3. 二人の危機
「ああ、シエラ。行きたくないけど仕事に行ってくるよ」
「もう…わかったから…」
そう言いながらも、キーファはシエラをしっかり抱きしめて動こうとしない。
「遅刻しちゃう!」
「うん…もう行く…俺が出たらすぐに鍵を掛けるんだよ、心配だからね」
「わかったってば!もう!」
名残惜しげに一つ二つとキスをして、シエラの髪にしばらく顔を埋めるとキーファはとうとう出勤していった。シエラは言われた通り玄関の鍵を閉める。
一緒に過ごしたあの日の後、大きく変化したのはキーファの方だった。いや、もしかしたら心のなかではずっとそうだったのかもしれないが、シエラに対する愛情を全く隠さないようになってしまった。
いつも冷静だった男が様変わりして、シエラの方も照れ臭さが抜けきらない。以前は特段意識していなかったのに、今ではキーファに対してもじもじもしたり、照れ隠しでぷいとすることが増えて、それがまたキーファには可愛く見えてしまうという、新婚夫婦かくあるべきという有様なのだった。
◇
キーファの現在の仕事は、王城のそばにある軍事棟での対熊訓練主任と対熊の武器の開発。目処が立てば、シエラと共にグンディーマへ帰郷する予定だが、それはまだまだ先になりそうだ。
さて、キーファが午前の訓練を終えて休んでいると、同僚のアンドレがにこやかに話しかけてくる。
「キーファ!君にお客様だよ!なんと婚約者様さ!」
「……え?ほんとに?何かあったのかな」
キーファの顔が目尻を下げた。ずっと元気がなさそうだったキーファが、あらためて婚約してから明るくなってアンドレはそれがただ嬉しい。
「ちょっと疲れていそうだったから、西棟の仮眠室に案内したんだ。二人きりだろう?……職務放棄はしないでね!」
そんな雑談をしながら、二人は西棟へと向かう。三階にある仮眠室の前、アンドレがキーファが部屋の中に入るのを見届ける。そして、お調子者のアンドレはキーファの婚約者に頼まれた通り、こっそり外から鍵を掛けた。しばらくたったら開けてあげよう。水入らずの時間を過ごしてほしい。
「良いことしちゃったなあ!」
◇
中に入ったキーファは仮眠室を思わず見渡した。シエラの姿が見えない。それに不自然なほどの静かさだ。
「……シエラ、シエラ?どこにいる?急にどうした?」
訓練中とはうってかわった柔らかな声がでて、キーファは少しぎょっとするも、キョロキョロとシエラの姿を探す。しばらくすると、返事こそ無かったが、ベッドの影から誰か出てくる。シエラ!?とキーファが浮足立ち、そして、再び地に落ちる。
テレジアだった。
「……テレジア?どうしてここに?」
「……わたし、どうしてもあなたと二人きりになりたくて…騙すのは気が引けたけど、気の良さそうな人達に手伝ってもらったの…わたし…あなたとやり直したいのよ、キーファ」
「無理だと言ったろう‥」
これはまずい。そろそろと後に下がって行き、後ろ手に扉を開けようとする。……ガチリ!…鍵がかかっているではないか。アンドレめ…
「…ここまでさせて、女の私に恥をかかせる気なの?…それなら」
やけっぱち!いつもよりも軽装だったテレジアがおもむろにドレスに手を掛ける。
まずい!こういう騒がれ方をすると、潔白を証明するのは難しい。やっちまったことは簡単に証明できるのに、反対は難しいのだ、妙なことだ。しかも、たとえ助けを呼んでも、テレジアにはやはり恥をかかせることになる。紳士なキーファにはそこについても良心の呵責があった。
逡巡する。
しかし、今のキーファにとって、テレジアに恥をかかせることより、シエラとの間に一片でも疑惑や不信が生まれることの方が耐えがたかった。シエラを悲しませたくない。いつでも笑っていて欲しい。
今こそ過去と決別する好機かもしれない。シエラの笑顔が脳裏によぎる。もう失いたくない。キーファ、とうとう覚悟を決める。大きく息を吸い込んだ。
「………誰かー!!!助けてくれーーー!!不審な女が侵入している!!!!!」
あらん限りの声でキーファが叫ぶ。ここは三階だから、下階の誰かに聞こえることを祈って。
