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太陽を抱く君へ  作者: 雛子
第5章 日常

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側近ナルメル


「ティイ、ナルメルが来たよ」


 翌日、約束通りアトラーの手配によって、一人の少年がタニイに連れられて私の離れを訪れた。

 どうやらここへ来るまでの間、二人で何やら楽しそうに話していたらしい。その和やかな雰囲気をそのままに、少年は私の前まで歩み寄ってきた。


「ファラオの側近、ナルメルです」


 静かな微笑みをたたえた少年が、恭しく一礼する。


「忙しいのにごめんなさい。来てくれて嬉しいわ」


 椅子から立ち上がってナルメルを労うと、彼は首を横に振った。


「滅相もございません。王妃様のお話は、ファラオから常々伺っております。一度、お話ししてみたいと思っていたのです。私が王妃様のお力になれるのでしたら、いくらでもこちらへ参ります」


 まだ十三歳だというのに、私よりも頭ひとつ近く背が高い。整った顔立ちには少年らしいあどけなさが残っているものの、その瞳には年齢に似つかわしくない静かな知性が宿っていた。

 言葉遣いも仕草も、どこか堂々としている。

 なるほど、私が同い年の頃とは比較にならないほど大人びた子だ。


「二人は話すのが初めてだったね」


 タニイが私とナルメルを交互に見てからそう言った。

 顔を合わせるのは、婚礼の日にアトラーから紹介されて以来だ。言葉を交わすことは今回が初めてになる。


「もう旦那から聞いていると思うけれど、この子は天才だよ。理解が深いから教えるのがとても上手い。それに性格もいいと来ている。将来が楽しみだよ。最高の人選だ」


 タニイがこれほどまでに褒め称えるのだから、本当に素晴らしい才能を持っているのだろう。

 褒められたナルメルは、「買い被りすぎです」と言いながらも、少し驚いたようにタニイを見た。


「タニイ殿は、王妃様にその口調なのですか」

「私とティイは友達なんだ。一緒に過ごしている時間はファラオより長いよ」


 あっけらかんと言い放つタニイに、ナルメルは小さく苦笑した。


「その口調ではメレス殿に叱られそうですね」

「もちろん叱られる。だからメレスがいない時だけこの口調なんだ。ティイもこれを望んでくれたから」


 タニイの気さくな物言いに、ナルメルがまた上品にくすくすと笑った。


「時間には限りがあるからね。さあ、始めよう」


 タニイに促され、私たちは卓を挟んで向かい合って座った。そこにはタニイが同席して、近くにはラジヤと数人の侍女が控え、時折、様子を確かめにメレスが顔を出した。


「最近の我が国の情勢を学ぶには、まず……こちらから」


 そう言って、ナルメルは抱えていたパピルスの一つを卓に広げた。

 ナルメルは次々とパピルスを広げ、現在の国家財政や諸外国との交流について説明してくれた。複雑な数字や聞き慣れない地名がいくつも飛び交ったが、彼の解説は驚くほど分かりやすく整理されていた。一つの話を終えるたびに、それまでの内容を簡潔にまとめ、次の話へと繋げていく。私が少しでも疑問を口にすれば、何が分からないのかをすぐに察し、必要な部分だけを噛み砕いて説明してくれる。

 まるで頭の中に、この国の膨大な記録がすべて整理されて収まっているかのようだった。


 また、この国では公共事業として、多くの工事や神殿の建設が行われていることを知った。

 普段は農業などに従事している人々も、ナイルの増水によって農作業のできない時期にはこうした工事に参加し、働いた分の報酬として食料や酒などを受け取って帰る。

 そうした仕組みがあるからこそ、この国では一年を通して、どこかで何かしらの建設が進められている。

 きっと民にとっては当たり前のことなのだろう。そんなことすら、私は何も知らずに生きてきたのだ。


「ヌビアで採掘された黄金を運び、それを加工して他国へ送っているのね。黄金を用いた外交が、かなり重視されている……」


 資料を見ながら顎に手を当てて呟くと、ナルメルは嬉しそうに頷いた。


「我が国の黄金加工技術は、他に類を見ないほどに高いのです。黄金そのものを欲しがる国もありますが、それ以上に、我が国でしか作れない品を求める国も多い。だからこそ、交易を望んで競うように親書を送ってくるのです」


