千載一遇
兄は、いつだって自分の前を歩いていた。
物心つく頃には、兄は既に父の優秀な息子として存在していた。幼い時分から聞き分けがよく、人当たりも柔らかい。長身で容姿もそれなり、勉学にも武術にも優れ、父は事あるごとに兄を褒めていた。父の部下たちもまた、「アネン殿がムノの地を継がれるならば安泰だ」と口を揃えていたのを覚えている。
自分も兄のようになりたい──いや、兄よりもさらに上へ。
いつしかそう思うようになっていたが、どれほど努力しても兄の後を追うことしかできなかった。それは昔から変わらない。
今となっては、最初に兄に抱いた感情は嫉妬だったように思う。
自分が何かを成し遂げても、それは既に兄が歩いた道に過ぎず、ようやく同じ場所へ辿り着いたと思っても、兄は更に先へ進んで新たな賞賛を集めている。五つの歳の差を思えば当然のことではあったが、それでも常に先を行く兄の背中は、自分に劣等感を抱かせるには十分だった。
しかし兄は、その感情すら抱くことを躊躇わせるほど穏やかな人間だった。弟や妹を心底可愛がり、決して驕らず、誰に対しても誠実だった。
それを知ってか知らずか、母はよく俺に「アイはアイのままでいいのよ。アネンを目指す必要はないの」と言っていた。だがそれは裏を返せば、自分はアネンにはなれないということでもあり、当時の自分には兄との隔たりを突きつけられているようにしか思えなかった。
兄は十代でテーベに赴き、まず父について軍部に入った。
当時起きていた南方の街の反乱の鎮圧を兄の策で成し遂げて名を上げた。そのまま軍部に残る話が出ながらも、争いを好まぬ性格を見越してか、父は兄を神官見習いとして神殿へ入れた。親の威光によるものだと陰口を叩く者もいたが、兄は程なくして、そうした声を黙らせるだけの働きを見せた。神官見習いとして奉仕していたのも短期間で、すぐに朗誦神官として取り立てられた。所謂神殿の書記官である。
ムートと親しくなったのもその頃だと聞いている。兄は昔から面倒見の良い男だった。それは神殿に入っても変わらず、自分より後から入ってきた後輩たちにも分け隔てなく接し、多くの者から慕われていたという。その恩義の延長なのか、ムートは今でも兄ではなく俺の世話まで焼こうとするのだ。
自分が神官見習いとなって神殿に入った頃には、兄は既に王家の書記官として宰相に取り立てられていた。今では王子の傍に侍り、毎日のように行われる議会で政に言及することも許されているという。もとより書記官を志していた兄にとって、それは望み通りの道だった。神官から書記官へと引き抜かれること自体が珍しい。まして王子の側近にまでなった者など、そう多くはなかった。
そして兄の後を追うように神殿へ入った自分は、結局ここでも比較され続けた。
「お前の兄には世話になった」
「お前の兄は実に優秀だった」
「お前の兄は引く手数多でどこの高官も手元に欲しがっているそうだ」
誰と顔を合わせても聞かされるのはそんな言葉ばかり。
もう、うんざりだ。
兄のように見出されさえすれば。宰相や王子の目に留まりさえすれば、兄をも越える働きができるというのに。
誰かに見出してもらうために、歯を食いしばりながら人脈を築き、父へ情報を流し、勉学にも励んできた。女を使い、汚れ役も引き受け、兄なら決して選ばぬ手段も取った。
その努力が実を結び、最年少で最高神官の側近に選出された頃、初めて最高神官に伴われて王族の御前へ出る機会を得た。毎日のように神官たちが執り行うアメン神への祭儀に、王自ら臨席する日だった。
父に伴われて出席した宴でも、王族は遠くから拝するだけの存在だった。
我が国の王家は神々に連なる尊き血脈であり、ファラオは神々の意思を地上に示す存在。我ら神官が神々に仕えるように、王族もまた神々の加護の下にある。
そんな存在が今まさに神殿へ足を運び、我らの祈りに耳を傾けているのだ。自分の仕事に誇らしさを感じた。
「ペネフは新たな側近を得たのか」
神々への祝福の言葉を並べ終えた最高神官に声をかけたのはファラオだった。
深く、ゆったりとしたこの国を統べる王の声に、最高神官以外の神官たちは傅いて耳を傾けている。
「随分若い側近と見える」
最高神官の側近は八人ほどいるが、その中で一番若いのは自分だ。王は、俺のことを言っているのだとすぐに分かった。
まさか王が自分に言及するとは思っておらず 、抑えきれぬ高揚が胸を満たした。
「軍事司令官イウヤ殿の次男です。良い働きをする者です」
