2. 近づく二人
「ま、ま、ま…まだキスもしてないと…!??」
「…………はい」
「「あらま」」
シエラがキーファと暮らし始めて一週間ほど経つ。キーファは対熊の訓練に赴き、シエラはもっぱら高級娼館ミラファンで、上皇アルマン陛下のお忍びカードゲームにつきあわされていた。
「確かに式まで日があるが、別に全くの禁欲というわけでもないじゃろ?おかしいじゃろ?こんなに可愛い娘と一つ屋根の下でな〜にやっとんじゃい、あいつは…」
シエラとキーファ、二人の式はこじんまりと行われる予定だ。キーファは婚約破棄があった後だし、シエラとの出会いもあまり声高には言えない。表向きには、上京して悪い輩に絡まれていたシエラをキーファが助けて‥という筋書きになっている。
「…急なことでしたし、頭が冷えて気まずいのかもしれません…」
それはシエラにも言えることで、新居で向かい合った二人には、初めて会った時よりもぎこちなさがあった。
「まあ、そうか…それで?シエラちゃんは?」
「え?」
「嫌か?キーファは?」
「いいえ、全然!」
「………そうか。あれでケガする前は結構モテてたんじゃが」
「……やっぱりですか?そうじゃないかと思ってました」
顔半分に大きな傷があっても、かつての端正さがわかるのだ。怪我を負う前はさぞ男前だっただろう。それに、大きな声では言えないが、シエラには却って今の姿が格好良く見えるのだった。背中を見せず熊に立ち向かった勇敢さの証、そんな風に思えて感心してしまう。
「じゃろ〜?でも婚約してたし、婚約者一筋だったからの〜…」
「‥‥…あ〜なるほど‥」
「……アルマン様、それは言わなくてよろしいのに」
「……やっちまったわい」
キーファにはまだ癒えきれぬ傷があるのだ。シエラからクラウディオへの現実逃避めいた恋情とは違うだろう。それは仕方ないのだ。
◇
嵐のようなファーストコンタクトの後、キーファは少し後悔していた。
シエラと暮らし始めて早一週間。ぎこちなさはあれど、シエラは出会った時と変わらぬ裏表の無さでコロコロと笑うのだった。もしも、あのまま娼館にいたら、人間関係に疲れたり腹の探りあいにうんざりした男達にさぞや人気がでただろう。なにせ、大怪我と婚約破棄を経て人間不信気味だったキーファがそうなのだから。
最初は一緒に暮らしたら面白そうだくらいに思っていたのが、暮らし始めて早々にキーファはシエラのことが好きになっている。かつて毎晩のように蘇っていた元婚約者のこともぼんやりし始めていた。
シエラの生家は子爵家だったらしいが、継母姉にこき使われていたせいなのか、まめまめしいところがあり、昼間はアルマン陛下のカード遊びに付き合っているらしい。
総じて、シエラを身請けしたことはキーファにとって良いことだった。しかし、素直にその喜びに浸れないのがキーファという人間だった。少し冷えた頭の中で、どうしても考えてしまうのだ。シエラにとってそれが本当の幸せだったのかと。もしかしたら、もっと良い条件の相手が彼女を身請した可能性だってあったのだ。もっときちんとした、見た目に難のない誰かが。
そもそも、面白い娘と出会った勢いで身請してしまったが、それも傲慢だったのではないか、とも感じている。不幸な娘を救済した、という自己満足と自己陶酔は本当に全く無かっただろうか?
