第77話 モブは知っていた。そして魔女は
轟音が容赦なく鼓膜を叩く。
凄まじい衝撃波が、校庭を走り抜けた。
空気を歪ませて、一瞬だが酸素を見失う。
「この衝撃……あの時とも違うぞ」
ビリビリと地鳴りが足元から伝わる。
キャンピングシートが煽られ、重箱が吹き飛び、悲鳴と混乱が渦巻く。
「……異界との扉」
レギュラーキャラは冷静に分析を始めた。
「何が起きるんですか……」
他の生徒や教職員は阿鼻叫喚の中だ。
ヒーロー補正と呼ぶべき魔力の高さ。
揺れる大地にも足をすくめない。
オレはそんな彼らを撮るために地面に這っているというのに。
だがファインダーから目を離さず、カメラを下げずに言った。
「この振動自体は気にしなくていい」
散々、世界のネタバレをしたせいだろう。
ピンと張り詰めた顔で、レギュラー数名がオレの言葉に鋭く反応する。
「……これも、伝承か?」
東雲が、険しい顔で空を睨んだ。
「守部が言っていたやつか……?」
真昼が、すでに臨戦態勢に入りながら呟く。
オレは、空に不気味に浮かぶ月を軽く見やった。
そして素直に、心からの言葉を続けた。
「まだ、大丈夫そう。オレだ。オレが言ってる。だったら、お前らが戦ってるとこ、最高にカッコよく撮れる!」
その瞬間。
緊迫していた全員の顔が、「え?!」と間抜けに歪んだ。
「戦う……だって?」
「今日はお月見ですよ」
その次の瞬間だった。
「その月をよく見るんだ」
——空に浮かぶ月に、ポツポツと黒い影が逆光で見え始めた。
最初は、ただの黒い点だと思っただろう。
だが、ただ黒く見えているだけではない。
実体を伴った黒い影が、多数。
いや、無数だ。
「雲に覆われて」
「雲というより、霧というか」
「ひ……虫?」
なら、月光調?
そんな生易しいモノじゃない。
「よく見てみろ。虫食いに見えるけど違う」
「だったら」
「魔物だよ」
一年前にこの学苑で戦った、あの異界の魔物。
それが大量に発生し、空からこちらへ向かって飛来してくる。
「それ……伝承に」
「だから戦闘準備っ。オレはカッコよく……撮るから!」
禍々しいその姿は、半年と少し前に村を襲ったものと同じ種類だった。
だが、数が明らかに多すぎる。
空を覆い尽くすほどの、絶望的な大群。
暮小路が、すぐさま我に返り鋭い声を上げた。
「今すぐ月見会の中止を——!」
他のヒーローたちも
「結界を張れ!」
「迎撃態勢だ!」
と、即座に動き出そうとする。
絶叫して逃げ惑う生徒たち。
混乱を極める教職員たち。
その中で、オレは淡々と言った。
「暮小路、お前も戦うんだよ」
「私が? 私には役目が」
「役目とかあとにしろ」
だって、お前らはゲームのヒーローなんだから。
戦うのが、ヒロインを守るのが、お前らの仕事だろ。
しっかりイベントスチル、回収させてくれよ。
そんな身勝手なオレの言葉を。
月詠だけが、ある種の『答え』を孕んだような目で、じっと見つめていた。
◇
この光景……だ。
ずっと、何度も、夢で見ていた。
空が、真っ黒な影で埋め尽くされていく。
不気味な満月を背にして、無数の何かが降りてくる。
夜風が、いつもとは違う、鉄と血のような嫌な匂いを運んでくる。
——あの頃から、私はこれを見ていたのだ。
小さい頃。
まだ、遠く離れた田舎の村にいた頃。
私の家は、村の端にある小さな農家だった。
土間の匂いと、囲炉裏から立ち昇る煙の匂いがする、古くて狭い家。
冬には板張りの床から隙間風が入り込んで、ひどく冷たいけれど。
父と母の笑い声が絶えない、とても温かい場所だった。
最初は、ただの黒いモヤだった。
土間の隅にある、古びた大黒柱の影。
庭に生えている柿の木の根元。
そこに、ふわりと漂っているだけだった。
私はそれを見て、囲炉裏の火をいじっていた母に言った。
「お母さん、あそこにあるよ。黒いの」
母は、困ったように優しく微笑んで、何も見えないと言った。
畑仕事から帰ってきた父も、私の頭を撫でながら、何も見えないと言った。
でも、私にははっきりと見えた。
風もないのに、それは生き物のようにうごめいていたから。
次第に、村の人は私を見る目を変えていった。
不気味がられた。
遠ざけられた。
「また、あの子が変なことを言っている」
「気味が悪いわね。何かに憑かれているんじゃないか」
背後から小声で話されるのが、いつも聞こえていた。
だから、私はもう、口にするのをやめた。
私の目がおかしいだけなんだ。
妄想がひどいだけ。
疲れているだけ。
そう、自分に思い込もうとした。
本当は、すぐそこに『見えている』のに。
影は、私が無視しても、現れ続けた。
そして現れるたびに、冷たい何かが私の中に入ってきた。
指先が氷のように冷たくなり、胸の奥がざわつく。
やがて、その黒い影は私の夢の中にまで出てくるようになった。
毎夜、空を覆い尽くす黒い影の夢にうなされた。
心配した両親が、遠くの町から医者を呼んでくれた。
でも、首を傾げて、何も分からないと言われた。
「ただの気のせいでしょう。子供にはよくあることです」と。
私は、それを放置した。
見ないふりをした。
ただの妄想だ、絶対にそうだと自分に言い聞かせ続けた。
その結果が——。
私の内側に溜まっていた『魔力』の、取り返しのつかない暴発だった。
近くにいた、一番仲の良かった友人を。
私自身でも抑えきれなかった力が、深く傷つけてしまった。
その瞬間に、分かった。
ああ、あれは妄想ではなかったのだと。
私に見えていたものは、本当の『影』だったのだと。
憲兵が村に来た。
小さな村では、見たこともないほどの大きな騒ぎになった。
村の人たちは、もう誰も、私を受け入れてはくれなかった。
あんなに温かかった両親すらも、怯えた目をして、私を庇いきれなかった。
「帝都に行け。あそこの学苑ならば、あるいはその力を……」
そう言われて。
私はたった一人で、逃げるように上京した。
駅には、見送りに来てくれる人は誰もいなかった。
両親すらも、姿を見せなかった。
冷たい風が吹くプラットホーム。
渡された片道切符と、少しばかりの荷物だけを持って、私は汽車に乗った。
ガタガタと揺れる、硬い座席。
窓の外の景色が、どんどん見知らぬものに変わっていく。
夜になり、真っ暗になった窓ガラスには、ひどく怯えた自分の顔だけが映っていた。
私は、世界から切り離されてしまったんだ。
たった一人で、これからどうやって生きていけばいいのだろう。
その時の孤独と恐怖を、今でもはっきりと覚えている。
……あの時の夜空と、今の空が、重なる。
あの時から見続ける悪夢は、やっぱり——
私は、ずっとこれを見ていたのだ。
ずっと、心の底で怖れていた。
見ないふりをして、逃げ続けてきたものが。
そして今——
ついに来てしまった。




