狩り
久方ぶりに握った弓は、驚くほど手に馴染んだ。
王宮に嫁いできてから、こうして馬に跨り風を切ることなど一度もなかった。いや、嫁ぐ前のムノにいた頃ですら、馬で駆けることは許されず、庭で馬を歩かせる程度だった。
王宮での日々は決して不自由ではない。むしろ、これ以上ないほど大切に扱われ、実家にいた頃よりもずっと自由にさせてもらっている。
それでも、今全身で感じているこの清々しさだけは、他の何をしても得難いものだった。
地を駆ける馬の蹄の音。
頬を撫でる乾いた風。
手綱を握る確かな感触。
一斉に空へ舞い上がる野鳥の群れ。
私は思わず声を上げ、馬の腹を軽く蹴った。
草を踏みしめる音が力強く響き、景色が一気に後ろへ流れていく。そのすべてが、忘れていた何かを呼び覚ますようだった。
「お嬢様!」
後方からラジヤの声が聞こえたが、それさえ風に溶けていく。
テーベの賑わいを離れた緑豊かなナイルの畔で、群れを成して飛び立つ鳥へ狙いを定めた。手綱を片手で操りながら身体をひねり、弓を引き絞る。
狙いは一羽。
息を止めて指先の力を抜く──解き放たれた矢は真っすぐ空を裂き、一羽の翼を射抜いた。
羽を散らしながら鳥が弧を描いて地へ落ちていく。
同時に、遠巻きに見守っていた侍女たちから悲鳴にも似た歓声が上がった。
「お見事!」
ウセルハトが歓声を上げ、落ちた獲物を拾い上げてこちらに掲げて見せた。
「剣だけではなく、弓もお出来になるとは……さすがはイウヤ殿の御息女であらせられる」
傍らで馬を並べるニアンが感嘆の声を漏らした。
「弓ならば兄たちにも負けないわ」
弓を初めて教えてもらった時、私の筋の良さを見た父がとても褒めてくれたのを思い出す。
私が女だったから、すぐに教えてくれなくなってしまったけれど。
「王妃様がこれほど見事に弓を扱えるなんて、知らぬ者が見ればさぞ驚くでしょうね!」
ウセルハトが従者に獲物を渡すと、興奮冷めやらぬ様子で馬でこちらへ駆けてきた。
「百発百中だな。見事なものだ」
アトラーが私の隣に馬を寄せ、ウセルハトの言葉に頷く。
彼も頭から麻布を被っていたが、誰が見ても隠す気などない被り方だ。
「私の妃は思っていた以上に勇ましい」
褒められて口元が綻ぶ。
「そうでしょう?」
本当なら、頭から被った麻布を全部脱ぎたいところだが、それをしたらきっとメレスに怒られてしまうだろう。
「次はあなたの番よ」
私が促すと、彼はにっと笑って上空を仰ぎ、新たな標的を見つけるや否や馬の腹を蹴った。
私もその後を追い、ウセルハトやニアンも競うように獲物を仕留めていった。
本来、王族の狩りといえば、祭事の一環としてチャリオットを連ね、大勢の供を従えて行われる。しかし今回は内々の狩りであり、私がまだチャリオットに乗ったことがないため、アトラーの提案で全員が馬に跨って狩りをすることになった。
チャリオットは小回りがきかないらしい。それはさぞや狩りがし辛いだろうと想像する。
何羽かの獲物を仕留めたところで、アトラーが木陰に向かって手綱を引いた。
「少し休もう。そろそろメレスが痺れを切らす頃だ」
そう言われて私も手綱を緩めると、馬は気持ちよさそうに首を上下させた。
やがて大きなアコウノキの木陰へ入って馬を止め、ウセルハトたちは従者に獲物を預け、侍女たちも水や果実を運んできた。それでも遠くの衛兵たちは周囲へ目を配り、緊張を解く様子はない。
「ティイ様!お怪我はありませんか?」
アトラーの手を借りて馬から降り立った私に、すぐさまメレスが駆け寄ってきた。
「大丈夫よ」
アトラーが言っていた通り、すでに痺れを切らしていた様子だ。
「あまりご無理はなさいませんよう」
頭の麻布を外され、髪についた微かな砂を手際よく払われる。全身に怪我がないか隅々まで確かめているようだった。最早王よりも丁重に扱われている気がしてくる。
「全然無理なんてしてないわ。私、今とても楽しいの!」
素直な本音が溢れ出た私に、メレスは一瞬目を丸くすると、やがて眉を下げて困ったように笑み、その後ろにいたタニイが、豪快に肩を揺らして笑った。
「やっぱりティイはこうでなくちゃ。この笑顔が可愛いったらありゃしない」
そうだな、と同意するアトラーの目元が緩やかに弛んだ。彼が自然な仕草で私の頬に優しく触れてくる。
「この笑顔が見られただけでも、今日来た甲斐があった」
胸の奥がじんわりと温かくなって、私は微笑んだ。
「連れてきてくれてありがとう」
私の言葉に、彼も嬉しそうに頬を綻ばせた。周囲の皆も楽しげに言葉を交わし、先ほどまでの狩りの熱気は、穏やかな昼の空気へと変わっていた。
「さあ、皆さまお腹が空きましたでしょう。ご昼食をどうぞ!この後は泳ぎますから、しっかり召し上がってくださいね」
ラジヤが他の侍女たちと木陰に食事を広げ、賑やかな昼食が始まった。
木漏れ日の下、椅子に腰かけて食事を口にしながら、改めて周囲を見渡す。
今回同行しているのはアトラーと、その側近であるウセルハト、ニアン、そして護衛の衛兵たちに、私付きの侍女たちだ。兄アネンとナルメルは王宮に残ったものの、メレスをはじめ離れの侍女たちはほとんどが同行している。衛兵も普段以上に配置され、この一帯を警戒してくれていた。
この厳重な警備も、先日の騒動があったからだ。
あの日のあと兄アネンからは「王妃としての自覚が足りない」と散々説教を受けた。もっとも、そのあとで「今回のことは父上たちには伏せておこう」と約束してくれたので、父と母の耳に入ることはないと知ってほっとしたのだけれども。
兄もまた、母が知れば卒倒しかねないと案じていたのだ。
だが、次兄アイの耳には入っているだろうと少し憂鬱な気分になる。
次に顔を合わせたら、どんな嫌味が飛んでくることやら。
それを思うと、自ずと苦笑が漏れた。




