.2 EXT
味気ない打撃音が大きな交差点に響き渡る。在りもしない鋼を纏った拳は凶器と化し、怯える榎町の頬を抉り抜いた。
少年の一振り。それは榎町の脳に激震を与え、身も心も理解できないままアスファルトに引き摺らせていく。
護送車と亡骸の破片だけを残した中心で、身体を打ち捨てた榎町は弱々しく仰向いた。しかし、彼が殴られた事実に気が付くのは、激しい痛みの中で空を見た時となる。
虚しく映る、青い広がり。それは嫌に綺麗で、窮屈な世界で生きる拡張子を慰めの意を込めて否定しているように思えて仕方がなかった。
「はぁ……」
溜め息を吐き、榎町はじっと空を見つめた。視界に広がる無垢な光景は相も変わらず爽やかに塗られ、童心を想い、目に染みる。しかし、あまりにも強い衝撃のせいか、感傷や後悔の念よりも先に意識が滲んでいた。
「……………」
榎町が遣る瀬無く見えた少年は憐れみの眼差しを向けると、覚束ない足取りの中、ゆっくりと一歩を踏み出していく。だが、その身体は既に深刻な出血を強いられ、生き残るために力を揮っていたが故に、少年の意識は朧気であった。
「――――面白い――――」
しかし、待てば消える火を悪意ある大人が踏み躙る。
突如、少年の身体は僅かな浮遊感に包まれたかと思えば、身体をくの字に曲げて大きく後方に突き飛ばされてしまう。あまりにも呆気ない少年の姿。それは、最早人ではなく、交差点に散らばる残骸であった。
一方向に強く風を切る少年の身体は、聳え立っていた黒以外は映そうともしない広告用の大型液晶パネルとの距離を瞬間的に縮めていく。そして、猶予なく激突と同時に大きな亀裂を走らせると、痛々しく割れた音が少年の背中に牙を剥く。音に紛れた数多の破片が服を貫き、背中へ針山の様に突き立っていった。
所詮は基板で構成されたクッション。それ故に最悪の形で受け止めるが、そこに吸収性能は無く、目の前の歩道へ微動だにしない少年を零す。
「今のうちに撤収するぞ……立てるか?」
「すみません……旦那……」
白コートの男の責めもしない言葉が励ましに思えた榎町は、却って惨めに感じてしまう。例え想定外であったとしても、手痛い敗北をしたことは紛れもない事実。そこに責任を感じられない榎町ではなかった。彼は申し訳なさそうに立ち上がると、離れた場所で横たわる少年の方に顔を向ける。
ボロ雑巾同然の死に損ない。そんな彼の姿を見た榎町は、殴られた痛みと無念の底にあった敗北感を遅くも煮やす。
「……なあ、旦那。 俺は負けたのか? あんなガキに……!」
「拡張子に年齢は関係ないってことだ。 勉強になったな、榎町」
「こんなのに高い学費を払った記憶はねえんだけどな。 どうせ湾岸の廃ビルだろ? 早く行こうぜ、旦那」
軽く宥められた榎町は、虚栄の如く自嘲して自制を図る。そして、気分を紛らわすように頬を拭い、その場を後にしていく。
白コートの男は榎町の背に最低限の返事をすると、自らの視界を一周させる。持ち主から見放された数多の小物。破壊されて横転した護送車。大きな亀裂を作る液晶パネル。彼は自分達が手掛けた小さな地獄の中からひとつを選び取ると、榎町に背を向けて歩を進めていった。
「――――状況が変わった。 お前も来い」
「――――謎の力が加わったことで護送車の前方は原形を留められず、車体は衝撃により横転。 すると、そのまま複数人を巻き込みながら一〇メートル程度進んだ後、歩道で停止」
「護送車に乗っていた警官は全員が死亡。 その内、護衛の警官は射殺され、被疑者の男は行方不明。 唯一の生存者は小学生の女の子ただひとりで、意識は戻ってないが奇跡的に軽傷。 現在は近くの私立病院に搬送され、検査入院……か……」
護送車襲撃の知らせを受けたEXTは、鈴島と月名を含めた対拡と検証班を出動させ、警察と共に現場での対応に当たっている。その一方、後方担当であった千裕と火名は都内にある大きな私立病院を訪れていた。少女が眠る病室、その場所に。
だが、少女の意識は未だに戻らず、千裕と火名は一刻も早い目覚めを願うばかり。彼女達は現状として待つことしかできず、現場から上がってきた報告に目を通して進捗を確認する以外、やれることはなかった。
