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太陽を抱く君へ  作者: 雛子
第5章 日常

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息抜き


「お嬢様、見てください!これをいただきました!」


 幾つも続いた大きな祭事が終わり、諸外国の使者たちも帰国して、自室でようやく一息つけるようになった頃、ラジヤが嬉しそうに何かを抱えて部屋へ飛び込んできた。


「ラジヤ、こちらにいらっしゃるのは王妃様ですよ」


 メレスに窘められ、ラジヤは気まずそうにはにかむ。

 ラジヤはどうしても癖が抜けず、皆がいるところでも時々私を「お嬢様」と呼んでしまう。それが、少しだけ嬉しいと思っている自分もいた。


「メレス殿も見てください。一刻も早く王妃様にお見せしたくて」


 ラジヤが大事そうに抱えていたものを差し出すと、メレスは「まあ」と目を細めた。


「これは早くご覧いただきましょう」


 滅多に表情を変えないメレスが嬉しそうに微笑むのは珍しく、一体何なのだろうと椅子に腰かけたまま身を乗り出すと、隣に立つタニイも興味深そうにラジヤの手元を覗き込んだ。


「即位を知らせる記念スカラベじゃないか。立派だね」


 まだ残っている祭事について説明してくれていたタニイが、弾んだ声を上げる。

 王の即位や戦勝など、歴史の節目ごとに作られる記念の品だ。王家の威光を示し、その出来事を国中へ伝える役目を持つ。


「お嬢様のお名前が書いてあるそうです。もういろんなところで配られていると聞きました」


 ラジヤから手渡された黄色いスカラベは、通常のそれよりもずっしりと重く、掌を覆うほどの大きさがあった。表面に刻まれた細かい文章に目を通す。


『上下エジプト王アブマアトラー・太陽神の息子、生命を与えられん。

偉大なる王の妻ティイ、生きよ。

彼女の父の名はイウヤ。彼女の母の名はチュウヤ。

彼女は力強い王の妻。

その南の境界はカロイまで。その北の境界はミタンニまで』


 婚儀そのものについて記したものではなく、王を称える文言のあと、即位したことで得た新たな王名と王妃の名、両親の名、そして統治領域を示した文章が刻まれていた。

 両親の名まで刻まれているのは、王族ではないムノの貴族の娘を王妃として迎えたことを、あえて示すためなのだろう。

 丸みを帯びた黄色の石に刻まれた己の名。

 先王の記念スカラベなら父の部屋で見かけたことがあったが、まさかそこに自分の名が刻まれる日が来るとは、なんとも不思議な心地だった。


「王妃様、お疲れでしょうから、ここらで休憩にいたしましょう」


 メレスが飲み物を用意すると言って部屋を出ていき、室内には私とタニイ、ラジヤだけが残った。


「私、これを宝物にします」


 ラジヤは私から受け取ったスカラベを胸に抱き締め、嬉しそうに微笑んだ。


「お仕えしている方のお名前が刻まれたスカラベなんて、一生に一度しかありませんもの」


 その無邪気な笑顔に思わず頬が緩む。


「旦那様と奥様にもお見せしなくちゃ!」


 言われて両親の顔が思い浮かんだ。そしてきっと、真っ先にスカラベを両親に届けているであろう兄アネンの嬉々とした姿も。


「そうね……ただ、お父様とお母様は多分もうすでにお持ちだと思うの」


 アネンは、そういう兄なのだ。


「たしかに!」


 ラジヤが声をたてて笑った。


「なんたってここにお名前が刻まれている方の御両親ですものね!アネン様ならスカラベが出たその日には届けていそう」


 同じ事を考えているのだと分かって嬉しくなる。


「お父様とお母様の名前もあるのよ」

「えっ!どこですか!?」

「ほら、ここ」


 指差して教えると、「ほほう」と興味津々に頷くラジヤとは対照的に、タニイはじっと私の顔を見つめていた。


「……ティイ、大分疲れているだろう」


 不意に問われて瞬きをする。


「いいえ、大丈夫よ?」


 そう答えたものの、タニイは納得していないようだった。


「ここしばらく、儀式に参列しては各国の使者に挨拶をして、夜遅くまで各国のことを調べては頭に叩き込んでいただろう。かなり無理をしたはずだ」


 王宮へ入って間もない私は、王妃としての務めを果たすため、各国の使者に失礼がないよう短い期間で多くを学ばなければならなかった。

 失礼があってはならない。一つ誤れば国交にまで影響しかねないからだ。


「王妃になったのだから当然よ。これが私の務めだもの」


 タニイは少しだけ困ったように眉根を下げた。

 大変ではあっても、学んだことが活かせたり、習得したばかりの外国語が相手に通じた時は飛び上がるほどに嬉しかったのだ。

 