◇
シエラはお忍びカードゲームの声がかからない時、都トキウスを探索して楽しんでいる。故郷グンディーマがいかに田舎だったのか、都を歩いていると痛感するが、そこに軽蔑や悲壮はない。グンディーマにはグンディーマで良いところがある。トキウスはトキウス、グンディーマはグンディーマ。比べてどうする。
「ねえねえ、あなたおすすめのレストランとか、あるの?」
今日は仕事が休みのキーファが探索に付き合ってくれていた。シャツと脚衣のラフな格好だけれど、それが格好良く見えるのは、シエラがキーファのことを好きになり始めている証拠だろう。
「ん?ああ、そうだな。この目抜き通りをちょっと行った先に、美味しい魚料理の店がある。夕食はそこにするか?まだ時間が少し早いが」
「そうします!私、きちんとした魚料理ってあんまり食べたことないの…焼いただけの川魚は食べたことあるけど」
塩を一振り、パリッとした皮には焦げ目がついて、川魚はあっさりとした美味しさだった。
「ああ、そうだよな。グンディーマは内陸だし、俺も川魚をたまに食べるくらいだった。海の魚は初めて?」
「はい!楽しみです」
二人の出身はグンディーマのはしっことはしっこだった。だから、生活圏は全く被ってはいない。でも、ほとんど同じ気候に食べ物にそびえるアミサルナ山脈を見て育ったという事実は二人の距離を自然と近づける。この一週間でお互いの経歴や苦労話などを分かち合い、あとは気まずささえ取れれば…と思うのに、なかなかそのチャンスが巡ってこない。
シエラは真面目に考えてみるが、自分たちを隔てる見えない壁をどうやったら取り除けるのか、まだ分からずにいる。キーファはキーファで黙していて、何を考えているのかを気取らせない。
都の目抜き通りは、美しい石畳が延々と続いている。綺麗なお店が立ち並び、皆一様に忙しなく、そして楽しそうにしているのだった。混雑を理由に緩く手をつないだ二人は、少しの緊張感をまといながら歩いていたが、瀟洒な洋品店に気を取られたシエラが誰かにぶつかり、二人の手が離れる。
「あっ‥‥ごめんなさい」
キーファがシエラを見やると同時にそのぶつかった相手が声をあげた。時が止まったかのようだった。
「…‥‥…ああっシエラ!まさかまた君に会えるなんて…!!これはもう……運命だぁ!」
シエラとキーファの目の前にいるのはあのクラウディオに違いなかった。グンディーマで会った時と変わらぬ優男は、悪びれもなくシエラの元へと寄ってくる。
「あの日は‥約束の場所に行ってもいないし…本当に心配したよ!ああっ神様!あなたに感謝します…!」
シエラには一瞬迷いが生まれた。クラウディオは本当に何も知らず、自分は継母姉の手にかかって娼館に売られてしまったのではないかと思いそうになる。
しかし、残念ながらミラファンのマダム・シャルレーヌから、今回の件はクラウディオ・ブロンデルという男の手引きと教えてもらっている。クラウディオの名前を出さずに聞いて、その答えだったのだ。ついでにクラウディオがその界隈では有名な女衒であることも知ってしまった。色恋で引っ掛けた女性を娼館に売っては、博打にのめり込んでいるらしい。
「僕たち、ここで新しい生活を始めるべきだよ!」
「……………」
「………シエラ?」
シエラの横にいるキーファのことが見えていないのだろうか。こちらが全て知っているとも知らず、なんと愚かなことか‥猿芝居にも幕引が必要だろう。心を無にしたシエラがクラウディオへと歩み寄る。
「‥‥‥‥シエラ?」
キーファの困惑した声。クラウディオが勝誇った顔で腕を広げる。
「‥‥‥‥‥‥‥えいっ!!」
「‥‥‥‥ぐぅっ!!」
「‥‥シ、シエラ?!」
シエラは容赦無い金的を繰り出した後、猛然と目抜き通りを駆け出した。見事なまでのヒットアンドアウェイ。クラウディオは声にもならない叫びをあげて蹲る。脂汗を垂らすその悲壮な姿に、道行く人々が立ち止まり始めた。これではシエラが悪いと勘違いされてしまうのではないか。そう考えたキーファが声を上げる。
「……みなさーん!!!この男はさっきの女性を騙して娼館に売り払った最低野郎です!!手助けご無用!!!」
通行人たちが一斉をキーファを見て、そしてクラウディオを見る。
「……まあ、なんてことを…!女の敵よ!!」
「全くけしからん!」
「当然の報いだな!!」
「そのまま使い物にならなくなりゃ良いのよ!」
「「「うんうん!」」」
気遣わしげだった人々は馬鹿らしくなったらしく、各々道を急ぎ始める。
「…ぐぅっ……きさま……」
「……お前、反省してないな?」
キーファは眉を顰める。
「全部バレてるぞ」
「‥‥‥ふんっお前‥なんだよ?シエラは今こんな醜男と一緒なのか?早速身請されるなんて俺の目に曇りは無かったな‥グンディーマくんだりまで行った甲斐があったってもんだ」
