朝焼け
侍医らが控える一室は、東側の奥にある。
本来王族の診療は王族のもとへ侍医が赴いて行うのだが、今回は事が事だけに直接侍医のところに王子が運び込まれたようだ。
夜の静寂に、自分の足音だけが長い廊下に響く。やがて目的の部屋の前に辿り着いて、呼吸を整えてそこを見据えた。王族の居室ではないため、その部屋の入口は華美な装飾はなく質素だ。だがその簡素な場所をこれでもかと屈強な衛兵が守り立つ光景は、かえって異様な緊張感を漂わせていた。
「軍事司令官イウヤの息子、最高神官の側近アイである。王子殿下が運び込まれたと聞き及び、最高神官ペネフ殿の補佐として参った」
名乗りを受けた衛兵たちが互いに目配せを交わし、軋みを殺すように重い扉を押し開くと、俺は息を整えてその先へと足を踏み入れた。
まず燭台の灯る細い通路が続いていた。そこを過ぎると空間が現れ、いくつかの大きめの明かりが灯された暗がりの中に、侍医と医官たち、最高神官と高官たち、王子の側近ウセルハトとヘルネイトの姿が見えた。彼らに囲まれて、部屋の中央に置かれた寝台に横たわっているのが王子だった。
決して広いとは言えない空間で、側近ウセルハトは終始おろおろとしており、ヘルネイトは王子に縋り付くようにして声をかけ、最高神官と高官たちは寝台から少し離れたところから深刻な面持ちで仰向けになっている王子を見つめていた。侍医が他の医官とともに指示を出し、女官たちが忙しなくあたりを行き来している。
最高神官がこの場に呼ばれるのは、万が一祈祷しか術がなくなった時に備えてなのだが、現時点で祈祷が行われていないとなると、王子はそこまで大それた怪我を負ったわけではないらしい。
空間全体の様子を見るに、状況は一旦落ち着いて、王子の様子を窺っているといったところだろう。
「アイ!」
入ってきた俺に最初に気付いたのはヘルネイトだった。美しい目元を吊り上げ、こちらにずんずんと進んできて目の前に来るなり形の良い口を開いた。
「あなたの妹、なんてことをしてくれたの!」
彼女は顔を真っ赤にして怒りを露わにしていた。最早殺気立っている。自分の想い人が他の女に殴られて怪我を負ったとなれば無理もないのだろうが、迂闊に声を掛ければ噛みつかれそうな気配すらあった。
「死罪だわ!あの野蛮な女の首をはねてしまえば良いのよ!そのままナイルに投げてセベクに食わせてやれば良い!」
「申し訳ございません」
淡々と膝を折って上司の娘に傅いた。
「謝って済む問題じゃない!」
だん、と床を踏み鳴らす音が響いた。威嚇するように叩きつけられた右足に、彼女の怒りが滲んでいた。
完全に怒りが振り切れている。彼女の足元へ視線を落としながら、場違いなほど冷静な頭でそう思った。
「田舎娘が一国の王子を殴るなんてあり得ない!」
本来なら彼女の言うとおりだ。王子を殴って失神させたとなれば、それは万死に値する。
そう。本来であれば。
だが、王子は自分の正体を隠してまで、宴にやってきたティイと繰り返し逢瀬を重ねていた。それが意味するところは──。
もっとも、真相を断じるにはまだ早い。王子が目を覚まし、ティイの置かれた状況を知った時、どのような反応を示すのか。それ次第だ。
「この部屋から出ていきなさいよ!妹の後始末をあなたがやるの!あの娘を捕まえて衛兵に差し出すのよ!」
「ヘルネイト」
今にもこちらを蹴り上げようとする娘を止めたのは彼女の父親だった。
「これ、ヘルネイト、控えなさい」
最高神官が、興奮している娘の肩に手を置いて宥めた。
「そういう言い方をするものではない」
「でもお父様!」
ヘルネイトは怯むことなく振り返って父親を睨みつける。
「一国の王子が殴られるなんて前代未聞だわ!あの女はとんでもないことをしたのよ!その兄がここにいるなんてあるまじき事だわ!早くここから追い出して!」
「アイは私の側近だ。ここにいるのはその役目を全うするためだ。落ち着きなさい」