「……ファラオもお忙しいのでしょう?お話しできています?」


 今度はラジヤが遠慮がちに尋ねてくる。


「疲れてはいるようだけれど、毎日会いに来てくれるわ」


 自然と口元が緩む。


「あまり話せなくても毎日顔を見られるだけで十分よ」


 政務を終えて私の部屋へ来ても、少し言葉を交わせば私を抱き寄せたまま眠りへ落ちてしまう。笑顔を見せてくれるのもほんの束の間で、寝台へ身を預ける姿を見れば、どれほど疲れているのかは一目で分かった。

 それでも毎晩欠かさず会いに来てくれるのは素直に嬉しかった。

 私には想像も及ばないほど忙しいのだろう。アネンもなかなか顔を見せられず、あのウセルハトですら疲労を隠せずにいるのだから。


「あいつはああいうのに昔から駆り出されているから大丈夫。どうせすぐに回復するよ」


 タニイは溜め息をついて腕を組んだ。

 彼女が「あいつ」と呼ぶのは現ファラオ──私の夫のことだ。

 彼は自分がこんな呼び方をされているとは思ってもいないだろうと、思わず笑ってしまう。


「問題はティイ、あんただよ」


 自分のことを言われて、少し驚く。


「私?大丈夫よ。ようやくゆっくりできるようになったし、こうしてラジヤとタニイ、侍女のみんなともお話できるくらいの余裕が出てきたもの」


 実際、先王が崩御されてからはとても忙しく、侍女たちとの会話すら最低限で、残った時間は睡眠に充てなければ体力がもたなかった。

 その時と比べたら大分落ち着いている。


「今だって、こうして私から祭事のことを学ぼうとしているじゃないか。あとは神官たちに任せてしまえばいい。それが彼らの仕事なんだから」

「でも……」


 正直、どこで気を抜けばいいのか分からなかった。

 学べば学ぶほど自分の未熟さばかりが目についてしまう。

 まだ足りない。王妃として恥じないよう、もっと学ばなければという焦りが心のどこかにあった。


「息抜きしよう」


 タニイの提案に、顔を上げた。


「息抜き?」


 思わず聞き返した私に彼女は頷く。


「最近、馬にも乗ってないだろう。剣だって握っていない。王宮に入った頃は時々やっていたのに」

「あまり時間もなくて……」


 剣の相手はアトラーの護衛ニアンが務めてくれていて、それが私のささやかな楽しみだったのだが、今では主人がファラオとなり、どこに行くにも駆り出されていてしばらくできていない。そもそもアトラーが日中この離れに来てくれた時だけの相手だった。

 馬も短時間しか乗れないと思うと、そのためだけに連れてきてもらうのも申し訳なくてなかなか言い出せなかった。


「書物を読むのが何より好きだったのに、今は政務のための書ばかりだ。自分の読みたいものに手を伸ばす暇もないだろう。皆、ティイの吸収が早くて驚いているけれど、無理してるんじゃないか」


 確かにそうだが、苦痛ではない。

 知らないことを学べるのは楽しい。以前なら学ぶ機会を得ることすら難しかったのだから。


「今は大切な時期だもの。それに学ぶことは楽しいわ」


 タニイはまた小さく肩を落とし、溜め息を吐く。


「初めて会った時の元気の良さがなくて私は少し心配なんだよ」


 その言葉にラジヤも隣で深く頷いた。


「お嬢様は元気はつらつでなんぼですよ!ファラオが惚れこまれたのもそういうお嬢様でしょうし」


 そんなに自分は元気がないだろうかと思わず頬に手を当てた。

 返答に窮している私を見て、タニイが口の端を上げる。


「外に行ってみようか」


 ──外。

 きょとんとしてタニイを見上げた。


「タニイ殿、外というのは?」


 同じような顔をしてラジヤが尋ねる。


「王宮の外だよ。テーベの街」

「だ、大丈夫なんですか!?」


 小さな悲鳴を上げたラジヤの口をタニイが慌てて塞いだ。


「もちろん内緒だよ。メレスに知られたら絶対に止められる」

「で、でも、王妃様は大事な御身だから、くれぐれも危険が及ぶことがないようにとメレス殿が……」

「こんなところに閉じ込めていたらティイが駄目になる」


 『外』──テーベの街。

 その響きを耳にしただけで胸が高鳴る。身体の奥から熱が込み上げてくるようだった。


「でも、せめてファラオにお伺いを立てた方が……」


 恐る恐る口にするラジヤに、タニイは首を横に振る。


「許可を取ろうなんて言い出した時点で、まずメレスが通さない。それに今のファラオは忙しすぎる。ティイが疲れていることに気付く余裕も、ゆっくり話をする時間もないんだから」


 もし私が相談したら、あの人はきっと忙しくても時間を作ってくれるだろう。そして自ら付き添うと言い出すに違いない。

 そんな負担を、これ以上かけたくはなかった。

 平然としてはいるが、実父を亡くしたばかりで、心身ともに疲れているはずなのだ。

 誰にも気付かれない、ほんのひとときで済ませられれば──。


「ならファラオの政務が落ち着いてからでも良いのでは……」

「即位も葬儀も終わって、侍女たちにも暇が出てる。こんなふうに王宮が落ち着く日は滅多にない。『そのうち』なんて言ってたら、気付けばまた次の祭事だ。息抜きっていうのは、必要な時にするもんだよ」

