叱責
「ラジヤにはほとほと呆れました!主人の危険を止められないとは何事です!」
ラジヤは消え入りそうなほど小さくなり、メレスの前で肩をすぼめていた。
「ティイ様はもうムノにいる一介のお嬢様ではないのですよ!?この国唯一の王妃であらせられます!万が一のことがあったらどうするのです!」
雷鳴のごとき怒声が離れに響き渡る。
張り詰めた痛烈な空気に、私やタニイはもちろん、その場に控えていた侍女たちや衛兵たちまでもが息を殺し、微動だにできずにいた。
とんでもない人を本気で怒らせてしまったのだと、背筋を伝って冷や汗が流れていく。
私たちが王宮を抜け出したのは、時間にしてほんのわずかな間だった。
だが、メレスが私を心配して寝室を訪れ、不在が発覚したことで大騒ぎになったらしい。王妃の失踪はすぐさま王に知らされ、衛兵たちが駆り出され、侍女たちも慌てふためき、王宮中が騒然となる中、私たちは何事もなかったかのように帰ってきた。
そして今、こうしてお叱りを受けている。
「……こ、ごめん、メレス」
この重苦しい空気の中、ラジヤの隣に踏み出したのはタニイだった。
「今回のことは私が言い出したことで、そんなにラジヤを怒らないで欲しいのだけど……」
ラジヤに向けられていたメレスの鋭い眼差しが、すぐさま矛先を変えてタニイを射抜いた。
「タニイ殿もタニイ殿です!いくら息抜きでテーベを散策したいからといって、護衛も付けずに連れ出すなど……!こういったことはまずファラオにお伺いを立ててから行うべきものでございましょう!」
「でもね、ファラオもお忙しいし、許しを乞うてる間にティイの方が参っちゃうし、王宮の近くを少し歩くだけなら、そこまで危険でもないかなって……」
「そういう問題では御座いません!!!」
メレスの咆哮が、天井の影を揺らすほど激しく響き渡る。
「ティイ様の掛け替えのない御身に何かあればどうするのかと私は指摘しているのです!王妃というお立場は皆が思う以上に危険と隣り合わせなのですよ!万が一、不届き者に襲われでもしたらどうなさるおつもりですか!」
侍女頭であるメレスのあまりの凄相にタニイですら言い返すのを諦め、ラジヤの隣で小さくなった。
「この国は大国です。大国の王妃や王子が他国に狙われ、人質として攫われることなど決して珍しくはありません!近隣諸国でそういった事例があったのを、タニイ殿ならご存知のはず。人質として囚われでもしたら王妃様のお命はないのです!」
確かに彼女の言うとおりだ。
王妃や王子が他国に狙われ、交渉の切り札とされることは珍しくない。ましてや先の婚儀によって、この国の新たな王が正妃を得たことは諸外国の知るところとなった今、隙を突いて王妃の誘拐を企む勢力がないとは言い切れない。捕らえられれば酷い仕打ちを受けることは目に見えているし、無事に帰れる保証などどこにもないのだ。
メレスはそれを心底案じてくれていた。
今更ながら事の重大さに思い至り、取り返しのつかない軽率なことをしたという深い後悔が、胸の奥から押し寄せてくる。
「メレス、あの……」
私が謝らなければと意を決し、震える足で彼女の前に進み出た。
「心配をかけてしまって、本当にごめんなさい」
鋭い視線がこちらを真っ直ぐに捉える。
「二人とも、私に元気がないからと心配してくれただけなの。行くと決めたのは、私自身の意思で……」
すべては私の幼さが招いたことだ。
外に出られると知った瞬間から興奮で周りが見えなくなあり、王妃となった身としての自覚を完全に欠いていた。
「軽率な行動を取って、皆を巻き込んでしまって……私がもっと身の程を自覚しなければならなかったのに……本当に…… 」
メレスの視線が刃のように突き刺さり、喉が絞まるようで言葉が上手く続かない。口内はからからに乾き、胃のあたりがきりきりと締め付けられるように痛んだ。
「ティイ様!」
「はっ、はい!」
大落雷のような大声で名を呼ばれ 、反射的に背筋を伸ばした。ムノの屋敷で父に叱られていた時とは比べ物にならないほどに身が縮む。血の気が引くとはまさにこのことだ。
「おっしゃる通りです!ご自身がどれほど大切な御身であるか、どうか今一度、深く深くお考えくださいませ! 」
そこまでメレスがまくし立てたその時、不意に、部屋の奥からくつくつと笑い声が滑り込んできた。
