野心
人はなぜ、生を賜るのか。
なぜ風は吹き、ナイルは氾濫し、なぜ朝が来て夜が訪れるのか。
なぜ作物は実り、雨は大地を潤し、なぜ太陽は我らを照らし続けるのか。
なぜ我らは生き、なぜ死して神々の御許へ赴き、再び永遠の命を与えられるのか。
それはすべて神々の御業である。
東の空に朝日が昇るのは、太陽神ラーが夜の冥界を渡り、混沌の大蛇アペプとの戦いを乗り越えて再び黄金の船を現すからである。姿なき風が頬を撫でるのは、神アメンの息吹ゆえ。黒き大地を潤すナイルの恵みもまた、神々の慈悲なくしては訪れない。
命を育む母なるイシス、死者を迎え入れる冥府の王オシリス、王権を守護するホルス、言葉と記録と叡智を司るトト。真実と秩序を量る女神マアト、戦いに勝利をもたらす女神セクメト、家庭と安産を見守る慈愛の女神タウエレト、幼子を病や災いから守るベス。
この世界には、あらゆる営みを見守る神々がいる。
我らは神々によって生かされ、試され、そして導かれている。
だからこそ人は祈る。
生まれた子の健やかな成長を願い、旅立つ者の無事を願い、豊かな実りを願い、死後にはオシリスの御前で正しき裁きを受け、永遠の命を得られるよう願う。
神々を敬い、その秩序に従って生きること。それこそが黒き大地に生きる者の務めであり、神官である自分はその教えを疑ったことがない。何より誇らしかった。
そして王家とは、そうした神々に連なる尊き血脈。
──その系譜に、我が妹の名が加わろうとしていた。
妹が王子の隣に立っていた。
神々へ王族の婚姻を告げる最高神官の前で、神の色とされる黄金を身に纏った妹が静かに顔を上げている。
香の煙が神殿内を満たし、柱の隙間から差し込む太陽の光が白く揺らめきながら辺りへ散った。朝陽に照らされた黄金の装飾が眩く輝き、神殿を支える巨大な列柱の影が長く床へ落ちる。神々へ捧げられた香の匂いと祈りの声に満たされたその空間は、まるで現世と神々の領域の境界が曖昧になったかのようだった。
ここは神々の御前であり、人が最も神に近づく場所である。天高く聳える神殿の奥、その神秘に満ちた空間で、王子アメンホテプ・ヘカワセトの婚儀が執り行われていた。
つい昨日まで、馬に跨り、剣を振るい、父を嘆かせていた妹が、今や王子の正妃となろうとしている。親兄弟の誰とも似ない淡褐色の瞳は、不思議と王家の装いに馴染んで見えた。
王子の側近ではなく親族として参列している兄は穏やかに目を細め、その隣に立つ父の横顔には隠し切れぬ誇らしさが滲んでいた。
神々に連なる王家の系譜に、我ら一族の娘が加わる。それを祝福と呼ばずして、何と呼ぶのだろう。
側室に召し上げられただけでは決して執り行われなかったであろう、盛大な王族の婚儀。 血を分けた実妹が王家の妃となる瞬間を、神官たちが並ぶ最前列で噛みしめるように見守った。
こうして厳粛に執り行われた王家の婚儀は、丸一日かけて無事終わり、いつの間にか王子を心底惚れさせていた妹は、前代未聞の「王家の血を引かぬ者として初めて迎えられた妃」となった。
勿論、この婚儀も最初から異論なく決まったわけではなかった。
軍事司令官イウヤの娘を正妃に迎えるという王子の意向に対し、臣下たちの間では様々な議論が巻き起こった。
王家以外の娘に正妃の称号を与えるなど、長い歴史の中でも前例のないことだったからだ。
伝統を重んじる者は慣例を破ることに反対し、またある者は、イウヤの娘を正妃とすることで軍事側の発言力が強まり過ぎるのではないかと懸念を示した。
だが、王子も父もその程度の反発は予想していたらしい。
王子は宰相と共に、現在王家に正妃となるべき女性が存在しないこと、そしてティイが王家に劣らぬ歴史を持つ家柄の出身であることを理由に挙げ、正妃に迎えることに問題はないと言い切った。