「……そう言えば千裕さん。 いないんですよね、保護者の方」
「いや、正確に言えばいるんだけど……この子の母親はこの病院で入院中。 先に現場へ到着した警察からは、同居人の兄のものと思われる、破損した携帯端末だけが見つかっていると、聞かされたよ」
警察の捜査力は偉大であったが、その恩恵は速度と正確さに比重する。
業務上、迅速な悲報は仕方のないことではあったが、千裕は自身の耳に入っていた、あまり気分の良くならない情報を火名に共有させた。
「でも、生存者はこの子……天ヶ音継ちゃん、ただひとり……」
「…………本当、嫌な仕事だね……」
どれだけ数を熟して慣れたとしても、本質的な嫌悪や忌避を拭いきることは難しい。状況証拠を照らし合わせた彼女達は、継の反応が火を見るよりも明らかであることに胸を痛め、それを証明する。
「…………ぅ……ん……?」
「火名」
「……はい」
沈んで静まる病室に、聞き慣れない声はよく通る。ぶつ切りとなっていた意識と記憶を接ぎ合わせ、継は徐に瞼を開けた。寝ぼけ眼で上体を起こすと、なにも知らない無垢な顔で辺りを見渡す。
「あれ……ここって、どこ……? お姉ちゃんたちはだれ……?」
寝ぼけ眼で身体を起こしたが、一瞬にして景色が様変わったことに彼女の心は追い付かない。十歳にも満たない幼い思考は逃げるように疑問を口にしたが、その度に継は不安に塗られ、声と身体を震わせていく。
目に見えて動揺する継の姿に、火名は想像通り、居た堪れなさを感じてしまう。だが、火名は決して立ち止まらない。彼女は病室を離れていた千裕に代わり、継にも分かり易く伝わるよう、しゃがんで目線を合わせると、状況を噛み砕いて説明を始める。
「お姉ちゃんは、絹川火名っていうの。 もうひとりのお姉ちゃんと一緒にEXTで働いているんだよ。 よろしくね、継ちゃん」
「…………うん、よろしく……おねがい、します……」
不安が払拭できず、状況も碌に把握していない状態に引っ張られた継。彼女は火名の自己紹介を聞くと、拙くも丁寧な言葉を返した。しかし、初めて会う人物である火名に自分の名前を呼ばれたことで頭が冴え、思わず頭に思い浮かんだ疑問を口にする。
「……あれ? でも、なんでエクストのお姉ちゃんがわたしの名前を知ってるの? 会うの初めてだよね……?」
「実はね、継ちゃんは交差点で事件に巻き込まれて、この病院に運ばれてきたの。 その時にお巡りさんたちが継ちゃんのことを調べていてね、お姉ちゃんたちに教えてくれたんだよ」
「…………交差点で……事件……?」
火名の説明の中にあった、たったふたつの単語。それは小さな少女の感情を急激に落とし、強制的にあの時を振り返らせる。
春休みに入り、寂しくも優しい兄に連れてもらった、久し振りの外出。それが一瞬にして容易く破壊されたことを、幼いながらも聡明であった継は直ぐに理解してしまう。だが、それはあまりにも重く、到底、受け入れられない。彼女の根っこは未だに子供で、強く澄んでいたからだ。
「……やだ…………ウソだよ……ね……?」
言葉でしか知らなかった、家族の喪失。それは痛ましい現実という形になり、小さな少女の心を凍て、身体を熱する。清潔に消毒された白いベッドで俯き、シーツを力一杯握る。なにも穿てない水滴を落とし、その手を濡らし続ける。只管に、どこまでも未熟に、悲しんでみせる。
それでも、決して彼女のことを孤独にはさせなかった。
【大丈夫だよ、継ちゃん】
絹川火名。彼女は人の心を視て、記憶を読み、想いを交わすことのできる拡張子。故に、物心がついた時にはいた家族の喪失を、継が最も近い心の中から知ることができた。偽善でも、慈善でもなく。火名は心と共に継の手を優しく包むと、彼女の全てに寄り添う。
しかし、それは心だけに留まらない。火名は継の隣に腰掛けて身体を寄せると、母が子を慰めるように彼女の頭を優しく撫でた。
「おねえ……ちゃん……?」
受け入れつつも頭の中で声が聞こえて驚いた継は、顔を上げて火名を見る。すると、そこには慈悲にも思えた彼女の優しい顔があった。兄よりは要領が良いものの、家族以外には上手く甘えられなかった継。今の彼女にとって火名の存在はある種の劇毒となり、限界を迎えさせてしまう。
