.1-5
『――…………事故から十年が経過しました――』
大して珍しくもない高級マンション。その一戸にあるリビングに置かれた大型テレビに電源が入ると、変哲もない朝のニュース番組が流れ出す。台所で食器を洗う音を小気味よく耳に入れながら、大人しくソファに座る小さな少女。彼女は自身が産まれる前に起きた出来事を話すテレビを前に、思わず真剣な顔をして視聴に興じていた。しかし、少女の興味とは裏腹に既に熱の冷めた過去の事故であったため、番組が取り扱う内容は当たり障りがなく、直ぐに次の話題に変わってしまう。
「ねえ、お兄ちゃんは十年前なにしてたの?」
番組の内容に消化不良気味だった小さな少女は生前のことに興味を持ち、台所で洗い物の最中である年の離れた兄にソファから声を掛けた。
「――――十年前か。 その頃は幼稚園に行っていたな」
「え~なにそれ、つまんな~い!」
洗い物を済ませ、食器を伏せた少年は少し間を開けて答える。だが、妹である小さな少女は期待していた答えとは違ったため、その内容にどこか不服そうな顔をしていた。少年はそんな妹を尻目に洗濯機から洗濯物を取り出すと、両手一杯に抱えたままベランダに行って窓の前に立つ。しかし、案の定両手は塞がっているので少年は妹に手伝いを頼むことにした。
「継、お兄ちゃんの手が塞がっているから代わりに窓を開けてくれないか?」
「は~い」
小さな少女、継はつまらなさそうに返事をしてソファから立つとベランダの窓を開ける。そして、兄と共に洗濯物を手に取ると広いベランダへ足を運んでいった。そこはよく晴れており、春風が兄妹の頬を撫でて快く迎える。気持ちの良い朝日と風を浴びながら、兄妹は決して多くはない洗濯物を干してリビングに戻る。
「洗濯物干すの、すぐに終わっちゃったね」
「そうだな」
家事が一段落すると、少年は少量の荷物をまとめて準備を始める。その様子を見た継は、春休みに入ってからは久しかった外出の気配を感じ取り、嬉々として兄の背中に近寄っていく。
「ねえねえ、お兄ちゃんどっか出かけるの?」
「……え? あ~……ごめんな、継。 花を買いに行くだけなんだ」
「……そっか……」
妹の輝く眼差しを前にした少年は期待させるのも悪いと考え、家族サービスではないことを苦笑いで伝えた。
兄の言葉聞いた継は純粋さ故か圧倒的な速度で萎れ、その目は赤くして沢山の涙を蓄えていく。
少年は妹に何もしてやれないことにもどかしさを感じると、せめてもの慰めとして、頭を撫でて抱き上げた。
「ほら!」
「ちょっとお兄ちゃんっ⁉ はずかしいよ~!」
唐突に始まった兄の愛情表現に敬は困惑するも、流れる前に涙は拭かれ、照れくさそうな笑顔を兄に見せた。少年は妹の表情を見て安堵すると、抱き上げた、軽くて小さな体躯をゆっくりと降ろしていく。口では嫌がりつつも名残惜しそうな顔をする継に、少年は目線を合わせ、両腕に手を添えて話し掛ける。
「……継、帰りにどこかへ寄るか?」
「ほんとっ⁉ 約束だよ! 早くいこ!」
継は少年の誘いを聞いて喜びのあまり跳ねて確認すると、上機嫌で靴を履きにいく。
子供らしい現金さを見せる継であったが、少年はそんな妹の姿になぜか憂いを抱いてしまう。彼は妹に急かされながら玄関に向かうと、その途中、リビングにあった写真立てに小さく声を掛けてから、家を出た。
「お父さん、お姉ちゃん……いってきます」
朝の日は高くなり、都内のアスファルトやコンクリートは人や車の雑踏に塗れることで、彼らを歯車として動かし、それを強いていた。
