことになるなんて、夢にも思わなかった。
「ナイルはこんなにも美しいのね」
腕を解き、彼の肩に両手を置きながら感嘆を漏らすと、彼は静かに頷いた。
「ナイルの美しさは、水の中に入ってこそ分かる」
生きとし生けるものすべてを育む命の川。神々がこの国に与えてくださった最高の恵み。この国は、このナイルがあるからこそ青々と潤い続けている。
「とはいえ」
アトラーはそこで一旦言葉を切ると、私の顔をじっと見つめた。
「そうやって息を弾ませて笑っているそなたの方が、私にはずっと美しく見える」
思いがけない言葉に、頬が一気に熱くなった。
本当にこの人は、照れもせずにまっすぐ私を褒めてくれるのだ。
「……ありがとう」
はにかむ私を前に、彼はどこか満足げに目を細めた。
アトラーに抱えられたまま浅瀬まで運んでもらい、ようやく自分の足が川底につく。それでもまだ胸の下までナイルに浸かった状態で、私は頬に張り付いた髪を指で払った。
「気持ち良かっただろう」
濡れてなお精悍な、けれど無邪気な少年の面影を残した笑みを浮かべ、彼がさらに私を自分の方へと引き寄せる。
「とっても」
そう答えると、彼の手が私の額についた濡れ髪をそっと撫で上げ、そのまま愛おしそうに額へ唇を落とした。
くすぐったさに身動ぎしながら私も彼の濡れた髪をそっと撫で返してみる。撫でられている相手は気持ち良さそうに目を細めた。
「でもびっくりしたわ。急に引き込むんだもの」
水を含んでいるというのに、彼の焦げ茶の髪は驚くほどに固い。
「あまりに遅くて引き込んでしまった」
「メレスがね、とても心配しているの」
少し離れた水面に、さっきまで私が乗っていた小舟が揺れていた。無事だと分かったメレスが、こちらの姿を認めてほっと胸を撫で下ろしている。
その隣でラジヤが弾けんばかりの笑顔で手を振っているのが見えて、私も大きく手を振り返した。
「妃を伴って泳ぐ者など、そうはいないからな。ティイの身に何かあったらと、気が気でないのだろう」
「あなたには側室がいるでしょう。その方々と一緒に行ったことはないの?」
会ったことはないが、この人には五十を超える側室がいる。一人くらい狩りや水泳を好む人がいるのではないだろうか。
しかし、彼は「ないな」と否定した。
「狩りや泳ぎに行くことがあっても、女たちがついてくることはほとんどない。そもそも狩りや水泳をやろうと言い出す者がいないからな」
そうなのか、と少し驚く。
側室の方々は皆、諸外国から渡ってきた王女たちだ。
皆が当たり前のように私を受け入れてくれるから錯覚していたが、王妃でありながら馬を駆り、川で泳ぐ私は、諸外国から見ても圧倒的に少数派なのかもしれない。
「殿下!なんということをなさるのですか!」
怒声が聞こえて顔を上げると、メレスを乗せた小舟が目の前まで迫っていた。ニアンが懸命に櫂を漕いでいるのが見える。未だにナイルに浸かったままの私たちは、舟の上のメレスを見上げた。
「こうでもしないと泳ぐ前に日が暮れてしまうだろう」
「寿命が縮みました!」
飄々としたアトラーの返答に、メレスは呆れたように大きく溜め息を吐き、私の方へ手を伸ばした。
「ティイ様、引き込まれてさぞや驚かれたでしょう。こちらへ」
このまま手を取って舟に上がってしまえば、もう二度と泳がせてもらえない気がする。
「もう少し泳ぎたいの。あと少しだけ」
お願い、と付け加えると、メレスは困ったように眉根を下げた。
「ですが……」
言い淀むメレスと私の間に、アトラーが自然な動作で割り込んできた。
「ティイ、メレスには私から言っておく。存分に泳いでくると良い」
「殿下!」
メレスが声を張り上げる。
「あちらにウセルハトの乗った舟があるだろう。あそこまでならば問題ない。私もあとから追いつく」
アトラーに「さあ」と促され、私は強く頷くとそのまま再びナイルの水中へと滑り込んだ。
全身を包み込む冷たさがたまらなく心地良い。衣を着ていても、薄手のものだからか水の中にいればそこまで重さは気にならなかった。
足をひと蹴りするたびに身体が軽やかに前へ進み、まるで水そのものが自分を運んでくれているかのような感覚があった。空を飛んでいる気さえしてくる。
深く潜って見上げれば、先ほど目にした黄金色の光が再び視界いっぱいに広がった。水面の向こうでは太陽の光が揺らめき、その合間を小さな魚たちが影となって横切っていく。
水を掻き分ける音と、自分自身の鼓動。それだけが耳の奥に心地よく響く。
楽しい。心から、楽しい。このままどこまでも泳いでいけそうだった。ただ泳ぐことだけに夢中になる。
久しく感じていなかった解放感に、胸の奥がどんどん軽くなっていくのが分かった。
さすがに息が苦しくなって水面へ顔を出すと、ナイルを渡る風が火照った頬を優しく撫でた。
振り返れば、だいぶ離れたところからアトラーがこちらを見守っている。
その向こうでは侍女たちの舟が浮かび、どこからか摘んできたロータスの花をナイルの水面へ手向けていた。流れる花々は水面に色鮮やかな彩りを添え、まるで大地の恵みとナイルの神へ感謝を捧げているかのようだ。
水面から顔を出す私を見つけて、次々と驚いた声を上げるものだから、私はその慌てた様子に思わず笑みを零し、手を振って見せた。
やがて私の傍までしなやかに泳いできたアトラーが、私の顔を覗き込むようにして嬉しそうに笑った。
「そなたは魚のようだな。すいすいとどこまでも行ってしまう」
「そうでしょう?どこまでだって行けるわ」
自慢げに応じると、アトラーは楽しそうに目を細め、ふと向こうへ視線を向けた。
「ウセルハトが退屈そうにしている」
アトラーの視線を追うと、少し離れた水面にウセルハトの乗る小舟が揺れていた。
彼が舟の縁に頬杖をつき、暇を持て余した様子で舟を漕ぐ従者たちに何か話しかけているのが見える。きっと「自分も川に入りたかった」とでも、延々と文句を言っているのだろう。
「ねえ、アトラー」
「ん?」
喉の奥を鳴らすような低く短い返事が返ってくる。
「ウセルハトのところまで競争しましょ」
私の提案に、アトラーは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに楽しそうに口角を上げた。
「あそこまで泳いで、ウセルハトをびっくりさせるの」
「それは良い」
互いに合図を交わすと同時に、私たちは再びしなやかに水面下へと潜り込んだ。
包み込むナイルの清らかな水に身を委ねていると、不思議なくらい身体も心も軽かった。
本当に、どこまでも行けそうな気がした。