「‥‥‥‥はあ」
キーファからはため息しか出てこなかった。こんな擦れた男に騙されるなんて、シエラはよっぽど大変な生活を強いられていたのだろう。
「‥‥‥‥‥クラウディオ!!?まあ…!なんてことなの!?」
突然、鈴を転がしたような声が響く。キーファにとって馴染み深いその声。
「‥‥‥‥え?」
「ああっ‥わが女神、テレジア‥!」
「‥‥‥テレジア?」
「えっ‥‥‥あなた、まさかキーファなの…?」
「…?知り合いなのかい…?」
「…………元婚約者だ」
「………ほんとにキーファなの?」
「ああ、まあ……」
「……………ほんとなの!?…あんな大怪我だったのに……?」
「……………へぇ、あんたが例の婚約者か」
「………そうだが?……元だ、元」
「……あんな大怪我だったのに却って格好良くなってない…?どういうこと…?」
「君こそどういうつもりなんだ?こいつは有名な女衒だぞ。こんなのと関わっていると知ったら、君の御母上は浮かばれないだろう」
「…ぜ、女衒!??ほんとなの!?」
「……ちっ余計なことを…!!」
「もうこんな奴は放って帰ったほうがいい、テレジア。そうするべきだ」
「………あなたが送ってくださるの?」
テレジアが頬を赤らめながら問いかける。以前のキーファなら、彼女のお願いを快く聞いていただろう。でも、それはもう過去のことなのだ。
「謹んで辞退します。それでは」
「待って!……都合が良いのは分かっているけど…わたしたち、やり直せないかしら…?」
「無理だ。もう俺は結婚が決まっている」
「そんな!」
「へぇ…シエラはついてるな」
テレジアが茶々を入れたクラウディオをキッと睨みつける。
「うるさいわよ!!」
「へぶっ!ぐぅ……」
テレジアが靴のヒールでクラウディオの尾てい骨をガンと蹴りつけた。クラウディオは目を剥いてとうとう動かなくなった。
「……あのう、送って差し上げては?」
「え!」
「……シエラ」
「……その、すごく強く蹴っ飛ばしたから…死んでないかと思って確かめに戻ってきたの。……大丈夫なの?」
「……ああ、問題ない。帰ろう、シエラ」
「でも…」
「良いんだ。終わったことだ、お互いに」
「…………」
「……テレジア、元気で」
「………………………」
テレジアは納得いってなさそうだったが、キーファはシエラの腰を抱くようにして二人の家へと歩き始めた。
歩きながら、シエラは掛ける言葉を探す。元婚約者にその気があるなら、二人はやり直せるのではないかと考えて。でも、キーファがあまり話したくないことは雰囲気で伝わってくる。大体、大怪我をした時には三行半で婚約破棄になったのに、立ち直ったキーファを見てから、関係を戻したいなんて都合が良すぎる。シエラが同じ目にあったとしても、不信感が募ってやり直すなんてとても無理だろう。
◇
アルマン陛下の隠れ家の一つだったよくあるタウンハウスは、狭すぎず広すぎず、これから結婚する若い男女にはぴったりの広さだった。しかし、一見普通の外装に対して、中は驚くほど豪華なのだった。
二人は無言のままタウンハウスへ帰宅して、今はシエラがお茶の準備をしている。キーファはぼんやりしながら食堂の椅子に座り、その後ろ姿を見つめていた。淡い榛色の髪はとても細く、光をよく通す。ゆるくうねりながらもさらさらとして、揺れるとつい目で追ってしまう。萌えるような黄緑色の瞳は柔らかく、肌は抜けるように白い。シロツメクサのような可憐さと言うべきか。あの娼館で初めて会った時は、灰だらけで見る影も無かったし、あまりのことにその美しさをきちんと認識できていなかったらしい。新居で一緒に暮らし始めてから、キーファはシエラの可憐さに何度もはっとさせられていた。
「‥‥お待たせしました」
「ああ…ありがとう」
ティーセットをテーブルに置いたシエラが、キーファの横に腰掛けた。
「……なんだが今日は色々ありましたね……まさか、都でクラウディオに会うなんて思ってもみなかったけど…でも、本当に踏ん切りがつきました。清々しましたし」
キーファの脳裏にシエラの鋭いキックが蘇る。
「……ああ、それなら良かった」
「…………」
「…………」
「…………あの、テレジアのことは本当によろしいの?」
「…え?ああ、もういいんだ。なんていうのかな…彼女が女衒なんかにだまされてて、俺はそれにいたく失望したらしい。冷たいよな」
「………まあ。でも、今回の件で勉強になったでしょう。私は彼女のこと悪く思えないわ。だっておんなじ人に騙されてるんですもの!」
「……なるほど」
「……その、彼女の方はやり直したそうだったから」
「…無理無理、都合が良すぎる。ただ、少し考えていたんだが、君は俺なんかで本当にいいの?」