少年も例外ではなく、既に進路は決まっており、十日もすれば新たな環境に身を投じることになっている。しかし、それは家族のために選んだ道であり、だからこそ彼の心に眠る使命感がそれを赦さず、燻らせていた。思春期特有のものと考えれば幾分か気は紛れるが、変に生真面目であった少年にはそれが器用な考え方だと感じてしまい、より難しく捉えてしまう。
「お花、喜んでくれたかな……?」
そんな時、大きな交差点を前にした少年とその思考に、可愛い声が待ったを掛ける。小さな少女、継。彼女はいつになく難しい顔をしていた兄を心配し、思わず手を握ってしまっていた。
「……ああ、今日は継が選んでくれたんだ。 喜んでいたに決まっている」
数珠繋ぎになった自動車達が引っ切り無しに走っていく光景を横目に、少年は優しく、自信を持って答えた。忙しい社会に視界を目まぐるしく遮られ、焦りを覚えていた少年。彼は妹と言葉を交わしたことで、無意識下で苛立っていた気持ちを落ち着けていく。
「継、新しくできたケーキ屋さんに寄ってみるか?」
「ケーキ⁉ うん、良いよ!」
少し年の離れた兄妹は次の行き先を決めると、都内にある硬い動脈路を接がれた巨大な十字を前に待ち続ける。赤を示された自動車達は流れを止めて列をなすが、その中にあまりお目に掛かれない一台があった。
「――――旦那、アレか?」
「ああ、アレだな。 あの護送車の中に俺達の大事な尻尾が乗っている」
赤と青が入れ替わる大きな交差点。そこに面する路地裏の影の中でふたつ、男の声がした。だが道という道が奏でた雑音により、声は持ち主達に以外を拒んで蓋をする。
陰に隠れることも、日に当たることも否定した気配達。彼らは街を行き交う数多の歯車よりも、その奥にある護送車を見えない視線で狩人のように待ち続けていた。
「でも本当に良いのか?」
「日和見すれば向こうの思う壺だ。 それに火種は幾らでもあったからな、気にすることはない」
ふたりが会話している間に再び色が変わると、大きな交差点を自動車が何台も曲がっていった。いつの間にか後方に止まっていた護送車は先頭になっており、彼らに見える形で曲がり始める。
「派手に、しかし丁重に持て成してやらんとな……」
気怠くもニヤついた声色の男は前を通りがかった護送車に向かって、見えもしない手の平を翳した。すると一秒もしないうちに、十メートルは離れている護送車の助手席側が異音と共に大きなへこみを作り、ドアを突き破る。そして、護送車の前方部分は鈍くも高い金属音と火花を撒き散らすと、歩道や、そこを正しく歩く人々を運転手ごとすり潰していった。
その際、靴や手荷物、車の金属片を赤く吐き捨てながら派手に横転するも、護送車の勢いは一切の衰えを見せなかった。寧ろ速度を増しながら、燃料やオイルごと人々を引き摺ることで数メートルの帯を作り上げていく。
「――――継ッ!!」
留まることを知らない人の悪意が彩る地獄の様相は、偶然にも信号待ちしていた少年を目掛けた。次の瞬間、少年が妹の名前を叫んで庇うも、全てを掻き消す程の大きな衝突音が、空と地に響き渡る。そこには、最早原形を拝めない程の突き破る大穴が虚しくも天を向き、終点を知らせていた。
立ち始める煙や炎に混ざった悲鳴が人々を恐怖で支配し、逃げ惑わせ、散り散りになる。地獄はそうやって伝わっていくと、瞬く間に交差点から人を消していった。
その有様を路地裏で見ていた白コートの男が裾を靡かせ、もう一人の男と共に姿を現す。そして、周囲へ視線を配りながら状況の把握をし始める。
「……手を抜き過ぎたか」
途中、標的である護送車を冷めた目でなぞっていると、ゲートが閉じていることに気が付いた。いらぬ手間が増えたことに白コートの男は内心面倒臭がるが、予定通りに進めるためもう一人の男を顎で使い、向かわせる。