父もまた、自らが王子の義父となったとしても軍事以外の政に関与するつもりはないと明言した上で、現在は神官勢力の影響力が軍事を上回っている以上、この婚姻はむしろ両者の均衡を保つことに繋がるのではないかと主張した。
それらの発言によって、一週間ほど続いた議論は徐々に収束へ向かっていった。これは自分が予想していたよりも遥かに早い展開だった。
この理由は明らかだ。
臣下の誰もが案じていたのは世継ぎのことだ。
王子は二十歳を迎えてなお子を持たず、臣下たちが慌てて迎え入れさせた側室たちのもとへもほとんど足を運ばない。更にはテーベ随一の美女と名高いヘルネイトにすら興味を示さないときている。
その王子が初めて自ら望んだ女性がティイだった。
王子が初めて女性を求めたという事実は、それだけで世継ぎ誕生への希望を抱かせるに十分だった。
臣下たちにとっては、民間の娘を正妃に迎えるという前例のない問題よりも、王家の血を継ぐ新たな御子の誕生の方が遥かに重要だったのだ。
だからこそ、今回ティイは正妃として受け入れられたのである。
最初から側室ならば反対は起きなかっただろうに、わざわざ一人の女のために余計な仕事を増やすなど、自分には到底真似のできることではないと半ば呆れながら思った。
惚れただだけの女ならば側室にしておけばいいものを、王子はティイを妃にするべく奔走した。
それはおそらくティイのためだと兄アネンは推測している。
王子の側室は今や五十人近くにのぼる。王子はその誰にも特別な立場を与えなかった。だからこそティイを彼女たちとは一線を画す存在として扱い、誰の目にも分かる形で示したかったのではないか。それほどまでに特別な存在なのだと知らしめるために。
こうしてティイは生まれ育ったムノを離れ、テーベの王宮へ入り、王子の正妃として迎えられた。
婚儀の内容を刻んだスカラベは各地へ送られ、その知らせはナイルの流れに乗るように瞬く間に国中へ広がって皆の知るところとなった。
この婚姻により、それまでテーベから遠く離れたムノを治める貴族に過ぎなかった我ら一族の名もまた、人々の口に上ることとなった。
「めでたい。まことにめでたい」
婚儀から五日後、ムノへ戻った父は盛大な宴を催し、息子たちや親族を集めて酒を酌み交わした。
王宮から下賜された葡萄酒を浴びるように飲み、赤らんだ顔で何度も「めでたい」と繰り返している。
最初は母も席を共にしていたが、アネンからティイの近況を聞いて安堵したのか、早めに休むと言って奥へ下がった。親族たちもそれぞれの部屋へ引き上げていき、深夜には父と兄、そして自分だけが残されていた。
夜も更けた広間には幾つかの灯火だけが揺れている。 手元の杯に目を落とせば、葡萄酒の紫色が灯火を映して微かに煌めいていた。
「王子のご様子はどうだ、アネン」
呂律も怪しくなってきた父が兄に尋ねた。
「意欲的に政務に励んでおります」
兄の返答に、父は嬉しそうに大きく何度も頷いた。
あれほど王子を快く思っていなかったはずなのに、今ではすっかり王子贔屓だ。娘が正妃となれば抱いていた不満など忘れてしまうらしい。人というものは存外単純な生き物である。
「政務後はティイのもとで過ごしているようです。ティイも幸せそうで、王子の隣でよく笑っています」
王子は婚儀を挙げてからというもの、真面目に政務に取り組み、毎日のようにティイのもとへ通っているという。
多くの側室を持ちながら今まで一向に通うことがなかったため、足繁くティイの元へ赴く王子の姿に、王宮の皆は妃の懐妊もすぐなのではと囁き合っていた。
「アネンが王子の側近であれば安泰だ」
そう言われて兄は穏やかに笑む。ティイの輿入れに戸惑いを見せていた兄だが、今ではその表情に陰りはなかった。
「それにしてもだ、あの神官との縁談が破談になっていて良かった」
神殿を追放された、あの落ち窪んだ小さな目の男を思い出す。
父が言うのは、ティイが殴って破棄になった縁談のことだ。まだ数か月前の出来事だというのに、今では遠い昔のことのように思えた。