「え?」
「俺は…不遜にも君を助け出したような気持ちになって酔ってただけかもしれない。君にはもっと別の選択肢があったのでは、と……アルマン陛下にも話をしてしまったから、すぐに結婚ということになってしまったが…嫌じゃないのか?」
「…?」
「身請された君が、俺と対等な立場から意見を言ってくれるとは考えていない。だが、本当に遠慮はいらない」
「…………」
「………いまならまだ間に合う。朝起きたら居なくなっていたで、ギリギリ誤魔化せる。最悪俺のせいにすれば良い」
「……………」
「……………シエラ?」
「……そんなふうに思っていたの?…私、考えもしなくて…」
「え?」
「………わたしって単純でしょう?あなたと会っていなかったとして、その後どんな選択があるかなんて考えもしなかった。むしろ、あなたの方こそ…やり直すという選択肢もあるんじゃないかしら?少なくとも彼女の方はやり直したそうだったし…」
「……そうかもしれないが、それはさすがに嫌だよ、俺も」
「……それはそうでしょうけど…それに、ここ二週間があまりにも目まぐるしいから、まだ整理がついてないの」
「……そう」
「………でも、根拠を聞かれても困るけど…あなたは誠実そうだし…気まぐれだったのかもしれないけど、身請してくれたでしょう?それってこの上なく運の良いことだと思うの…それに、あなたの気持ちを考えると大きな声では言えないけど、その顔の大きな傷もちょっと格好いいの。物語に出てくる強者みたいな雰囲気があるし‥」
「物語の、強者‥‥」
「…以前のあなたの姿を知らないからこそ、そう思うのかもしれません。あなたが気にしているなら触れないほうが良いと考えていたけど、素敵だなと感じていることは、伝えてもいいのかなって」
「……………」
キーファは言葉を失っている。
「つまり、私はあなたに身請けされて良かったと思っているし、しかも、あなたのことも素敵だなって思ってるの。それって一番いいことじゃないかしら?…でも…あなたは、その…すごく傷ついてる…心の方がね?私と一緒にいて、今、あなたは……楽しい?」
「……楽しいよ、すごく」
不安げなシエラに、キーファが喘ぐように答える。
「………良かった」
あったかもしれないことを数えても想像しても、それはどうにもならない。母が死ななければ…父が再婚しなければ…そうだとしても、その先に何があったかなんてわからないのだ。もっとまずいことになっていた可能性は0ではない。
だからこそ、目の前のことに一生懸命向き合うしかない。シエラがキーファに何かしてあげられるとしたら、選び取った選択が最善だと思えるように、楽しい時間を一緒に作り上げていくことだろう。でも、それはシエラ一人が頑張っても無理なのだ。キーファが手伝ってくれなければ。
「…‥ねえ、ずっと気になってたんだけど‥ちょっと触ってみてもいい?」
「…あ?…いいよ」
シエラがキーファのもう開かない左目にそっと指先を添えた。顔を近づけてよく見てみる。盛り上がった傷跡はツルツルとした表面で、濃い桃色だ。可愛い色だが禍々しくもある。一体どれほどの深手だったのだろうか。一年経つと言うけれど、きっと一生消えないはずだ。
「……くすぐったい」
「………私には持参金も無いし、あなたになにかお返ししたいけど…どうしたらいいのかなってしばらく考えてたの。だから、一緒にいて楽しいと言ってもらえて、少し安心。なにかあれば遠慮なく言ってね」
「……ああ」
サワサワと傷跡を撫でると、時折、キーファの体が揺らぐ。皮膚が薄いのだろうか。指先でかりかりとするとぴくりと反応するのが面白い。目を瞑り、時折まつげを揺らすのは熊を撃退した屈強な男、なのにどうしてこんなに可愛らしいのだろう。倒錯めいたものを感じながら、シエラはゆったりとキーファの様子を見つめる。
「……んっ‥‥やっ‥‥なに?」
「‥‥おかえし」
夢中になっていたシエラをキーファが自分の膝の上に抱え上げる。体が触れ合いシエラが居心地悪そうにもぞもぞとして、さらに近くなった距離に吐息も絡みあう。
触れたところから二人の体がじんわりと温まっていく。照れた様子のシエラはキーファの腕の中じっとして、その様をのぞき込むとシエラはついついと目を逸らす。
「………照れてる?」
「……違うもの」
「本当?」
大きな手がシエラの左頬を捉えた。そうされると、なぜかもう視線を逸らすことができない。二人はただじっと見つめ合い、徐々に顔が近づいていく。躊躇い合いながら、軽く一度、二度と唇が重なり合って、また静かに見つめ合う。優しくはまれた唇から、じんとした官能が広がっていく。
どんなに言葉を尽くしても満たされなかった飢え。その答えにシエラはようやく辿り着いて。