「榎町、中には護衛がいるはずだ。 手筈通り手短に頼むぞ」
「勿論」
榎町は一言だけ残すと、瞬く間に自身の姿を無に秘めた。そして、革靴から小さな足音だけを残して走っていく。
「相変わらず怖えよ、旦那は」
榎町は護送車のゲート前に到着すると、ほぼ真横に向いていたロックを外して勢いよくゲートを開ける。光が差し込まれた中には、想定していた通り護衛の警官がふたりと、その奥で蹲っていた大事な尻尾を確認できた。
すると、ゲートを開けた音で目を覚ました警官のひとりは状況を確かめようと外に向かっていくが、当然、榎町の姿はない。
「……ふん、馬鹿がよ……」
手短と頼まれた榎町は懐から拳銃を取り出すと、なにも見えていない警官を馬鹿にすると、眉間にふたつの鉛玉を贈呈することにした。
酷く事務的に、そして躊躇いなく鉄が引かれると、警官は呆気なく仲間のひとりを失ってしまう。
動揺と恐怖を隠せない中、残された警官はなんとか絞り出すように体を動かし、通信機に手を伸ばした。
情報共有されるのを警戒した榎町は通信機を撃ち抜こうと狙いを定めたが、それよりも先に通信のスイッチが入れられた。
『――――――』
しかし、電波が悪いのか全くと言っていい程繋がらず、ノイズだけが聞こえ続けた。
これ幸いと、榎町は銃口の先を通信機からゆっくりと警官の眉間に変更し、狙いを定める。
だが、そんな状況に陥っているとは微塵も思っていない警官は応援も望めないまま、ただ独り、発砲音のした方に銃を向けることしかできないでいた。
時間が惜しく、長居によるリスクを負いたくない榎町。彼は警官の涙ぐましい努力に眉のひとつも動かさず、眉間に二発の鉛玉を撃ち込む。
造作もなく物に変わり、力なく倒れた警官。それを邪魔と言わん限りで足蹴にすると、榎町は横転した護送車の中に中腰で入っていく。
暗い中、前方で横たわる警官を足で退かしながら奥に行くと、榎町は被疑者である男が倒れているのが見えた。
被疑者の男は、救出に来たと思われる榎町の姿を見て、起き上がる。
「あんた……助けてに来てくれたのか……!」
「これも旦那からの命――」
榎町は男に銃を向けようとした瞬間、護送車が軋む音と共に大きく揺れて態勢を崩してしまう。白コートの男が隠れて見張っているためEXTや警察の可能性は低く、榎町は生き残りがいるとは到底思えなかった。念には念を入れ。榎町は得体の知れない存在に一抹の不安を抱えながらも、外の様子を確認するために引き返す。
幸か不幸か、その用心深さと臆病さは正しいものとなる。榎町は外に出た瞬間、にわかには信じられない光景を目の当たりにしてしまった。
「……継! しっかりしろ、継! おい、なんだよこれ……何がどうなっているんだ……?」
なにひとつ状況を呑み込めていない少年が妹を抱き寄せ、必死に声を掛けていた。
「…………う、うそだろ……⁉ 冗談キツイぜ……」
少年の存在もさることながら、榎町は生存者がいたこと、それも五体満足だったという事実に驚きを隠せず、思わず自身の姿を晒してしまう。
後ろから声が聞こえたことで少年は慌てて振り返ると、目の前にいた榎町の姿を見て言葉を失った。
「…………ぇ………ぁ…………」
目の前で起こっている悲劇が事故ではなく、銃を握っているこの男が起こした事件。少年の直感は、そう告げていた。少年は次第に恐怖が全身を蠢き、這いずる感覚に陥ってしまう。そして、金縛りのように重く震えていき、身体の自由を奪われていく感覚に襲われる。
だが、本能に訴え掛けられた少年は、強かった。