叫んだキーファは、大きく息を吸って留める。そして、猛然と部屋の暖炉へと駆け出した。成人男性がギリギリ入れそうな寸法の暖炉。その中へと飛び込んだ。勢いで灰がもわりと立つが気にせず、中へと体をねじ込むようにしてはまりこむ。そしてまたあらん限りの声で叫ぶ。
「私は対熊訓練主任のキーファ・ルクレールだ!!西棟三階の仮眠室で不審な女に襲われている!!鍵が外から掛けられて脱出できない!!至急応援に来てくれ!!繰り返す!西棟三階仮眠室に不審な女が侵入している!!至急応援を頼む!!!!」
暖炉の通気孔を通して、キーファの救援要請が西棟に響き渡った。
誰かテレジアを手助けする者がいたとしても、これだけ先手を打っておけば無力化できるだろう。それにテレジアがキーファに襲われたと主張したとしても、暖炉の中、灰まみれ煤まみれで籠城しているキーファをみれば、そんなのは狂言だとすぐに分かるだろう。我ながら良い策だと、キーファがにやりとする。
「なっ!……撤回しなさい!!」
「あ!やめろズボンを引っ張るな!」
キーファをどうにか暖炉から引き出そうとテレジアが手を掛ける。しかし、熊のように穴の中に籠る大男を、引っ張り出すことは容易ではない。力の限りに引っ張ってもびくともしないのだ。
「……私に……婚約者に……恥をかかせる気なの!??」
「……悪いのは全部君だろう!こんなことまでして!!このことはさすがに君のお父君にも言うぞ!庇い立てする気はない!!」
「なっ…!それは…!」
テレジアの父親は社交界でも厳格で通っている。
「もうこんなことはやめるんだ!自分のためにも!!」
「……でもっ」
「でもじゃない!この会話だって、通気孔を通して棟内に筒抜けだ!………みなさーん!!至急応援を!大至急お願いします!!!助けてくださーい!!!」
「……どうして……前はあんなに優しかったのに……」
よくも悪くもこんなに必死で滑稽なキーファをテレジアは初めて見る。テレジアの前ではいつもそつなく隙が無かったのに。
「………どうしてなの」
◇
最近練習しているレース編みに飾り文字。ほんの一カ月前では考えられないゆったりとした時間をシエラは満喫している。早くキーファが仕事から帰ってこないだろうか。今ごろ訓練に精を出しているのかな…と考えて、シエラの顔がにこっとなる。今日は髪を少し手の込んだ三つ編みにしているが、それが可愛いと、朝、褒められたのだった。男から可愛いと言われて嬉しいのは初めてかもしれない。普通なら困るのだが。
シエラが思い出し思い出し考えていると、玄関の呼び鈴がなった。飛び上がりそうになった。もしかして、キーファが帰ってきたのかもと、嬉しい気持ちで玄関を開けるが、そこにいたのはまったく知らない男だった。服装から察するに軍の人間だろう。あなたは誰なの?と困ったように見上げると、慌てた様子で男が話始める。
「突然申し訳ありません!訓練中にルクレール殿が大怪我を……!」
「………そんな!嘘でしょ……」
「あなたを急いでお連れするよう言われています。馬に乗ったことはありますか?さあ。お手を…」
使いがほんのりと怪しく笑うが、シエラはそれどころではない。
「ええ!もちろん!得意だわ!ちょっとこの馬をお借りしますね!!」
「は?……え!?」
グンディーマの女は大体乗馬が得意である。広大なグンディーマで、馬は移動に必須なのだ。故郷では馬を乗り回す女傑が山ほどいた。
「……え?」
シエラはひらりと馬にまたがると猛然と駆け出す。
そして、それを呆然と見送る使いの男、あらため、テレジアとクラウディオの共犯者。明確な罪を犯す前にこうなったのは、運が良かったとも言える。
「どうなってんだ……」
シエラの姿はもう見えない。
◇
「………はぁ…はぁ…いい加減!観念して出てきなさい!……」
「嫌だ!!」
キーファを暖炉から引っ張り出そうと奮闘し、服装が乱れきるテレジアと、暖炉の中に籠るキーファ。その地味な攻防はいまだ続いている。
一方、軍の訓練場では、門兵を無視し馬で荒々しく乗り付けてきたシエラに兵士たちは驚きが隠せない。なかなかの馬術。騎馬隊に入隊志望だろうか。
「あの!キーファ・ルクレールが大怪我を負ったときいて……!私、彼の婚約者なの……!」
「え?……婚約者ならさっき……」