「あの話が進んでいればティイが王子の妃になることはなかったかもしれぬ」
父が時間神官の息子とティイの縁談を進めていたのは、神殿側との結びつきを強めるためだったが、ティイが王家へ嫁いだ今、神殿側とこれ以上縁を深める必要はない。
何しろ相手は王家。我ら一族は、この国で最も強大な後ろ盾を得たのだ。
「妃に選ばれるほどのティイを妾にならと言ったのだぞ。身分剥奪されていい気味だ」
そうですね、と兄は穏やかに頷く。
「ティイに無礼を働いて傷つけたこと、私はまだ許していません」
アネンは微笑みを湛えはいたが、目が笑っていなかった。何処かで会いでもしたら、笑顔で殴りかかりそうだ。
未だに心底怒っているのだと分かって小さく溜息を吐く。長兄にとってティイは、昔から目に入れても痛くない存在なのだ。だからこれでもかと妹に甘い。
「あとはティイが王子の御子を身籠れば、これほど嬉しいことはない」
父は大層上機嫌だ。
ティイが王子の子を産めば、その御子は次代の王となる可能性を最も強く持つ。その祖父となれるのだから、ティイの懐妊は我が一族にとっても待ち遠しいことだった。
「父上、あまりティイにそういうことを言ってはいけませんよ。焦ると良いことはありませんから」
アネンが困り顔で告げた。アネンもこの前第一子の男児が生まれたばかりだ。それまで父にかなり急かされていたと言う。
分かっている、と父は赤い顔で頷いた。
「勿論、今すぐにはと言わぬ。案ずるな」
もっともその期待は父だけのものではなかった。誰もが王子の第一子の誕生を待ち望んでいる。
「アイはあまり嬉しそうではないな」
唐突に兄に話を振られて、手元から顔を上げると、父と兄がこちらを見ていた。咄嗟に「いや」と答える。
「あのティイを妃に望まれるとは、王子は随分と変わった御方だと思っただけだ」
自分の杯に注がれた酒を眺めて、正直な意見を零した。
「それも正妃にとは。それほどあのティイが気に入ったのか」
あれのどこがいいのか。
思い出す妹の姿と言えば、こちらの両頬を両手でつねって、こちらも負けじと両頬をひっぱって伸びきった阿呆面だ。馬に跨って泥だらけになっていた幼少期など目も当てられない。
それを聞いた兄は軽く肩を揺らした。
「アイ、兄の私が言うのも何だが、ティイは綺麗な娘だよ。あのヘルネイトにすら引けを取らない」
それはそうだが、と言い淀んだ。
妹は美人だ。だが、それで覆い隠せないほどの好奇心と男勝りな一面があって、本来ならすでにどこかへ嫁いでいてもおかしくない年齢だというのに、その奔放さばかりが噂となってつい最近まで貰い手がいなかったのだ。
父がいくら娘をムノの屋敷で大切に育て、人前へ出さないようにしていたところで、噂というものは勝手に大げさになって広がる。まして軍事司令官イウヤの娘ともなれば、王子の耳に届いていないはずがない。その噂を知った上で、王子はティイと会い、そしてティイを選んだ。
王子がこの国の女を誰も傍に置いていなかったことから、選ばれるとしたらヘルネイトだと言われていただけに、ティイが正妃に迎えられた時の周囲の驚きは大きかった。
ヘルネイトは今頃どうしているのか。最近は父親について王宮に来ることもめっきり減って、顔を合わせる機会も無かった。
もっとも、どうしていようと自分には関係のない話なのだが。
「あとはペネフがどう動くかだな」
父は最高神官の動きを警戒しているようだった。
現ファラオと父の功績で今や国は安定し、大きな戦は起こっていない。その代わり神官側が力を持ってきているのが現状だ。
王子が妹を望んだのは、妹の人柄もあるのだろうが、軍事司令官イウヤとの繋がりを確実なものとして神官の勢力に対抗するためだろう。
妹は、王子が我が一族に利用されるのではないかと心配しているようだが、おそらくそうはならない。