最高神官はこちらを示してファラオに告げた。
「おお、イウヤの。それは良い。あそこの息子たちは優秀だと聞く」
朗らかな王の口調。息子《《たち》》ということは、アネンだけではなく、自分の存在も王の耳に届いているのだ。
王が己に関心を向けている。最高神官が王に自分の名を伝えている。
うまく立ち回れば兄のように見出されるかもしれない。父のように王の信頼を得られるかもしれない。
そしてその先には、常に自分の前を歩いていた兄の背中がある。初めてそれを追い越せるかもしれない。初めて父に、自分だけを見てもらえるかもしれない。
「息子よ、そうであろう?」
王が息子と呼ぶ相手。それは王の一歩後ろに立つ王子のことだ。
「ええ、アネンは良い指摘をしてくれます」
そう答える王子がどういった人物か、よく知らなかった。
王族が催す宴で王子を見かけることはあっても、王子は最初だけ顔を出してすぐ奥へ戻ってしまうため、まともに印象を抱くほどではなかった。
父の話によれば、王子は王族らしからぬ振る舞いばかりして周囲を困らせているらしく、父もまた良い印象は抱いていないようだった。
周囲の評価も概ね同じだ。顔立ちと血筋は申し分ない。だが王族としての自覚に欠ける。それが、王子に対するおおよその評価だった。
その程度の王子ならば、取り入ることも難しくない。
王子に気に入られれば、兄を追い越すこともできる。
そう、考えていた。
「名は何と言う。顔を見せてみよ」
王に促され、跪いたまま顔を上げた。
「……アイと」
一秒がとても長く感じる瞬間だった。口内がひどく乾いていた。
「アイと申します」
己の名を答えながら顔を上げて初めて間近で王子の姿を目にした瞬間――今まで抱いていた野心は呆気なく砕け散った。
この王子とは、決して相容れない。
一目見た瞬間、そう確信したからだ。
人は、初対面で相容れぬと悟ることがある。まさにそれだった。
「これは美しい顔立ちだな。イウヤとはあまり似ていない」
王は俺の顔を見るなり、緩やかに笑った。聞き慣れた台詞だった。
「確かにそうですね」
こちらを見下ろして父親に返答する王子は、話に聞いていた人物像とはまるで違った。
確かに飄々としている。だがその眼差しには一瞬たりとも油断を許さぬ鋭さがあった。決して感情を表に出さぬ仮面を被り、何を考えているのか容易には悟らせない。こちらの内側を見透かされそうな居心地の悪さがあった。
そしてどうやら、王子もまた同じ印象をこちらに対して抱いたらしい。
イウヤの息子であり、アネンの弟として自分を認識した王子は、こちらを一瞥すると静かに言った。
「父や兄とは、随分異なる人間のようだ」
その呟くように放たれた小さな一言は、この王子の下で働く未来はないと悟るには十分すぎる言葉だった。少なくとも、これから傍に召し抱えようとする者へ向ける言葉ではなかった。
「良い働きを期待している」
そのまま王と王子は臣下や側近たちを伴い、我らの前を過ぎて神殿から去っていった。
自分の前を多くの足音が過ぎていく。その中に兄の足音もあるに違いなかった。
王族の傍らを歩き、その言葉に耳を傾け、政に携わる者たち。自分がそこへ加わることはないのだと、胸の奥に重いものが沈んだ。
そうして、今も兄は自分の前を行く。
ティイを見送り、太陽がテーベの街をこれでもかと黄金に染め上げる頃、王宮へと辿り着いた。
王宮の敷地内で馬を降りると、馬番が手綱を引き取り、兵たちがずらりと並ぶ長い階段を兄の後について上っていく。
昼の王宮は夜とはまるで趣が異なっていた。白を基調とした建物は朝陽を浴び、眩いほどに輝いて見えた。
「アネン殿ではありませんか」
王宮に入れば、皆が兄の姿を見つけるなり、親し気に声をかけ、兄もそれに笑顔で返していく。
「アネン殿、おはようございます」
「先日のご助言、ありがとうございました」
「昨夜は大変でしたね。大丈夫でしたか」
本当に、誰からも慕われる男だ。
妹が王子の側室となるのだとしたら、自分が王子の側近として仕える未来もあるだろうかと、ぼんやり考える。
だが、すぐにその考えを打ち消した。あの王子は、側室の兄だからという理由で人を取り立てるような男ではない。
ならば自分が兄に勝てるものは何かと考えてみる。
不意に浮かんだ答えは、「顔」だった。思わず喉の奥で笑った。そんなものしか、自分は兄に勝てないのだ。
「アネン殿!」
聞いたことのある、明るい声にふと顔を上げた。