「でも、いつ抜け出すんです……?」

「今日の昼食後。狙うなら離れに人が少ない今日しかない」


 確かに離れの侍女は数人しかいない。先日まで皆葬儀と即位で忙しく、それがようやく落ち着いてきたこともあって、昨日から労うために暇を出したばかりだ。

 自分の周りに控える人数がこれほどに減る機会は、あとにも先にもないかもしれない。


「昼食後はそれぞれ持ち場へ戻る。ティイが寝室で休むといえば短時間ならいける」

「でもどこから?離れは衛兵たちに厳重に守られてますし、彼らに見つからずにここを出るなんて……」


 ラジヤが身を小さくして尋ねると、タニイは得意げな顔でにやりと笑った。


「それは私に任せな。抜け道ならいくらでも知ってるんだ。幼少期から王宮を出入りしている私を甘く見てもらっちゃ困るよ」


 ラジヤは困惑した顔をしている。

 無理もない。「抜け出す」という言葉は、彼女にとって苦い記憶でしかないはずだ。幼い頃から何度私の脱走に付き合わされてきたことか。


「ティイ、どうする?」


 タニイが改めてこちらを真っ直ぐ見つめてくる。


「ティイが頷けば、実行する」


 私が、頷けば。


「……行きたい」


 言葉は考えるより先に口をついて出た。


「少しでいいの、外へ行きたい」


 タニイが「そうでなくちゃ」と笑う。同時に隣のラジヤは頭を抱えた。


「王宮の周りをただ散歩するだけにするよ。万が一のことがあったら大変だからね。今行商が来ているから、王宮周りだけでもかなり楽しめると思う」


 テーベの街へ。行商も来ているという。

 途端に楽しみで仕方なくなり、他の事など何も考えられなくなる。


「安全なんですよね……?」


 ラジヤは肩を落としながらもタニイに確認する。


「王宮の周りは治安がすこぶるいい」


 王宮の周りならば、大きな揉め事に巻き込まれることもないだろう。


「ラジヤはどうする?怖かったら私とティイで行くけれど」

「お嬢様が行くのであれば行きます。私の主はお嬢様ですもの」


 意を決したラジヤに、タニイは「分かった」と頷いた。


「念のためこれを持っていこう。私も自分のを持っていく」


 タニイは卓にあった短剣を手に取る。

 王宮へ入る際、護身用としてアトラーから贈られた一本だ。黄金で飾られたそれは、見事な細工が施されている。


「扱えるね」


 差し出された短剣を受け取り、柄を握り直す。

 その重みがすっと掌に馴染み、自然と笑みが浮かんだ。


「短剣は得意なの」





* * * * *


 逸る気持ちを悟られないよう、いつも通り昼食をとり、作戦通りメレスに「寝室で休みたい」と伝えた。いつもそんなことを言わないためか、メレスは少し心配そうな顔をしていたが、何とか言いくるめて一人になることが出来た。

 短剣を腰の帯に差して待っていると、庭へ続く部屋の方からタニイがラジヤを連れて音もなく姿を現した。

 婚礼前夜、アトラーが現れた時とまったく同じで、この人は本当に王宮の隅々まで知り尽くしているのだと感心してしまう。


「これを着て。ラジヤと一緒に、私の侍女として歩いてもらうから」


 声を潜めながらタニイが差し出したのは、頭からすっぽり被れる大判の麻布だった。ラジヤも同じものを羽織っている。


「衛兵も多いからね。顔は隠しておくんだよ」


 その姿を見ていると、ムノの屋敷を抜け出していた時に戻ったようで、思わず笑みが零れた。


「本当に行くんですよね……?」


 不安そうにラジヤが私とタニイを交互に見つめる。


「ほんのちょっと歩くだけ。すぐ戻るわ」


 安心させるように微笑むと、ラジヤは小さく肩を落とし、それでも諦めたように笑った。


「またラジヤを巻き込んじゃうわね」

「もう、まったくですよ。ひやひやしちゃう」


 呆れたように口を尖らせながらも、その瞳にはどこか懐かしさが宿っていた。


「このどきどきする感じも嫌いじゃないんですけど」


 思わず三人で顔を見合わせ、小さく笑い合う。


「短剣は持ったね」


 タニイが私の腰元を確認する。頷いて、黄金の装飾が施された短剣の柄を握り直した。その馴染んだ重みに、不思議と胸の高鳴りが少しだけ落ち着いた。


「行こう」


 タニイの一言を合図に、私たちは顔を見合わせて頷き、誰にも気付かれないよう静かに部屋を後にした。

 久しく忘れていた胸の高鳴りが、足を進めるたびに大きくなっていくのを、もう止めることはできなかった。



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