 整った顔立ちに優しい笑みを浮かべ、淡々と、温かみのある声で応じる。その立ち振る舞いにはどこか大人びた品格があった。


「それから……こちらは現在、我々が懸念しているヒッタイトの情報です」


 ヒッタイト。エジプトの北方に位置する国の名だ。

 現在の王はトゥドハリヤ。

 北方地域の覇権は大国ミタンニが握っており、我が国もミタンニの王女を王の側室に迎え、黄金をはじめとする贈答品を送り合うことで、『平和な外交』を維持している。

 ミタンニがあまりに大きいため、ヒッタイトの存在を気に留めたことはほとんどなかった。私の認識では、遥か遠くにある小国にすぎない。


「ヒッタイトは現在、絶望的な苦境に立たされています」


 苦境と聞いて、眉を寄せた。


「北からは宿敵であるカシュカ族が侵入し、西ではアルザワ国が勢力を広げています。さらに東と南からは、ミタンニ国とイスワ国が圧力をかけている。王都ハトゥシャさえ脅かされ、いつ滅びてもおかしくないほど追い詰められているのです」


 あまりにも穏やかに語られる内容に、かえって背筋が冷たくなる。

 今のエジプトがあまりに平和だからこそ、そう遠くない場所で国そのものが崩れようとしていることに、現実味を持てなかった。

 婚礼には、多くの国々から使者が訪れていた。ヒッタイト、アルザワ、ミタンニ、イスワ――今名前が挙がった国々からも来ていたはずだ。


「ここで問題が生じます」


 ナルメルが一枚のパピルスを指で示す。


「国が滅びるということは、そこに暮らしていた人々が行き場を失うということです」

「……故郷を追われる人々が出るのね」


 ナルメルが頷く。


「行き場を失った者たちは、より安全で豊かな土地へ流れていきます。北方の諸都市や我が国の支配地へ押し寄せれば、我が国も無関係ではいられません」

「多くの人々が流れ込めば、治安も乱れる……」

「その通りです」


 ナルメルは静かに頷いた。


「だからこそ、その受け入れをどうするのか。どこへ住まわせるのか。食糧をどう確保するのか。そして、彼らが国内でどのような影響を及ぼすのか。そこまで考える必要があります。それも、最近の政務で議論されていることの一つです」


 国を治めるということが、ただ目の前の問題を解決するだけではないのだと改めて思い知らされる。

 一つの国で起きた出来事が、海を隔てたエジプトにまで影響を及ぼす。

 知らなかった。知らないことばかりだ。

 それでも知ることによって明確になることがある。自分なりの考えや対策を提示できるようになれば、アトラーの役に立てるかもしれない。



 一通りの解説が終わり、講義がひと段落したところで、私はラジヤに頼んで冷えた果汁の入った杯を彼に勧めた。

 恐縮です、と言いながら、彼は丁寧な仕草で口に含む。

 その隣では、タニイが懸命にナルメルが持ってきてくれた大量の議事録を写してくれていた。


「タニイ、全部写さなくてもいいのよ」

「今のうちにやらなくちゃ。なかなか持ち出せない貴重なものだからね。ほとんど国家機密だ」


 面白いのだと彼女は楽しそうに笑っている。

 私も写し終えた議事録に目を通し、先ほどナルメルから聞いた話をもう一度頭の中で整理していく。

 すると、不意にナルメルが口を開いた。


「……一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」

「もちろん」


 ナルメルは少しだけ迷うように視線を伏せていたが、やがて杯を置いて意を決したように私を見る。


「……なんとなく、ファラオが王妃様を政務の場に出そうと思われたお気持ちが分かった気がします」


 思いがけない言葉に小首を傾げると、ナルメルは穏やかな眼差しで言葉を重ねた。


「王妃様は、とても聡明でいらっしゃいます。飲み込みが早いだけでなく、分からないことをそのままにせず、相手の話をよく聞いたうえで、ご自身の中で考え直す柔軟さをお持ちです」


