末路
「ティイが狼藉を受けた」
半ば焦燥を隠せない様子の兄からそう言われて眉を顰めた。相手のやや取り乱した様はかなり珍しい。
「どういうことだ」
昼下がりの、仕事も落ち着いた時間帯に兄から呼び出され、神殿の外の王宮の隅でムノの屋敷で起こった事件の詳細を聞いた。
どうやら、テーベでの事件で妹の暴れっぷりに一度は破談になった縁談だったが、こちらの血筋がどうしても欲しかったのと、じゃじゃ馬ではあれど妹の容姿に魅入られたらしく、「ティイを妾にどうか」とわざわざ親子そろってムノの屋敷にまで打診に来たのだという。
「妾とは……随分舐められたものだな」
王宮の巨大な柱の一つに背を預けて腕を組み、鼻で笑った。
仕事をしている上で、あの父親だけは真面に見えたが、実際息子のことになると息子可愛さ故に愚かなことをするものだと内心驚いた。
己の血筋に誇りを持っている父イウヤが、いくら神官側との強い繋がりを得るためとは言え、可愛い末娘を神官見習いの妾になど許すはずがない。
頭が空っぽなのかと罵りたくなる。あの息子にあの親あり、といったところか。
呆れ果てて溜め息に似た呼吸を一つ落とすと、それを見届けた兄が続けた。
「百歩譲ってそれはまだいい。断ればいいだけの話だ。問題はその息子、縁談相手本人だ。あれがティイに手を出した」
話によれば、あの目の小さな男は、着飾ったティイを目の前にして我慢できなかったのか、部屋から下がったティイを追って、そのまま狼藉を働いて殴られたという。
そこまで聞いて苦笑してしまった。
「いい気味だな。殴ったのはどうかと思うが、ティイも案外やるじゃないか」
「笑いごとじゃない」
正直な感想だったが、兄には不快だったようだ。
「ティイは世間知らずだ。どんなに怖かったろうか」
箱入り娘として大事に育てられてきた分、ティイは男を知らない。
普段のティイならばすぐに薙ぎ倒すことくらい造作もなかったのだろうが、男というものを知らない分、戸惑いと恐怖ですぐに抵抗ができず、本人が泣き伏すくらいに良いようにされて、反射的に殴ったという話だった。そのまま人格否定に近い暴言も浴びせられ、ティイはひどく落ち込んでいるという。
「ティイは大分塞ぎこんでいる。母上が懸命に慰めているようではあるが……」
兄は可愛い妹が襲われて、さすがに怒りを抑えきれていないようだ。
「まあ傷物にされなかっただけマシだろう」
「アイ、冗談を言うものではない」
最悪の事態にはならなかったと慰めたつもりだったが、またもや兄に窘められた。兄にとっては妹を苦しめた事実に変わりはないのだ。もし妹の身に何かあったら、兄は相手を殺しかねないな、とぼんやり考える。
それにしても、だ。
好意を持った相手を、そんな風に追い詰めて襲うことしかできないとは、まともな女経験もないのだろうと心底呆れる。本当にあの男の自信はどこから湧いて出てくるのか。義理の兄弟にならなくてよかったと心底思う。
「父上はひどくお怒りだ」
そうだろうなと、兄の言葉に頷く。
王宮の柱の間から夕暮れに近い風が流れていった。
「あんな親子が王宮でのうのうと神々に仕えているとは」
そう呟く兄の声音には溢れんばかりの憤りが込められている。いつもは穏やかで冷静だが、妹を心底可愛がっている兄にとって、今回のことは腸が煮えくり返るほどの事件のはずだ。ただ、何の手も打てないのが歯痒いのだろう。
そんな兄の考えが分かって、俺は首を横に振った。
「だが、父上の力では神官側に圧力はかけられない。俺だって無理だ。あれの父親は上司にあたる。それも時間神官の長だ」
これに兄は「分かっている」と目を伏せた。
「ただ、あの元縁談相手はティイに関してあることないこと吹聴しているそうだ。あくまで自分に非がないと強調している。どうにか制裁を与えたいところだが……」
兄の言葉に、眉根を上げた。
我ら一族の人間を妾にと言い、その場で襲い、妹のことを悪く吹聴している──いくら気が合わない妹であっても、これは我らを貶めようとする行為であるに違いなかった。我が一族が舐められていると思うとそれは非常に腹立たしいことだ。
しかし解決策が見つからないまま、再びその月の「王の宴」が催され、妹は気が進まないながらも父に説得され、それに参加したと兄から聞いた。
その「王の宴」の翌日、早朝のこと。
急に、最高神官の右腕と呼ばれた時間神官の解雇が宰相を通して言い渡され、神殿内は騒然となった。
最高神官の右腕とは、妹の元縁談相手の父親だ。同時にその息子も罷免するという。最高神官はこれに関して何も言及しなかった。決定に異論はなく、それに従うということを意味していた。
