可能性
太陽が姿を隠し、夜の闇が神殿内を深く侵す中で、最高神官の近くに侍り、アメン神像への祈りを捧げる。この厳粛な空気には毎回のことながら背筋が伸びる。
このテーベの王宮の中で最も立派で大きな神殿。そこに祭られているのは最高神アメンラー。
天井にも届く巨大なアメン神像が、威厳を湛えて自分の前にある。なんて美しい像だろうかと惚れ惚れとする光景だ。王族や神職でなければこの光景を眺めることができない。ここまで来たという優越感ばかりが自分の中にあった。
アメン神像に最も近い祭壇、限られた者だけがここに立つことが出来る。
神官たちの様子は前と何ら変わらない。時間神官の長が罷免された騒ぎは、新しい者が指名されたことで瞬く間に治まった。どうやらあの罷免された親子はそこまで重要な人物ではなかったようだ。まるで最初からいなかったかのように皆は淡々と仕事を熟している。あの落ちくぼんだ小さな目をもう見ることはないと思うと清々しい気分だった。
粛々と今日の日課が終わりを告げて、高官たちが使用していた祭具をまとめていると、同期の見習いでしかない神官たちが下段の片付けをしながら、あまり気に入らないといった様子でこちらを一瞥し、何やら小声で話しているのに気づいた。
──暇なのか。
同時に「哀れだ」と思う。
大方最高神官の側近として選ばれた俺に嫉妬しているのだろう。確かに自分はこの年齢にしてはあるまじき昇進だった。
この神官職に就いたのはほぼ同じ頃だったというのに、方や見習い、方や最高神官補佐。これだけの差が俺とお前たちの間にはある。口を利くことすら烏滸がましい。最高神官たちが使用する祭具に触れることすら許されない。
彼らと視線が合い、上から見下ろす状態になった時、わざとらしく鼻で嗤って見せた。それに気づいた彼らは慌てて目を反らしていそいそと掃除を再開する。
相手がこちらの態度を不快に思ったとしても、立場上何も文句は言えないのだ。
他人を妬む暇があるのならば、それだけの働きをして実績を作ればいいのだ。
今の高官たちは実績を作ればそれ相応の評価をくれる。それに値する行動をすれば良いだけの話だというのに、それができないのだから心から哀れに思う。
自分がここまで上り詰めたのは一族のためだ。神官側のことを、父に多くを報告するため。内情を探り、不利になることがないかを見極めるためだ。
自分がこの地位に辿り着いたのも、決して簡単な道のりではなかった。それなりの勉学と努力をしている。「どうせ女を利用しているのだ」と嫌味を言われることもあるが、利用できるものを利用して何が悪い。まずお前たちでは女が相手にしてくれないだろうに。そんなことも思いつかないとは更に馬鹿にしてやりたくなる。
そこまで考えて、自分のこのひねくれた性格が仲間を作れない理由だろうなと漠然と思った。
血を分けたはずの兄弟でありながら、誰にでも好かれる兄とは決定的にここが違う。
ただ、仲間が欲しいかと問われたら別に必要性は感じられなかった。一人の方が自由がきいていざこざに巻き込まれることが少ない。言い換えればこれは自分らしさなのかもしれない、と自嘲じみた考えに至りながら、祭具を抱えて神殿を出た。
神殿から王宮へ続く渡り廊下に夜風が通り過ぎる。心地よい涼しさだった。
今夜は宴が催されているから、テーベの屋敷には父も兄も帰らないはずだ。ならば誰かの所へ赴こうかと考えを巡らせた。数人の女から誘いは受けているのだ。
ヘルネイトに従うようにいる一人の娘の顔が浮かぶ。自分に向けられた彼女の目が、こちらに好意を持っている事に気付いて一度だけ関係を持った。ヘルネイトやティイほどではないが、ある程度の力を持った貴族の娘だから、それなりに使えると見込んでのことだ。確かあそこの父親が現在携わっているのはエジプト北方の街の整備のはず。ヒッタイト側の情勢の話をもしかしたら得られるかもしれない。あの国は今内乱が起こっているはずだ。娘が親の仕事に関して詳しいとは到底思えないが、行く価値はあるだろう。
廊下から王宮側へ降り立ってしばらく歩いたところで、違和感に気づいてつと足を止めた。
自分が向かう方角──王宮内が騒がしかった。兵が十人ほどある方向に向かって走っていき、女官たちが悲愴な声をあげて話している。