 そうだろう、とラジヤが大きく頷くのを見た。


「私はファラオが王妃様に政務の場での発言を許すというお話を聞いて少し心配していたのです」


 彼の率直な吐露に、傍らで写本の手を止めたタニイも、静かにナルメルの言葉に耳を傾けた。


「政務の場には、これほどまでに優秀なタニイ殿が発言するのをあまり良く思わない者たちがおります。参加することすら許さない……この国では長い間、国の政を男たちが担ってきました。女性が政治に関わることを当然とは考えない方も、まだ多くいらっしゃいます。だから……王妃様が政務に出られたら、心ない者たちからあまり良くない目で見られるのではないかと」


 ナルメルはそこまで言うと、ふっと安堵したような、誇らしげな笑みを浮かべた。


「ですが、今日お話しして分かりました。そのような者たちの偏見さえ、王妃様ならばいずれ覆してしまわれるでしょう」


 彼はタニイにも視線を向けた。


「これで王妃様が政務に出ることが当たり前になれば……タニイ殿のような優秀な女性たちが政に関わることが当たり前になるかもしれない。もしそうなれば、この国にとってどれほど素晴らしいことでしょう」


 語る彼の言葉には、十三歳の少年とは思えないほどの深い洞察と、この国を良くしたいという熱意が宿っていた。


「心配してくれていたのね。ありがとう」


 お礼を言うと、彼は少しだけ頬を赤らめた。

 アトラーはこんなに素晴らしい子を見つけてきたのだと感心して、タニイに視線を投げると、彼女は「すごい子だろう?」と言いたげに微笑んだ。


「ナルメル、ティイに惚れちゃ駄目だよ」


 タニイから何気なく投げられた言葉に、ナルメルはぎょっとする。


「そ、そんな、ファラオに叱られます……!」


 慌てた様子に侍女たちの小さな笑い声が響いた。





 昼食を用意しようと侍女たちが下がり、タニイが墨を追加で持ってくると言って席を離れ、部屋には私とナルメル、ラジヤだけが残った。


「ナルメルはテーベの出身?」


 尋ねると、そうです、と返事が返ってくる。


「貴族の端くれです。王家にお仕えすることを志し、書記官になりました。ファラオがまだ王子でいらした頃に、側近に取り立てていただいたのです」

「私の兄もそうだけれど、その年で書記官に選ばれるのは、とても珍しいことでしょう?それも王族の側近に抜擢されるなんて、きっと勉強をものすごく頑張ったのね。尊敬するわ」

「いえ……アネン殿ほどでは」


 素直な感心を口にすると、照れくさそうに身を小さくした。その瞬間だけは、年相応の少年の愛らしさが覗く。


「王妃様は勉学を好まれるのですね」

「好きよ。学ぶことは楽しいもの」

「女性が勉学をするのを良く思わない方も、今はまだ多いですから……王妃様も大変だったのでしょう」


 ふとナルメルの瞳に落ちたわずかな同情の色に、私はくすりと笑って首を振った。


「そうね……でも内緒で父の部屋に忍び込んで自力で学んでいたのだけれど、あの緊張感も捨てたものじゃなかったわ」

「……それは、なかなかに大胆な学習法ですね」


 私の告白に目を丸くしたナルメルは、堪えきれないといった様子で口元を綻ばせた。


「ファラオには感謝してもしきれません。私のような子供を見出して、側近に置いて下さった」

「そうね……私もいくら感謝しても足りないくらいなの」


 彼に出会えていなかったら、私はどんな人生を歩んでいたのだろうと時々考える。

 少なくともこんな風に学べる機会はなかったはずだ。


「自分のすべてをかけて、ファラオのお力になりたいと思っています」

「私たちは同志ね」

「もったいないお言葉です」


 ナルメルの言葉には、アトラーに対する深い敬意と忠誠心が宿っていた。

 その真っ直ぐな言葉を聞いているうちに、胸の奥で長年くすぶっていた疑問がふと口をついて出た。


「でも……どうしてあの人は王子だった頃、あんなに酷い言われようだったのかしら」


 ナルメルが小さく首を傾げる。


「今はファラオとなって、しっかり政務をこなしているし、悪い噂はまったく聞かないわ。でも以前……私の父や父の従者たちは、あの人のことをあまりよく思っていなかったの。王子としての自覚がないって」