父に窘められたものの、ヘルネイトは、ふん、と耳飾りを揺らしてそっぽを向き、再び王子の隣に戻り、床に膝をついてその手を握った。
「ヘカワセト、私ずっと待っていたのよ……!どうしてあの女といたの……!」
怒りの矛先が自分から逸れて小さく息を吐く。頭を上げてヘルネイトの背を眺めていると、自分こそが王子の側室に選ばれるのだという揺るぎない自負が見える気がした。
この女は自分のことを王家だとでも思っているのだろうか。王子に何の躊躇いもなく触れられるのは、この場ではおそらく彼女だけだ。こういう女を見ていると、その高い鼻をへし折ってやりたくなる。そんな娘に父親であるペネフは娘を窘めるどころか何も言わない。この父親もまた、娘が王子の側室として選ばれると信じて疑っていないのだろう。ほとほと娘に甘い上司だと思う。
いや、娘に甘いのは己の父イウヤも大概なのだが。
次に皆の姿の間から王子の様子を窺った。
未だ横たわる王子は、一国の王子とも思えぬ簡素な衣服を身に付けていた。今日は宴だったはずだ。なのにヘルネイトたちが待つ広間には顔を出さず、こんな格好で妹と会っていた。妹は王子の顔を知らない。名乗りすらしていなかったという。──何故。
妹に王子だと知られぬようにするためか。
「アイ、すまぬな」
ペネフが静かにそう告げた。
神々に祈念を届けるに相応しい静謐な声音だ。
「いえ。お怒りになるのも当然のことかと」
最高神官からの言葉に首を横に振って、その傍に膝をついた。王子の御前であるのだから、ここで一番下っ端の自分にはこの姿勢が適切だろう。
こちらの返答に頷いたペネフはそのまま娘の隣へ進んだ。
頭を丸めて、豪華な服装に身を包む最高神官ペネフは、己の上司だ。自分の勤めはこの人の補佐が主で、同時に父に神官側の動きを報告をしている。この役に自分を指名してくれたのもペネフ自身だった。
ヘルネイトを擁するペネフの一族は、数十年前に一族の娘を現ファラオの側室として送り込んで以来、揺るぎない地位を築いていた。
ペネフ自身は温厚な人物だが、その実、油断ならないしたたかさも秘めている。父が警戒するのも当然と思えるほど数多の神官たちを従え、アメン神派の頂点として絶大な影響力を持っていた。
そんな彼にとって唯一強く出られない存在が一人娘のヘルネイトだ。
娘を溺愛するあまり、彼女に望まれるまま「王子の側室に迎えてはどうか」と王家へ進言するほどである。最高神官ペネフにとって、ヘルネイトこそが唯一の弱点と言えた。
最高神官の娘を王子の側室に――その話は周囲も当然のように受け止めていた。誰も異を唱えないのは、現在神官勢力がそれほどまでに強い力を持っているからだ。
実際、国内外は安定しており、父が率いる軍部の出番は少ない。結果として、対を成す神官たちの権勢は年々強まりつつあった。
だからこそ父イウヤは、息子である自分を神官として送り込み、娘のティイを神官の息子へ嫁がせることで、神官側との結びつきを強めようとしていたのだ。
だが、イウヤの思惑を理解してなお、ペネフはイウヤの息子である自分を側近に置いた。それは内情を探らせようと無駄だと告げる、ペネフの余裕にも似た挑発のように思えた。
「あとは王子が目を覚まされるのを待ちましょう」
侍医が皆を宥めるように発した言葉に顔を上げる。
侍医と側近の話に耳を傾けると、ティイに殴られたらしい顎は赤くなっているが、王子は失神しただけで、それほど問題はないらしいと知った。
さほど時間が経たない間に父や兄、そして宰相を伴ってのティイへの詰問が始まったと知らせが来て、あとは殴られた本人からも話を聞かなければ、と話がまとまった時。
「ヘカワセト!ヘカワセト、しっかりして!」
ヘルネイトが大きな声を上げて王子を呼んだ。
どうやら彼女が握っていた王子の手が動いたらしいと知って息を呑む。
その場が一気にざわめき、最高神官と侍医、そしてウセルハトが王子を覗き込んだ時、王子が小さく呻き、瞼を震わせながら開けたのを見た。
「ヘカワセト!」