「メレス、そう怒るな」
場違いなほど穏やかで、温かい声。
張り詰めていた空気が、その一言だけでわずかに緩む。
「皆が竦み上がっている 」
離れの奥に置かれた椅子に腰掛け、これまでの一幕を静かに見守っていたアトラーが、穏やかな笑みを浮かべながら立ち上がった。その傍らには、ウセルハト、アネン、そしてニアンの姿もある。
彼もまたこの騒動を知らされ、政務を中断して駆けつけてくれた一人だった。
「殿下も殿下です!何を笑っておいでなのです!」
普段は「ファラオ」と敬称を口にするメレスだが、感情が昂るあまり、呼び慣れた「殿下」の呼び名が飛び出している。それほどまでに彼女は頭に血が上っているのだ。
「ティイ様の御身に何かあったらどうなさるおつもりか!心配ではないのですか!」
尚も憤るメレスに、アトラーは困ったような苦笑を浮かべつつ、ゆっくりとした足取りでこちらへと歩み寄ってくる。
「勿論心配だが、そもそもティイは私を殴り倒すほど腕が立つし、ニアンもその剣の腕を認めている。王宮のすぐ近くでタニイまで付き添っていたのなら、そう案ずるほどではないだろう」
「なんて悠長な!!!」
声を張り上げるメレスに、アトラーは動じることなく、静かな口調で続けた。
「メレスの言うことは至極もっともだ。だが、タニイが言っていたように、ティイに息抜きが必要だったのも事実だ」
アトラーは私の目の前で立ち止まると、愛おしそうに私の頭へ手を置き、優しく髪を撫でてくれた。
「私も少々政務に追われすぎていたようだ。王宮にもまだ慣れぬというのに、ティイには王妃として多くの務めを担ってもらった。そのうえ、ゆっくり顔を合わせる時間すら取れていなかった」
穏やかに微笑む彼に、胸が痛む。
「ごめんなさい……あなたにも負担をかけてしまって……」
アトラーに負担をかけたくなくて、短時間で誰にも気づかれずに行こうと思い立ったのに、結局こうして彼の手を煩わせている。
「抜け出すくらい、無事に帰ってきてくれればそれで良い」
髪を撫でながらあまりに優しい表情で言われるものだから、安堵と申し訳なさで泣き出しそうになる。
「王宮での暮らしが嫌になって抜け出したのかと心配したが、そうではないようで安心した」
私は小さく息を呑み、首を何度も横に振った。これだけ大切にされていて、嫌になるはずがない。
十分すぎるほど恵まれているのだ。それなのに、その恩に報いるどころか、皆に心配と迷惑ばかりかけてしまった。
「ティイもタニイたちも十分に反省しているようだ。今回の件は不問としよう」
彼はそう宣言すると、「それから」と楽しそうに言葉を付け加えた。
「幸い、大きな祭事もひと段落した。今度は堂々と皆で息抜きに行こう」
「それは良いですね!」
ウセルハトが間髪入れずに明るい声で賛同したが、メレスは目を見張っている。
「ティイ、何がしたい。狩りがいいだろうか。ナイルで泳ごうか」
狩り。馬に乗って野鳥を追いかけることができたら、どれほど晴れやかだろう。弓を引く感触も、久しく味わっていない。
泳ぐのも楽しそうだ。まだ十歳にも満たなかった頃、一度屋敷を抜け出して泳ぎに行き、母に大激怒されたことがある。きっと、それ以来のことだ。
「……どちらも」
思わず本音が漏れ、咄嗟に口元を押さえた。それでもアトラーは楽しそうに私の返答を待ってくれている。
「あの、……もし、許されるなら……どちらもやりたい」
一度言葉にしてしまうと、胸の奥から弾けるような高揚感がこみ上げてきた。 喜色が隠しきれずに顔に出てしまったのだろう。アトラーはそんな私を見つめ、満足そうに頷いた。
「そうと決まれば予定を立てよう。明後日あたりはどうだろうか」
「問題ありません」
すかさずウセルハトがにこやかに応じる。
「手配を進めておくように」
「御意」
側近は短く一礼すると、すぐさま手近な従者に指示を出し始めた。
本当に行けるのだと心が浮き立つ。
思わずタニイの方を見ると、彼女は私にだけ分かるように眉を上げ、悪戯っぽく口元を緩めていた。
「ファラオ、お言葉ですが私は承服いたしかねます 」
異を唱えたのはメレスだ。
「王妃様をナイルに連れて行くなど……氾濫も近づき、水位が上がってきている頃でしょう。それに鰐もおります。危険です」
メレスは実の息子であるウセルハトの肘を小突いて「あなたも止めなさい」と促している。当の息子は気まずそうに目を泳がせるばかりだ。