 父イウヤたちの苦々しい顔を思い出す。

 今は私が王宮に入ったこともあってあからさまに悪く言うことはないが、その前は「次期王となる身でありながら」とよく苦言を呈していた。

 ナルメルは少し悩んでから静かに語り始めた。


「多分それは、噂が歪んで広まったことでそう言われたのだと思います」

「歪んで?」

「ファラオは、よく開かれる宴をあまり良く思われておいでではありませんでした。時間の無駄だとおっしゃられて、ほとんど顔を出さなかったのです。出ても最初だけ……お父上に叱られて顔を出す程度でした」


 言われてみれば、私も参加していた王の宴にも、父王が病で出られない時ですら顔を出していなかった。それに対して怒っている貴族がいたことも覚えている。


「王宮での宴に参加するのも大事な役目だと言う方もいます。実際情報交換の場になったり、普段は関わる機会のない方々と接する場にもなり得るからです。だから、その場に次期王になるはずの王子が顔を見せないのはあり得ないと」

「それで、やる気がないという印象になったのね」


 私は深く納得した。私の父イウヤも、そういった宴の席や人脈づくりを何より大事にする人間だったからだ。


「しかし王子は、宴を避けて自室で怠けていたわけではありません。メレス殿にはよく叱られておいででしたが……その時間を使ってテーベの街へ出て、国の情勢をご自分の目で確かめておられたのです」


 そうだったのかと、納得する。

 事実が歪められ、悪い噂ばかりが広まってしまうことは、私自身も身に染みて知っている。

 だからこそ、じゃじゃ馬だと噂された私にも、偏見を持たず接してくれたのかもしれない。


「でももうそんなことは言わせません。ファラオはきっと、素晴らしい治世をお築きになります」


 彼の言葉には、揺るぎない確信があった。


「ファラオは、この国をいろいろと変えようとしていらっしゃる。私は、それを見てみたい」


 その横顔を見つめながら、私はふと、アトラーの姿を思い浮かべた。

 王になった今も、彼はきっと、誰にも見えないところで国の未来を見つめている。

 その隣に立つ私も、いつか同じ景色を見ることができるだろうか。

 知らなければならないことは、まだ山ほどある。それでも今日、その一歩を踏み出せた気がした。




 週に一回、こうしてナルメルが来て講義をしてくれることになった。


「次も楽しみにしているわ」

「このご様子なら、王妃様が政務に参加される日も遠くありませんね」


 満足そうに微笑むナルメルをタニイが送り出そうとした、その時だった。

 彼は離れの扉の前に立っていたラジヤの姿を目に留めると、思い出したようにふと足を止めた。


「そういえばラジヤ殿」


 急に名を呼ばれ、ラジヤが驚いたように背筋を伸ばして返事をする。


「ニアンが、次はいつ会えるのかと気にしていましたよ」


 その一言が出た瞬間、ラジヤの頬がぽっと赤く染まった。

 それを見逃さなかった周りの侍女たちが、一斉に色めき立つ。


「ラジヤ、あの堅物のニアンと!? いつの間に!?」

「ち、違います! そんなんじゃないです……!」

「でもあの記念スカラベ、ニアン殿からもらったって……」

「もらっただけです!」


 真っ赤になって、慌てて両手を振りながら否定するラジヤだったが、一度火のついた侍女たちの追求は止まらず、すっかり盛り上がってしまっている。私も驚きながらも、今度ゆっくり話を聞いてみようと心に決めた。


 その賑やかな大騒ぎをぽかんと眺めていたナルメルが、眉を八の字にして少し困ったように首を傾げた。


「あれ……?もしかして余計なことを言っちゃいましたかね」

「いいえ、とても良いことを聞いたわ」


 私がそう答えると、タニイと目が合った。タニイは堪えきれないように吹き出し、私もつられて笑ってしまう。

 目まぐるしく変わっていく日々の中で、この温かく穏やかな光景がずっと続いてほしい――そう強く願いながら、私は皆とともに笑っていた。



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