兄の肩越しに、王子の側近ウセルハトがこちらに向かって手を振っているのが見えた。あの妙にへらへらした、王子の乳兄弟という肩書きだけで側近に収まっている男。
「ウセルハト、父はどこへ」
傍に来た側近に兄が尋ねると、彼は「あちらです」と王宮の奥を指さした。
「父君は今、王子よりお話を賜っておいでです」
どんな話をされているだろうか。王子の側近になれる未来はなくとも、妹が王子の側室になれば、別な道も模索できる。
今回の妹の話は、自分の新たな道を切り開く好機にも感じていた。
「弟君もおいでなんですね」
ウセルハトは兄の後ろにいた自分にそう言って笑いかけてきた。
ほとんど話したこともない相手に大分馴れ馴れしく話すものだと呆れる。「いては悪いか」と返しかけたが、余計な一言は飲み込んだ。
「どうぞ、こちらへ」
兄とウセルハトが話しているのを後ろで聞きながら歩いた。
天気のことだったり、昨夜は大変だったという感想だったり、何とも中身のない会話だった。
歩いていくうちに一つの扉の前に辿り着く。
ここは謁見の間だ。外国の使者だったり、重要な人物との会話にここが用いられる。父がいるのはまさにここだった。
「もうすぐ話を終えて出てこられるはずです。こちらでお待ちを」
「ウセルハト」
隣から去ろうとする側近を兄が呼び止めた。きょとんとした顔で王子の側近は振り返る。
「どんな話が中でされているか知っているのか?」
まあ、と少し濁した返答が返ってくる。
「父君からぜひ直接聞いてみて下さい」
ウセルハトはいつもの人懐っこい笑みを浮かべて去っていった。
兄と並び、扉の前で父を待った。
ほんの僅かな時間であるはずだというのに、怖いほど長く感じる。 兄とはほとんど言葉を交わさなかった。
やがて「アイ」と兄が低く呼んだ。 重い扉がゆっくりと開いたのだ。
そこから現れた父に、兄と共に父に礼を示した。
扉が閉ざされる重い音を聞きつつ、咄嗟に父の表情を窺う。
落胆も絶望も見えない。むしろ高揚しているようにさえ見えた。だが、笑顔というにはどこか違っていた。 側室の話ではなかったのか。表情からでは王子との会話の内容が読み取れなかった。
「父上」
咄嗟に父に声をかけると、父の口がゆっくりと開いた。
「……アネン、アイ」
父の口元は少し震えている。兄との返事が重なる。
「王子殿下がティイを」
ティイを。妹を。
「我が娘を、正妃にお望みだ」
──正妃。
側室などではない。王子の、正妃。
息を飲んだ。
側室は想像していたが、正妃とは。
兄の違和感とはこれかと確信した。
王家以外の娘を正妃とするのであれば、それはおそらく騒動になり得ることだ。
そして、この話はもはや覆らないのだとも悟った。 自分たち一族に確固たる地位を約束する話であることもまた、疑いようがなかった。
「まさか……正妃とは本当ですか」
珍しく兄の声が揺れていた。 王家の血を引かぬ娘を正妃とするなど、聞いたことがない。穏やかな兄ですら動揺を隠せないほど、それは王家の在り方を揺るがしかねない話だった。
「父上は何と返答したのです」
慎重に、静かに兄は父に尋ねた。
「喜んで受けると」
当然だ。
「父上、恐れながら」
進言する兄の表情は深刻そのものだった。
「ティイはおそらく混乱します。先ほども見送ってきましたが、まだひどく動揺していました 」
この兄は何を言っているのか。
「ティイの話を聞いてから、お返事をなさった方がよろしいのではありませんか 」
我らに決定権などないに等しい。そして断る理由などない。
「アネン、何も案ずることはない。タニイ殿がティイも殿下に好意を抱いているとの話を聞いている。殿下とティイは相思相愛なのだ」
父は声を発すれば発するほど、現実を飲み込んでいるのか、その声音がより強いものへと変わっていった。
「ですが」
「兄上」
父を思いとどまらせようとする兄の言葉を遮った。
ここで父を止めて何になるというのか。王家からの要請を断ることは基本ありえない。ティイが正妃となることの何を憂う必要があるというのか。
「ティイに話したところで、父上が王家からの申し出を断ることなどあり得ない。今更何を確かめる必要がある」
「アイの言うとおりだ。これは千載一遇の好機なのだ」
父は俺の言葉に大きく頷き、なお何か言おうとする兄へ視線を向けた。
「さあ、息子たちよ」
兄は何か言いたげだったが、結局それ以上は口を開かなかった。
「これから忙しくなるぞ」
父はそう告げて我ら兄弟の肩を叩き、笑みを浮かべながら歩き出す。
その足取りは力強かった。