神官内にも派閥があり、あの時間神官側についていた者たちは慌てふためいていたが、自分にはそこまで影響がない。何も言及しなかった最高神官のもとで、粛々と仕事をこなしていけばいいため、その騒ぎを遠くから眺めていた。
それよりも、この王宮には複数の神殿があり、今日もそれぞれの神殿で儀式が立て続けにあるのだから、準備をしていかなければならない。と、一人でひとつの神殿内を整えていた時。
「アイ!」
あまり聞き覚えのない声に顔を上げて眉を顰めた。
自分を呼び捨てにできる人間はあまりいないはずなのだが。
「アイ!」
もう一度耳障りな呼び声が響き渡った。
決して大きいとは言えない小さな神殿に、一人の男が入ってきて、ずんずんとこちらに近づいてくる。入口からの逆光で顔は見えなかったが、神聖な場所を汚す存在に見えて、目を見張った。
「ここをどこと心得る。立場を弁えよ」
止めたつもりだったが、相手は動転しているのか、目の前に来るなりこちらの胸倉に掴みかかってきた。
「お前の妹、王家と何か関わりがあるのか!?」
大きく揺さぶられて顔を歪めた。
目の前に現れたのは、妹に狼藉を働いたという元縁談相手だった。今朝罷免されたはずの男。
「何の話だ。放せ」
掴まれた手を薙ぎ払い、相手を見据える。
落ちくぼんだ小さな目元がさらに小さく見える。あんなにも偉そうに踏ん反り返っていた面影が消え失せ、相手がひどく憔悴しているのが分かった。まるでカエルのようだ。
「……ファラオから役を解くと言われた」
か細い台詞に、朝に聞いた解雇の話か、と大きく溜め息をつく。
最高神官が言及しなかったのは、王家からの要請だったからだ。この親子が何かをやらかしたに違いないだろうに。
あれだけのことを我が一族にしておいて、彼らの失態がそれだけに留まるとも思えない。おそらく他にも何かしでかしているのだ。それに気づけないだけ愚かなのだと思うと哀れで笑えてくる。
「父上もだ!貴族の身分を剥奪すると……!」
「そうか、貴族の身分まで……」
ほう、と顎に手をあてて頷く。今にも泣きだしそうな相手の顔に、口元が緩むのを手で隠した。
「失態はなかった。強いて言えばお前の妹に……」
「ひどい仕打ちをしてくれたようだな」
こちらが被せた言葉に相手が口籠った。そんなに気まずそうにするのであれば最初からやらなければよかったのだ。実に愚かだ。
「あれは……お前の妹が悪い。従順であればよかったのだ。俺は殴られた、被害者だ」
呟くような小さな声でそんな返答しかできないのかと呆れ果て、更に大きな溜め息が口から出てきた。
「我らムノの一族はお前に憤慨している」
自分の声は神殿内に低く、這うように響いた。
軍事司令官を敵に回したと、彼はようやく飲み込んだらしい。それ以上何も言わなくなった。
「女に殴られたなど、よく周りに言えるものだな。自分は無能だとひけらかしているようなもの。恥知らずも大概にしたらどうだ」
妹が王家を動かせるほどの存在とは思わないが、妹や我ら一族の悪評を広めようとしていたこの男が役を解かれるという。いい気味だ。こちらとしては何も困ることはない。慰める義理もない。アネンのような優しさも俺は持ち合わせていない。──いや、アネンが今ここにいたら、妹可愛さ故に殴っていたかもしれないが。
「役を解かれて、晴れて自由の身じゃないか。神官の仕事はさぞや退屈だったろう?」
悠々とした様子で彼に告げ、その肩を軽く叩いた。この男が毎回退屈そうにしていたのを俺は知っている。
仕事の解雇。この男が威張り散らしていた根源──後見である父親の高い位もなくなった。加えて身分剥奪。この王宮には居られないことを意味する。テーベにも居られないかもしれない。
痛快だ。お前は我が一族を貶めたのだから。
「妹が王族と関係があるかは知らない。だが教えてやろう。お前は頭が足りないから知らないだろうが、俺も妹も古から伝わる血筋の持ち主だ。お前が俺と同等となることもないし、妹もお前が妻として扱える身分じゃない」
こんな男が義弟になっていたかと思うと反吐が出る。
「そんなことも分からないから、ファラオのご気分を何で損ねて、何故役を解かれたかも分からないんだろう。実に哀れだな」
絶望したような相手のすぐ傍を通り抜けた。
そろそろ最高神官がここを訪れる時間だ。やがて儀式が始まる。
「せいぜい王宮の外で健やかに暮らせ」
出た神殿の外は、気持ち良いくらい晴れ渡っていた。
朝焼けの中で大きく呼吸をすると同時に、父と兄に報せなければ、と何となしに思った。