「いやだよ、そんなの……おいてかないでよ、お兄ちゃん……っ!!」
思いの丈を泣きじゃくり、火名の胸に飛び込んだ。絶対に離さないと言わんばかりに強く抱き着き、皺が残る程服を握り締め、枯れることのない涙と共に心を張り裂けさせる。彼女は縋り、求める以外に選択肢が思い浮かばなかったのだ。
そんな継を火名はなにも言わずに抱き返すと、あやすように優しく背中を叩き、頭を撫でていく。
本来であれば、火名は生存者である継から少しでも当時の情報を聞き出さなければならない立場であった。だからとは言え、傷ついた子供に大人の理屈を振り翳したくはない。火名は自分の甘さと自身に宿る拡張子の力を恨みながらも、継の記憶に少しだけ触れて、教えてもらう。
「…………」
交差点で信号待ちしている最中、爆発したような異音と共に迫り来る護送車。微かに聞こえる、名前を呼ぶ少年の声。離れた場所に立っている、誰かの後姿。微かに聞こえた、湾岸の廃ビルというワード。そして、その後ろ姿に映っていた人が車に詰め込まれていく様子。
それらは継の霞んでいた当時の意識と視界であり、火名はそこから、貴重な証言と足跡を読み取ることに成功した。
「もしかして……」
「火名お姉ちゃん……?」
当時の状況を鑑みて、継の名前で呼んでいた声の主が彼女の兄である可能性が火名の中で高まっていく。それに加え、報告には彼のものと思われる携帯端末があっただけで、本人自体は月名の力を以てしても現場からは遺体としてさえ見つかっていない。
拉致されていたとしたら、最低限の辻褄が合ってしまう。嫌な予想を掻き立てられる火名であったが、病院にいるため取れる手段は物理的に限られている。結果、今の彼女がそれ以上の行動を起こそうとすれば、自ずと他人の力を頼らざるを得なかった。
現場に赴いている月名にならこの情報を基に新たな発見もあり得ると考えた火名。彼女はそう思い立つと、落ち着き始めていた継から手を離し、未だに潤んでいた瞳を見つめる。
「……お姉ちゃん、これからお兄ちゃんを探しに行ってくるね」
生きているのであれば、それに越したことはない。継は内心でこそ現実を理解していたが、火名の言葉を聞いて思わず希望を感じてしまう。
「お兄ちゃん、生きてるの?」
「ごめんね、継ちゃん――」
今も生きている。そんな確証はどこにもなく、継のそれは子供の甘えた願望でしかない。拡張子に生殺与奪を握られているとすれば良くて交渉材料で、生存率自体は時間と共に確実に低くなっていく。
拡張子による犯罪の死亡率は、五割を優に超えている。その数字を基として現実的に考えれば、救出や保護以外、被害者にはまともな未来が訪れない。
しかし、だからと言って残酷な現実を突き付けるような真似を、火名はしなかった。
「それは……お姉ちゃんにも分からないの。 でも、このままもう二度と会えないなんて、継ちゃんも嫌だよね?」
「そんなの絶対にやだ! ちゃんと――」
お別れしたい。継が言うはずだったその言葉は、本来、一〇歳になる少女が口にするようなものではない。自分の手で可能性を閉ざさないで欲しかった火名は続きを言わせないために、言葉を被せる。
「じゃあ、約束しよっか。 お姉ちゃんはお兄ちゃんを見つけて来るから、継ちゃんはここで良い子にして待っていてね?」
「……え……う……うん、わかった……」
ワガママを言って困らせてはいけない。火名の姿が家族と重なったことで継は大切な約束を思い出してしまい、視界と記憶の輪郭が混ざり、重なっていく。そして、無意識な思慕に歯痒さを覚えた彼女は、唇を噛んでしまった。
「――――っ」
それは、本来ならば必要のなかった行為。言い聞かせるような形で継と約束を交わした火名は、なにも言わずに継をもう一度抱き締めた。姉としての矜持。小さな少女の心を視た火名は、自らの心に突き動かされていたのだ。
兄からは得られない、柔らかな抱擁。それを全身で感じた継は火名を困らせまいと直ぐに腕を離し、明るい笑顔を見せた。
「約束だからね、火名お姉ちゃん!」
「もちろん!」