何かがあった。
それだけは確かだ。
また衛兵たちが駆けていく。彼らが血相を変えて向かっているのは王宮の東側──宴の広間の方向だ。
そこでは父と妹が招待されている「王の宴」が催されているはず。ティイが招待されて丁度10回目の宴だった。
眉を顰めて様子を窺い、自分も向かおうか悩んでいると、こちらへ駆けてくる同僚の神官ムートの姿があった。彼は同じく最高神官の側近である。
「アイ!」
呼ばれてびくりと身体が跳ねた。それだけムートの声は大きい。
他の神官たちとつるまないでいる自分を気にかけ、何故か声を掛けてくる齢三十に近い男だった。どうやら兄が神官時代に世話をしたというのが、俺を気に掛ける理由のようだ。勝手に弟のように思われている節がある。
嫉妬や憎悪のようなものとは一切無縁、一風変わった性格をしていて、この男に呼び捨てにされるのは嫌ではなかった。
「アイ!大変だ!」
目の前に来ても変わらない声量で思わず耳を塞いだ。
大男と陰で言われるくらいの立派な体躯でありながら、虫一匹殺せないような優しい顔つきをしている。その顔が明らかに引きつっていた。
「そんな大声で喚くな。耳が潰れる」
潰れたらどうしてくれる、と文句を並べたが、相手は意に介さない様子だ。
「そんなこと言ってる場合じゃない!事件だ!」
「事件?」
ここまで取り乱した同僚を見たのは初めてだ。余程のことが起こっているのだろう。
「王子が殴られて倒れられたと!」
放たれた言葉に、相手を凝視した。
王子が殴られたとは考えがたい話だ。
王子の傍にはいつもちょこまかと動く乳兄弟の側近と、近寄りがたい屈強な護衛がついていたのに、その王子を誰が殴って失神させられるというのだろう。それが可能だとして、どれだけの手練れだ。
そもそも王子は毎月の宴には顔を出していないと聞いている。ヘルネイトが俺にその文句を垂れ流すくらいなのだから、一切顔を出してないのは間違いない。
ならばどこで、王子は襲われたのか。側近である兄は何をしている。
「誰が王子を?犯人は捕まったのか」
王族に暴力を働いたとなれば、死罪だろう。
どこか他国からの刺客だろうか。
「それが、恐れ多くも王子を殴ったのは……あくまで、人から聞いた話なんだが……本当かは分からないんだが……」
尋ねられた彼は、答えるのが憚れるようにもごもごし始めた。こちらに言うか悩んでいるようだ。あれほどに勢いよく知らせに来たというのに、肝心な点を聞いた途端口籠るとはどういうことだ。
「又聞きでいい。別に驚かない」
そう言うと、彼はやや落とした声音で答えた。
「……イウヤ殿のご息女と聞いた」
ムートを見つめる目が、これでもかと見開く。言葉を失った。
相手のひどく心配した顔。冗談を、と言おうと思っても、この男はくだらない嘘を吐くような人間ではない。こちらを慮って口籠ったのかとここでようやく理解する。
「アイ、お前の妹御だろう」
──ティイ。
時間が止まったような感覚があった。
イウヤは父の名だ。その娘とは間違いなく自分の妹だ。血の気が引いた。
この騒ぎの発端は自分の実妹──。
驚愕を隠すことはできなかった。
「……場所は」
愕然としたまま微かな声で尋ねる。声音だけは冷静を貫こうとしたが、居ても立っても居られない。
「北の回廊、とだけ」
現場を聞くや否や、咄嗟にその同僚に持っていた祭具を押しつけて走りだした。ムートは押し付けられるままそれを受け取ってくれた。
王宮の白い廊下をこんなに全力で駆け抜けたことはない。
月光と廊下に一定間隔で並べられている灯りだけが自分の影を伸ばしている。
さっきまで気持ちよく感じていた風が、嫌に肌にまとわりついてくるようで鬱陶しかった。
妹が王子に暴行を働いたのなら、それは一族にとっての大事件になりかねない。
父や兄、そして自分の失脚どころか、一族全員が刑に処されることだって多いにあり得る事態だ。
何故宴に出席していない王子のことを、王子と接点すらない妹が殴る事態が起こるのだ。何がどうなっている。
「あの阿保が……!」
息を切らして北の回廊に向かったが、現場と思われる場所にはもう王子の姿はなかった。その代わり人だかりができていた。