「……ティイ」
ヘルネイトの歓喜の声に重なった王子の第一声は、妹の名だった。
頭を抱えながら起き上がる王子をすかさずウセルハトが支える。
「王子、ご気分は」
「心配ない。ウセルハト、ティイはどこだ」
愕然としたヘルネイトなど視界にも入っていないかのように、王子はティイを探していた。
──ああ、やはり。
ウセルハトが答える前に、俺は立ち上がって一歩前に出た。
「恐れながら」
寝台に座る王子が眉を顰めてこちらに目を向けた。
嫌に威圧のある眼差しだ。俺は初めて見た時からこの眼差しが好きではない。
「そなたは確か……」
「イウヤの息子、ティイの兄、アイと申します。妹は今、別室で宰相殿と父のもとで詰問を受けております」
それを聞くなり、王子は寝台から立ち上がろうとしたが、それを侍医とウセルハトが慌てて止めた。
「どこへ行かれるのです!」
「ティイの所へ行く」
王子の表情に焦りがあった。
珍しいことだ。いつだって感情が読めない威圧的な顔をしているのに。
ティイが皆に責められている状況を知って焦燥を見せるとは、あながち自分の仮説は間違っていないのだろう。
この王子は妹を気にしているのだ。ヘルネイトよりも、誰よりも。
「王子!今日は休みましょう。誰かに殴られるなんて生まれてこのかたなかったんですから!そんな真っ赤な顎で人前に出られませんよ!」
抱きつくように止められてこれ以上は無理だと踏んだのか、王子は頭を片手で抑えながらウセルハトを見て告げた。
「ならばウセルハト、そなたがイウヤとティイに屋敷に帰り休むようにと伝えよ。あとは私から皆に説明する。ティイへの詰問は即刻止めさせよ」
元気に返事をした側近は、何かを察したのか跳ねるような足取りで父と妹がいる部屋へと向かっていった。
その夜、テーベの屋敷へ戻った妹は、友人タニイにそこで起きた出来事を語ったらしい。
王子から「惚れている」と告げられたこと。そして、自分もまた王子に好意を抱いていること。
さらに王子自身も、宰相たちに「ティイを王宮へ迎え入れたい」と告げ、初めて公にティイの存在を明かしたという。
様々な情報が飛び交い、一晩中駆け回っていたが、明け方に急遽ムノへ帰ることとなった妹をアネンとともに見送った。
ひどく狼狽して落ち込んでいた妹に、慰めのつもりで側室の話をしてみたが、妹がそれを察したかは定かではない。
妹が帰路につくのを見届けてから、馬で兄と共に王宮へ向かった。
先に王宮に向かった父が王子から話を賜っているはずだ。その内容を一刻も早く知りたくて、自然と手綱を握る手に力が籠る。
「兄上、ティイはきっと側室に召し上げられるぞ」
朝焼けの中にある王都を目を細めて眺めながら、兄に告げた。
妹が側室となれば、我らの立場は揺るぎないものになる。一族の力も誇示でき、誰も我らを軽んじることはなくなるだろう。
「……そうだな」
頷いたアネンの表情は、どこか晴れない。
「どうした、兄上」
「王子のご様子を見ていると、また違うようにも思える」
アネンは王子の側近の一人だ。王子の状況を自分よりは知っている。
「側室ではなく、今回の件で罰が下ると?」
半ば冗談めかして兄に尋ねると、兄はそれに首を横に振ったが、それでも冴えない表情をしていた。
「いや、何か違和感がある……王子は少し騒動が起きそうなことをお考えになられている気がする。まだ宰相にしか話しておられないようだが」
要領を得ない兄の言い方に、僅かに苛立つ。
はっきりしないのは嫌いだ。だが慎重な兄がこれ以上言及しないことも分かっていたから、こちらも口を閉ざした。
何にせよ、王宮に戻ればすべてはっきりすることだ。
今日の仕事は免除してもらおう。きっと最高神官も分かってくれるはずだ。
あのヘルネイトは今頃どうしているだろう。父親や周りに当たり散らしているだろうか──哀れなものだ。
新しい朝を伴った太陽の光が眩しい。
まるで神々が祝福しているようだと思わずにはいられなかった。




