第64話 暮小路家の演説式
六月上旬。
梅雨入り前の、じっとりとした湿気が肌にまとわりつく季節だ。
ざわつく教室で、オレは綺羅星に視線を流した。
彼女は、桃色の花びらのようなボブヘアを揺らし、すぐにスッと目を逸らす。
あからさまな警戒だ。
だが、オレには圧倒的な余裕がある。
東雲ルートと夕星ルート。
すでに二つの個別ルートを強制的にこじ開けているからだ。
その余裕顔のまま、オレはガタッと席を立って教室を出た。
向かうのは、廊下を挟んだ隣のクラス。
次期宰相の息子、暮小路慧はオレたちと同学年だ。
「い……いきなりなんですか」
彼は最初からオレの采配に対して積極的だった。
だから、オレも躊躇なく気軽に話しかける。
宰相の息子であり、生徒会長である彼——暮小路は東雲と夕星の件も、独自の情報網で知っているはずだ。
「暮小路。オレに何か話はないか?」
彼が細めた眼鏡の奥で、小さく咳払いをする。
そして、言葉を紡ぎ始めた。
状況を鑑みて、ここはオレに任せるしかない。
そう論理的に判断したらしい。
「話……。それでは守部。私の頼みを……」
その静かな声に被せるように、オレが言った。
「議事堂だろ。悩むことはない。直接話せば、月詠は来てくれる」
暮小路は少しだけ目を見張った。
でも、図星だ。
そのまま、オレの言うとおりにAクラスへ向かった。
そして、Aクラスの入口。
そこには、鮮やかなマゼンダの瞳を光らせて、綺羅星が立ちはだかっていた。
だが暮小路は、冷たい視線で一瞥する。
すると、日和見貴族としての生存本能が働いたのか、彼女はすっと一歩退いた。
その鋭いやりとりに、月詠は困ったように眉を寄せる。
「そんな怖い顔しちゃ、駄目だよ」
暮小路はハッとして、慌てて深く頭を下げる。
「す……すみません。学苑で権威を振るっては……」
月詠は不思議そうに、小さく首を傾げた。
輝く夜空を溶かしたような、美しい青い長髪がサラリと流れる。
「もう。そういうことじゃないよ。常闇くんの件……だよね」
オレの想定以上に、話がスムーズに進んでいく。
「はい。このままでは。……月詠さん」
「うん。私に出来ることなら何でも」
月詠のその素直な一言で、オレたちは帝国の中心部へと向かうことになった。
◇
学苑の門前に用意されていたのは、暮小路家が手配した豪奢な馬車だった。
車内は、上質な革の匂いと、車輪が石畳を弾くリズミカルな音で満たされていた。
オレの向かいの席には、暮小路慧と月詠が並んで座っている。
普段は「すべて掌の上」といった余裕の腹黒スマイルを崩さない暮小路だ。
だが、今は少し様子が違った。
彼は膝の上に分厚い書物と、文字がびっしり書き込まれた束になった資料を広げている。
時折、伊達眼鏡の位置を直し、目を細めて懸命に活字を追いかけていた。
口元でブツブツと、演説の最終確認でもしているのだろう。
エメラルドグリーンの柔らかい髪、馬車の揺れに合わせて微かに揺れる。
彼からは、いつもの胡散臭さは感じられない。
国を動かすという圧倒的な重圧に、彼なりに必死に立ち向かっているのが分かった。
そんな彼の真剣な横顔を。
隣に座る月詠が、なんとも微笑ましいものを見るような目で見つめていた。
彼女の美しい髪が、窓から差し込む光を浴びてキラキラと輝いている。
一生懸命な男の子を優しく見守る、慈愛に満ちた聖女のような表情。
(……うん、完璧な構図だ。暮小路、普通にいいヤツなんだよな。オレよりもずっと——)
カシャ——
乾いたシャッター音が、狭い車内に小さく響いた。
その音にハッとしたように暮小路が顔を上げ、月詠がふんわりと首を傾げる。
オレはカメラを軽く掲げて見せた。
「公式記録係の仕事だから」
そう言うと、暮小路は少しだけ照れくさそうに苦笑し、再び書物へと視線を落とした。
やがて、馬車の窓から巨大な建造物が見えてきた。
帝国の政の心臓部、国会議事堂だ。
難攻不落の巨大な要塞のようだった。
重厚な灰色の石造りの外壁が、どこまでも高くそびえ立っている。
天を突くような鋭い幾つもの尖塔。
正面に並び立つ何本もの太い円柱が、歴史の重みと権力の威圧感を無言で放っていた。
「着きましたね」
暮小路が、パタンと書物を閉じて深く息を吐き出した。
馬車がゆっくりと停まり、重厚な鉄格子の門をくぐって、正面の車寄せへと滑り込む。
「行きましょう、月詠さん」
「……はい」
彼が先に降り、振り返って恭しく手を差し伸べる。
月詠は少し緊張した面持ちでその手を取り、馬車を降りた。
オレもその後を追い、カメラのレンズを磨き直す。
ここから先は、宰相ルートの超重要政治イベントだ。
国を揺るがすあの重苦しい議会へと、オレたちは足を踏み入れた。
◇
帝国の国会議事堂。
想像を絶するほど巨大で、重圧感のある荘厳な空間だった。
遥か頭上にある高い天井には、古びてくすんだステンドグラスが嵌まっている。
そこから落ちる光はひどく淡く、埃っぽい空気が重く淀んでいた。
鼻を突くのは、古い紙の匂い。
床材に使われている年代物の木と、冷たく固い大理石の匂いだ。
数百人の議員たちが、左右に分かれて座り、低いざわめきが常に響いてくる。