兵やら女官やら、宴に参列していた者たちやらがわらわらいるその中央に、父と兄、それから宰相の娘タニイに抱えられるようにしている妹の姿を認めた。妹は身体を震わせて、遠目でも動揺しているのが分かる。
「父上」
焦燥にかられたまま、人混みを抜けて父を呼んだ。宴に参加していただけあって父は正装に身を包んでいる。
「おお……アイ」
辛うじて冷静を保ってはいるが、父の顔は真っ青だ。
怒りを通り越して、身内が王家の人間に暴行を働いたという事実に動揺を隠せないといった様子だ。
「何があったのです」
とにかく事態を把握したかった。事態によっては自分の次の行動をすぐさま考えなければならない。
「ティイが王子に暴行を働いたと聞きました。本当ですか」
返答までの時間が惜しくて、自分から畳み掛けるように尋ねてしまう。
「事実だ」
冷静に短く答えたのは父の隣にいた兄アネンだった。
兄は父よりもやや落ち着いた様子で、顎に手を当てて考えを巡らせているようだった。そこにいつもの穏やかさはなく、険しい表情を浮かべている。
ムートの話は本当だったのかと、言葉を失う。
「アイ、ティイが王宮で女官と仲良くなったらしいと話したのは覚えているか」
唐突に言われて苛立った。そんな話題は、今どうだっていい。
「兄上、それが今回のことに何の関係が」
「その女官が王子だったんだ」
はっと息を飲んだ。
内容がすぐに飲み込めず、兄を見返す。
妹に王宮で仲良くなった女官がいると聞いていたが、それが王子だったとは、どういうことだ。
兄は小さく息を吐きながら続けた。
「ティイは女性だと偽れば会えると踏んで、父上に女官だと言い続けていたらしい。ティイは王子だとは知らずに繰り返し会っていたようだ。王子に暴力を働いた理由はこれから宰相殿を伴って詰問する」
何故兄が父より事態を把握しているのかと思ったが、ティイが仲良くしている宰相の娘はアネンと気が合う仲だった。宰相の娘から聞いていたのかと自分の中で納得する。
妹が自分と会っていた王子を女官だと偽っていた。
どおりで噂の女官が誰か一向に見つからなかったわけだ。そんな女官は始めからどこにもいなかったのだから。
だが、問題は何があって妹が王子を殴ったかだ。
王子がティイを刑に処すと一言命じれば、我が一族は終わる。
「アイ」
父に呼ばれ、短く返事をした。
「お前は王子のお傍に向かえ。侍医の部屋に担ぎ込まれている。そこに大神官殿もいるはずだ。大神官の補佐として傍に行き、あとから王子のご様子を報告せよ」
父の命令に素早く頷いて、俺は王子が運ばれたという部屋へ走り出した。
またもや夜の闇に浮かぶような長い回廊を走る。
その間にもぐるぐると思考を巡らせた。
妹が王子を殴ったとは言え、今までの話を総括すると、王子は正体を明かさずに繰り返し妹と会っていたことになる。王子自身もティイと会っていたことは誰にも伝えていないのだろう。だから今回の騒動になった。
聞いた話によれば、妹は王宮で知り合った「女官《王子》」と親しくなり、王宮内を案内してもらったり、縁談相手から狼藉を受けて傷心していた時には慰めてもらったりしていたという。
アネンが言っていた通り、その懇意にしていた女官が王子だったとして、一国の王子がどうでもいい女に繰り返し会って、王宮内を案内したり、慰めたりするだろうか。
妹に狼藉を働いたあの男は、「ファラオに役を解かれた」と言って王宮から一族ともども去っていった。現在病に伏しているファラオが命じられるとも思えない。ということは、役を説いた張本人は、ファラオの代役──つまり王子だ。
王子はティイが男から狼藉を受けたことを知って、それであの男の役を解いて王宮から追放した。
──ならば。
もしかすれば、「王子はティイを気に入っている」のではないか。
ここで、ひとつの可能性に思い至り、駆けていた足を止めた。
息を呑んで足下にあった視線を上げる。そこには煌々とこちらを照らす白い月があった。何度か呼吸を繰り返す。夜の冷えた空気が肺を目一杯に満たしていく。
繋がった──そう思った。
今まで点々とあった出来事が一本の線になるようだった。
大きく息をひとつ、仰いだ闇に吐いた。
──ティイが。
自分の妹が、王子の側室に選ばれるかも知れない。