あれ?となっているのは気のいい騎士ニコライ。じゃあ、アンドレとニコライにさっき声をかけてきたのは一体誰?なんとアンドレもニコライも、キーファの婚約者と元婚約者の顔を知らないのだった。ご都合主義である。
すると、棟内から人がぞろぞろと出てきた。二人にも声がかかる。
「おーい!!大変だ!!西棟に不審者が侵入したらしい。ルクレール主任が応対中で救援要請だ!!急げ!!西棟三階の仮眠室だ!!」
「え!………大怪我なんじゃ……?あ、それで救援…?」
「………おかしいな‥‥情報が錯綜している…?君も行こう!」
「はい!」
ニコライ、なんていいやつなんだ。馬から降りたシエラの速度に合わせて走ってくれる。西棟はわりかし近くにあり、今度は三階まで階段を駆け上がる。たどり着いた仮眠室はどうやら鍵がかかっていたらしい。しかし、鍵を探しに行く時間はないという判断で、屈強な男たちが猛然と体当たり。何度か続けると、とうとう扉が吹き飛び全貌が見えた。
「「「…………………」」」
まず、衣服の乱れきったテレジアが目に飛び込んでくる。しかも、暖炉から何かをひっぱり出そうと奮闘中。不審者…?暖炉掃除?一体何が…?扉が突破されて、目を見開いたテレジアは動きを止めた。
「あ……あれ、暖炉の中…ルクレール主任じゃ……」
一同困惑するなか、ニコライがやっと一言。
「つ、捕まえろ!不審者だ!」
「違うわ!私は被害者よ!襲われたのよ!!見てこの姿を…!!」
「「「無理がある!!」」」
テレジアの言いたいこともやりたかったこともわかる。しかし、襲われたと言うなら、なぜその襲った相手が大声で救援を求め、暖炉の中に籠城する必要があるのか。
呆れ顔に半笑いの男達は、仕方なさそうにテレジアの拘束にかかる。テレジアはもうまったく抵抗せず、あっさり捕縛された。乱れた服装を隠そうともせずだんまりを決め込んでいる。
男たちがテレジアを拘束するのをポカンと見つめていたシエラは我に返り、そろそろとその暖炉へと近づいた。頭隠して尻隠さずを体現するその姿。キーファで間違いない。
「………キーファ?……大丈夫なの?」
「!!!」
シエラの声に気づき、キーファがもぞもぞと出てきた。
「シ、シエラ?どうしてここに?」
「あなたが大怪我をしたって知らせを受けたの…テレジアもいるし…色々あったみたいだけど、でも、無事でよかった」
シエラが安堵からくんにゃりと微笑んだ。
「………そうか‥‥いや!そうじゃない!テレジアの言うことは全部嘘だ!信じてくれ!!」
キーファが必死に言い募る。
「‥‥大丈夫、わかってるから‥‥」
「ほんとになにもないんだ!ほんとだ!」
「……ふふふっ…わかってるわ」
「……俺は…熊より怖かったよ…だって、君からの信頼を失うかもしれないだろ。そう思ったら…暖炉に飛び込むか窓から飛び降りるしかなかったんだ」
「…もう!でも、よかった本当に。大怪我じゃなくて…ほら、顔も体も洗わないと。灰と煤だらけだわ…ふふっ」
煤だらけの髪や顔を見て、シエラが笑う。目の周りにこびり付いた灰を注意深く払ってやれば、キーファがこそばゆそうに目を細めた。でれでれとしながらシエラにされるがままになっている。彼女の目線を合わせるようにして屈み込む姿も新鮮だった。
「なんか幸せそうだね、キーファ君は‥‥」
ほかの者たちが壊れた扉を片付けたり、テレジアを保護したりする間、ニコライがしれっとその輪を抜けて二人を眺めている。テレジアが苦しそうに目を伏せた。
その後、一旦保護されたテレジアは、少しづつ供述し始める。手始めに、キーファが大怪我をしたと嘘を言ってシエラを連れ出す。そのまま彼女をクラウディオに引き渡して娼館に売り払う。テレジアの方はキーファに迫り、再び婚約者の座へ…という前半はともかく、後半は無理がある内容に聞いた者たちは呆れ返った。
しばらくして、事態を知らされたテレジアの両親が駆けつけてくると、その権力で箝口令を敷いた。娘は唆されただけ!全てはクラウディオとか言う女衒のせいと、事実を強引に書き換える形で終結。問題を起こしたテレジアは、当面の間、留学という処払いになる…らしい。クラウディオは指名手配され、後日あっさり捕まり投獄された。
蛇足だが、アンドレはこっぴどく怒られ、一ヶ月の減俸となった。
「とほほ……」