「水位はまだ安全だったはずだ」
これにはアネンが「左様です」と答えた。
テーベ近くのナイル沿いには、|水位を計測するための施設があると聞いている。兄はその記録を把握しているのだ。
「ソティスもまだ東の空に現れていないから、氾濫まではまだ数日あるはずだ。念のため、時間神官にも確かめさせよう」
ソティスとは我が国にとって最も神聖な星の名だ。「ナイルの星」「明けの明星」「太陽を呼ぶ星」とも呼ばれる、豊穣の神ソプデトの化身であり、その姿が夜空に現れてから数日後にナイルの氾濫が始まる。ソティスが現れた時こそが、一年の始まりなのだ。
星の動きを観察し、時を司る時間神官に確認を取れば、間違いはない。
「それに鰐のいない穏やかな流域も知っている。妃を危険に晒すことはないと約束しよう」
それでもメレスの眉間の皺は解けない。
「今回は衛兵も多めに配置し、侍女たちも連れて行く。それならメレスも納得してくれるのではないか?」
それならば、とメレスも渋々頷いたが、少し考えてから彼女は顔をあげて王を見た。
「ですが、息抜きとおっしゃるからには人目を忍ぶことになるはず。ファラオと王妃様、それから大勢の従者や侍女まで連れて、内密に遊べる場所などあるのですか?」
メレスの問いかけに、アトラーは誇らしげに口の端を上げた。それはまるで、秘密の隠れ家を知る少年のように無邪気で眩しい表情だった。
「幼い頃から王宮を抜け出してはテーベ中を駆け回っていた私が、とっておきの場所を教えよう」
叱責の緊張した空気が嘘のように散り、衛兵たちも解散して、アトラーが政務に戻るとなったとき、タニイとラジヤが待ちかねたようにこちらへ駆け寄ってきた。
「ティイ、良かったね」
「今度は堂々と息抜きですよ!みんなで行けるなんて楽しみですね!」
つい先ほどまで青ざめて叱られていたとは思えないほど、弾んだ声が飛んでくる。
「二人とも本当にごめんなさい。私のせいで大分叱られてしまって……」
引き込んでしまったのは私だ。私が頷かなければ、二人は今回のことを実行しなかっただろうに。
「叱られるのは慣れっこですから!今に始まったことじゃないですもの」
ラジヤは落ち込む様子もなく、けらけらと明るく笑った。
「それにしてもメレスは怖いねえ。さすがの私も肝が冷えたよ」
さっきまでしおらしく頭を下げていたタニイも、すでにいつもの調子を取り戻している。
「まさかあんなに早くメレスに気づかれるなんて……とんだ誤算だった」
顔をしかめてタニイが漏らすものだから、声を潜めて頷いた。
「本当に怖かった。お父様より怖いかもしれないわ……」
「それ!私も思いました!でも三人で外に出るのは楽しかったですね」
頬を朱に染めたままのラジヤに、私とタニイは顔を見合わせて頷いた。短時間で終わってしまった街の散策について、三人で額を寄せ合って感想を語り合っていた――その時。
「盛り上がっているところ悪いのだが」
後ろから肩を軽く引かれて振り返ると、そこには苦笑いを浮かべたアトラーが立っていた。
「アネンからそなたに一言あるそうだ」
そう言って彼が隣へ視線を向ける。その先には、いつも通り穏やかな笑みを浮かべたアネンがいた。
その笑みは普段と少しも変わらない。それなのに、なぜだか急に背筋が寒くなる。
「あれは……怒っているね……」
私にしか聞こえないほどの小声で、タニイが引きつった声を漏らす。
それまで静かに成り行きを見守っていたアネンが一歩前へ踏み出すと、その笑顔の圧迫感がより明確になる。
穏やかな笑みはそのままなのに、その奥にある静かな怒りだけは嫌というほど伝わってきた。
これは兄からもお叱りを受ける流れだ。
今回のことが両親に知られたらどうなるだろう。母は卒倒してしまうかもしれない。父は怒りに任せて王宮へ押しかけてくるかもしれない。
どうか両親の耳にだけは届きませんようにと、心の中で切に祈るしかなかった。
「それからタニイ」
今度はアトラーが、苦笑いを交えてタニイに声をかけた。
「私?」
「ラモーゼから言付かっている」
タニイは「げ」とあからさまに顔を歪めた。
「今夜は話があるから屋敷に帰ってくるように、だそうだ」
タニイは天を仰ぎ、大げさに肩を落とした。
「父上の説教は長いんだよなあ」