柔らかな若葉のような髪をした青年が、重厚な壇上に立っている。
いつもの丁寧で、耳に心地よい話し方だ。
貼り付けたような見事な笑顔も交えている。
だが、マイクを通した語気だけは、ビリビリと肌を打つほど強い。
「皆様。今、議会は前にも後ろにも進めておりません」
彼の声が、巨大な空間の隅々にまで反響する。
「特に、朔の国との関係について。警戒か、対話か。結論は出ていない」
オレは議員席の狭い間をすり抜けながら、カメラを構える。
柔らかい絨毯の上で靴音を殺し、前列の隙間から構図を取った。
カシャ——
乾いたシャッター音が響く。
前列に座る年配の議員が、眉をひそめてちらりとこちらを見た。
だが、オレの腕章を見て、視線を外した。
国の中枢でも、誰もオレを止めようとしない。
「この停滞を続けていては、国が持ちません」
暮小路の声に、熱がこもる。
「だからこそ、私は今日、一人の少女を連れて参りました」
オレは素早く横に回り込む。
彼を見上げるような、壇上を斜めから捉えるダイナミックな構図。
机の上に立ち、構える。
カシャ——
「これからの時代を担う、才能あふれる人間です」
暮小路の、夕焼けと夜が混ざり合うような不思議な色をした瞳。
その優しいまなざしが、一直線に月詠へ向けられた。
月詠の小さな肩が、ビクッと跳ねる。
「……竹取月詠さん」
呼ばれた彼女は、戸惑いつつもゆっくりと壇上に立った。
青い髪が、淡い光の中で小さく揺れる。
たったそれだけで、ざわざわと議員たちが一斉に動き始めた。
重い革張りの椅子がきしむ音。
誰かが焦って資料の紙を繰る、バサバサという音。
数百の鋭い視線が、一斉に一人の少女へと集中する。
オレは月詠のすぐ近く、演台の死角まで寄った。
そして、ほとんど聞こえないほどのヒソヒソ声でカンペを出す。
「……望月は、帝国は私たちの時代です……で」
本当に、竹取月詠は大忙しだ。
本来は一人のルートでいいのに、桃色髪の誰かが邪魔したせいでだ。
色んな展開に対応しなければならない。
世界を救うためなんだから、カンペくらい良いだろう。
「も……望月は、帝国は……私たちの……時代で……」
月詠は震える声で、たどたどしく繰り返す。
声はマイクを通しても、ひどく小さい。
でも。
彼女が放つ特異な魔力の波長がある。
議事堂の澱んだ空気が、徐々に変わっていく。
肌が粟立つような、清涼で澄んだ空気が会場を駆け抜けていく。
オレはさらに前へ出て、膝をついて構図を変えた。
カシャ——
一体、何が起きたのか。
実は、オレにも分からない。
ただ、月詠という人間の持つ底知れない凄さは分かる。
圧倒的な空気のうねりとして伝わってくる。
そんな重苦しい熱気の中で。
オレは内心、気軽に考えていた。
「んー。イベントスチルは知ってるけど。こんなピリピリした空気だったのか。暮小路も大変そうだ」
◇
緊張感に満ちた演説は終わった。
月詠は結局、あの写真の後、暮小路によって帰らされた。
オレはしてやった感を味わいつつ、カメラの手入れをしていた。
「……守部くん」
「ん?」
暮小路だった。
オレを見つけて、議事堂の薄暗い隅のほうへ軽く手招きした。
「こちらへ」
議員たちの激しいざわめきが、まだ遠くで響いている。
彼は、冷たい石の壁に背を預けていた。
その顔からは、いつもの完璧な笑顔が薄れていた。
そして疲れた声で、静かに話し始めた。
「あの議会は、右と左に分かれているように見えて、その大半は野党なんだ」
オレは、とりあえず優しく頷いた。
まあ、そういうことなんだろう、分からないけど。
「私にもっと力があれば、国のねじれを戻せる」
何やら難しい政治の話を、真正面から真面目に聞かされる。
オレは少しだけ首を傾げた。
ねじれているらしい。
きっと国を揺るがすような、重い話なんだろう。
「いや、今は維持するだけでいいんです」
オレはまた少し困惑する。
彼は戻せる、と力強く言った直後に、維持するだけでいい、と訂正する。
結局、どっちなんだろうか、オレに何故話す?
「だから、月詠さんが欲しい」
で、直球だった。
オレは完全に困り眉になった。
言ってることはよく分からないが、とにかく大変そうだ。
月詠が欲しい。……それは、まぁ。
「私は卑怯者ですね。君にしか、こんな弱音は吐けないんです」
暮小路は言葉を切って、そこで小さく溜め息を吐いた。
眼鏡の奥の瞳を伏せ、真面目な顔で静かに続ける。
「君の家は、いや君は。……いずれ記憶が消える運命にある、と聞いている。だからこそ、今のうちに……」
オレは、首から下げたカメラの革ストラップを指で弄りながら、適当に頷いた。
また、言ってる。
そりゃ、ループ式のゲームだから。
周回プレイで、オレたちモブの記憶が消えるのは、当然の仕様だ。
「宰相ルートの政治イベント。 オレ、いけます。了解です」
彼は黄昏色の瞳を軽く閉じた。
その奥底から、緑色の魔力がにじみ出ている。
「……これからも頼みます」
満足そうにうなずいて、オレに背を向けた。
そして数名の議員のところに歩いていった。
オレは内心で、最後の最期に本音を盛大に漏らした。
てか、右って何? 左って何のこと? 乙女ゲームの選択肢?!