あの王子は変わり者だ。みすみす利用される立場に陥るとは考えにくい。
今回の婚姻も、ティイを初の民間からの正妃にしたことも、他に何か考えがあってのことなのだ。
決して自分とは気が合わないと思えるあの王子。
同じ変わり者のティイを妻として、王となった時一体どこへ国を導くつもりなのか。
勢力を増し続ける神官たちを、どう扱うつもりなのか。
そして、その神官側に身を置く自分は、その時どこに立っているのだろうか。
「アネン」
不意に父の声に意識が戻された。
「お前はこれからも王子の傍に仕え、ティイの様子を私に逐一報告するように」
兄の短くはっきりとした返事が広間の暗がりに響く。
「アイ、お前は神殿側の動きを見張り、何かあれば私に報告せよ」
反射的に、兄と同じように返事をする。
父も兄も王子の近くにいる。だが、自分だけは神殿側だ。近いうちに父や兄と同じ側に行きたいとは思うが、神殿側から完全に手を引くことは父が許さないだろう。
そもそも王子はあまり自分のことを良く思っていない気がするのも事実だ。
アネンによれば王子は自分の傍に仕える者たちを自ら選出していると聞いた。
アネンが呼ばれて、いくら経っても自分が呼ばれないとなれば、それは王子の意向なのだ。
ならば、兄とは別の出世の道を考えてみる。
──軍部。
父は我が国軍部の頂点に立つ男だ。王家の官職は世襲ではないが、功績を挙げればそれなりの地位には就けるだろう。
しかし、残念なことに自分は兄と同じく軍部には向いていないのだ。それを知ってか、父は軍部に入るよう自分に強制してきたことはなかった。
結局、今も何とかやれている神職が一番自分に合っているのは認めざるを得ない。
だが、自分の出世はどうなるのか。ただでさえ兄に遅れを取っているのに、自分には昇進の道が見えていない。
目の前で談笑している父と兄を眺める。
この二人は、自分の焦りなど知る由もないのだ。
このムノの土地もどうせ兄が継ぐのだろう。では自分には何が残るのか。
最早、自分もまた一族のために生きる駒なのだ。
父の思惑どおりに動いたところで、自分の望む未来が手に入るとは思えない。
気の合わない王子だとしても、実妹が正妃となった今、その血族を無下にはできない。兄という立場を利用すれば、それなりの地位までは辿り着けるだろう。
いや、そこから更に上へ。
兄よりも、父よりも上へ。
自分の手を見つめた。
この手で。
自分で、切り開くのだ。
今までだって、誰の力でもない。自分でここまで来た。
目指す──何を。
神職の「頂点」。
最高神官──王族と並び立ち、誰よりも神々に近い者。
突如自分の中に沸き立った何かに息を呑む。
一族のためではない。兄のためでも、父のためでもない。自分自身のためだ。
いつなれるかは分からない。関門がいくつもあるだろう。途方もない道のようにも思える。
だが自分なら、出来ないことではない。これしかない。そんな自信が不思議と湧いて出てくるのだ。
神職頂点の座を、この手で掴み取る。
これは、父にも兄にも決して明かすことのない、己だけの野心だ。
「イウヤ様!」
唐突に広間へ駆けてきたのは父の側近だった。
息を切らし、血相を変えている。その様子は、どこかで反乱でも起きたのではないかと思わせるほど切迫していた。
「何事だ。騒々しい」
父は眉間に皺を寄せ、杯を置いて側近を見やった。
「王宮より使者がお見えです!」
「王宮から?こんな夜更けに?」
相当急ぎの用件なのだ。
妹に何かあったか。それとも反乱が起きたか。
父と兄とともに自然と息を呑む。
「夜分遅くに失礼いたします。イウヤ殿」
側近の後ろから、王家の使者が一歩進み出て恭しく頭を垂れた。
「本日朝方──」
一瞬の静寂が広間を包む。
「ファラオが身罷られました」
メンケペルウラー崩御。
それは、一つの時代の終わりを告げる知らせだった。