彼は妹をそっと地面に寝かせると、徐に立ち上がる。そして拳を硬く握り、睨みつけながら身構えた。
「…………ッ!!」
「……くッ⁉」
榎町は、少年の目の色が変わったことに気が付くと、両者の間に流れていた僅かな沈黙を破り捨て、慌てて姿を消していく。完全に想定外であった榎町。彼は急遽、目撃者の始末に移ることにした。
「え⁉ き……消えた……⁉」
手品でも、CGでもない。正真正銘、目の前の人間が姿を消したことにより、少年は慌てて周囲を見渡す。しかし、当然と言わんばかりに姿は見えない。彼の目に付くのは、つい先程まであったはずの砕け散った人々の活気と、四方八方に散らばった地獄の渦中のみ。取り残された少年は、あれだけ悩んでいた進路や家族のことが跡形もなく消し飛んでいた。そして、焦燥以外なにもない中で、不幸にも相手が銃を持っていたことを思い出してしまう。
「ッ⁉ 不味い……!」
「……遅かったな、あばよ」
自分の死を確実視してしまい、望んでもいない絶望に強いられていく。そんな打ちひしがれた少年の額に、答え合わせとして重い鉄が押し付けられた。そして、少年の心が揺らぐよりも先に、その鉄は引かれてしまう。
乾いた音と共に少年は後ろに強く倒れ、その額からは弱々しくも赤く流れていた。
少年の最後を見届けつつも、想定外なことに手間取ってしまった榎町は熱の入った舌打ちをする。そして、背を向けて本題である男のところへ足を運ぶ。
「――――待て――――」
瞬間であった。
榎町は聞こえた。今さっき聞いた、もう聞くことのない声。それが、背中の方で確かに聞こえた。次第に全身の身の毛がよだち、精神ごと凍り付くような感覚に襲われていく。彼は恐怖した。殺されることよりも、生きていることに。死に勝る、生の存在に。
震えが止まらない榎町は、自らの手を抑えるように握り、己を昂らせて振り向く。指で押し込んだ引鉄により威勢のいい銃声を発するも、その音とは裏腹に、手の震えが影響したためか鉛は頬を掠めるだけに留まった。
少年は額の殆どを赤く染めながら、覚束ない足取りで真っ直ぐに向かっていく。
その光景を目の当たりにした榎町は、迫りくる恐怖から距離を置くように後退り、撃ち続けた。何度も、何度も。硝煙と鉛を叫ばせた。
だが、腕や足、腹にさえ命中しても、仰け反って血を流すだけで、一向に死なず、榎町の行為を拒絶するかのように少年は近づいてくる。
「……お、お前……! も、もしかして……⁉」
理性を感じさせない生命を見た榎町は、破れかぶれに残弾を吐き出した。結果、その全てが無駄玉に変わり、拳銃は弾切れを起こす。この時の榎町は恐慌状態の最中にあり、正常な判断ができているか既に怪しくなりつつあった。
そんな榎町の目前まで少年は近付くと、その鉄臭い腕を伸ばし、地獄へ誘うように掴み掛かる。
「ふざけんじゃねぇぞ! 馬鹿! 放せッ!!」
榎町は死に物狂いで抵抗して銃で少年の頭を力一杯に殴打するも、コンクリートのように硬く、まるで手応えがない。いよいよもって打つ手がなくなり、怯えるだけになった榎町。
少年は彼が縋るように持っていた銃に腕を伸ばし、添えるように片手で握っていく。
そして次の瞬間、手に力を加えると銃は飴細工のように容易く砕け、やたらと響く金属音を出しながら鉄屑はふたりの足元に散らばった。呆気なく行われたそれは、少年の分かり易い暴力によって告げられる、ある種の警告でもあったのだ。
彼はどこを見ているのか想像もできない曇りなき眼で榎町を見ると、その拳を握り、赤く滴らせながらゆっくりと振りかぶっていく。
そして、殴った。




