第63話 夕星家の結界術式
早いもので、五月。
四月のトップバッター。オレは王子ルートを無事にこなした。
次は、誰にしようかと考えた。
ホームルームの終わり際。
オレは同じクラスの綺羅星キラと、バチバチに睨み合っていた。
彼女の赤紫色の明るい瞳が、いつになく鋭く細められている。
指先まですっぽりと隠れた萌え袖を口元に当て、露骨にオレを警戒していた。
オレも負けじと睨み返す。
教室の空気が、ピリピリと静電気を帯びたように痛い。
「……駄目……だな」
そう内心で呟いて、オレはガタッと席を立った。
真っ直ぐに、三年生の棟へ向かう。
「同じ土俵で戦ったら負ける」
アドバイザーの話では、次は騎士系真昼剛らしい。
だが、オレは敢えて外した。クール系の魔術ルートだ。
「夕星律。男のオレでも惚れるくらいだし」
そして移動。
夕星律は、いつものように窓際で一人、分厚い魔導書を開いていた。
目にかかるほどの淡い藤色の髪が、午後の光に少し透けて見えている。
色白で線の細い横顔は、彫刻のように整っていた。
「三年生、おめでとうございます」
声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
左目の下にある星のようなほくろが、アンニュイな雰囲気を際立たせている。
「……君か」
冷たい声色だった。
相変わらずの、見事な塩対応である。
「例の儀式、月詠ならきっと喜んで参加してくれると思います」
オレが核心を突くと。
夕星の色素の薄い瞳が、わずかに見開かれた。
軽く目をむいた、という感じだ。
「……場所は。それと時間は」
◇
その後。
オレンジ色に染まる夕暮れの校舎。
夕星は一人、渡り廊下に佇んでいた。
いつになく、思い悩むような困った顔をしている。
そこへ、綺羅星と月詠が通りかかった。
皆を平等に気にかけるヒロイン月詠は、彼の様子を放っておけない。
「夕星先輩、どうされたんですか」
だから、優しく声をかける。
夕星は、憂いに満ちた目で月詠を見た。
そして、静かに切り出した。
「二月に、社が壊れた。……あ、君たちも、そこにいたよね」
月詠は小さく頷く。
彼女の、夜空を溶かしたような深い青の髪がサラリと揺れた。
彼女も、あの事件のことは知っている。
「結界が、不安定なんだ」
「そう……だったんですか」
「うん。僕が舞を踊っても、異界の生物はやってきたしね」
夕星はそう言って、少しキザなセリフを口にした。
「僕だけじゃダメみたいなんだ。 でも、君は特別だから。満月のように……すべてを見透かす力があるなら」
月詠は使命感に駆られた顔になり、
「分かりました。私にできることがあれば」
そう答えた。
少し離れた場所から綺羅星が、半眼でオレを睨んでいる。
オレは構わず、首から下げたカメラをスッと構えた。
カシャ
「月詠、あたしもぉ。神社はあたしも守ったし」
綺羅星が、月詠たちについていきそうになった。
だからオレは、彼女の耳元で小さく囁いた。
「二人が向かうのは大社だ。清められた者、認められた者しか入れないぞ。ま、綺羅星は、部外者は弾かれるかもな」
「チッ……あんた。自分の特権を振りかざすつもりね」
彼女は悔しそうに唇を尖らせたが。
それ以上は、追ってこなかった。
◇
夕星家ゆかりの神社。
そこは、オレの想像を遥かに超える場所だった。
巨大な朱塗りの回廊が、波打つ海の上に浮かぶように建っている。
足元の板張りの隙間から、ザパン、ザパンと、重い波の音が響き渡っていた。
海風が肌に湿り気を残していく。
強い磯の香りに混じって、薄紫の香木の煙が静かに舞っていた。
白檀に似た、甘くて重い匂いが鼻腔の奥にへばりつく。
カシャ——
オレのカメラは、夕日を反射する海面も、その煙すらも美しく写し取る。
月詠は真っ白な装束を着て、丸い神鏡を持っていた。
鏡を、上と下へと交互に動かすだけの単純な動き。
でも、彼女がやると、神々しい舞のように優雅に見える。
オレは月詠と律のすぐ近く、死角になる柱の陰に隠れ。
ほとんど聞こえないヒソヒソ声で、祝詞のカンペを教える。
「月の御魂、ここに降りて、結界の揺らぎを鎮め給え……」
「つ……月の御魂、ここに降りて、結界の揺らぎを鎮め給え」
カシャ
「香木の煙と共に、清き力を通したまえ」
「……香木の煙と共に、清き力を通したまえ」
カシャ
「この鏡に映るは、守るべき国の姿。乱れを正し、安寧を願う」
「……こ、この鏡に映るは、守るべき国の姿。乱れを正し、安寧を願う」
カシャ
「望月の光よ、結びの糸を切れぬよう、ここに力を宿したまえ」
「……うん。望月の光よ、結びの糸を切れぬよう、ここに力を宿したまえ」
カシャ
夕星はあの二月の壊れた神社で魅せたまま
いや、専用の衣装もあって、今日は一段と可憐に舞っている。
そして、月詠が動くたび。
律から放たれる膨大な魔力が、薄紫の煙に乗って高まる。
二人の魔力を孕んだ煙が、鏡の中へと吸い込まれていく。
空気がビリビリと震え、肌が粟立つような圧力を感じた。
「ここに望月あり」
「ふぅぅ……。ん。ここに……望月ありっ」
最後に、月詠が持つ鏡が強烈な光を放つ。
その光の中に、巨大な魔法陣が海面を覆うように映し出された。
すると律の動きが、ふっと止まった。
舞の時とは違う、いつもとも違う、優しい瞳で彼は言った。
「終わった。ありがと……月詠」
月詠は、夕暮れの海を背にした夕星の美しさに、少し言葉を失っていた。
彼の一言で、「ハッ」と、ようやく我を取り戻す。
「あ。……もうこんな時間」
「うん。もう遅い。帰った方がいい」
「はいっ! 学生寮の門限が来ちゃう。先に着替えて帰りますっ」
月詠は足早に回廊の奥へと姿を消した。
オレはカメラを下ろしながら、内心でガッツポーズをとった。
魔術系ルートの重いイベント、無事クリア。
◇
月詠が足早に姿を消した後。
波音だけが響いていた神社の境内は、少し慌ただしくなった。
大人たちが、足早に儀式の片づけを始めている。
香木の残りを片付けたり、装束を畳んだり。
あるいは、波音に紛れるような低い声で、今後の打ち合わせらしき話をしている。
オレは何気なく、その様子をカメラのファインダー越しに見ていた。
「鳥居が海の上に立ってる……浮いてるのかな」
学苑の陰陽術の科目なんて、授業で受けたこともない。
目の前で行われた高度な儀式の意味も、オレに分かるわけがない。
呆けた顔で、海に浮かぶ朱塗りの柱を眺めていた。
すると、夕星がこちらを向いて、小さく顎をしゃくった。
「守部。こっちへ」
静かに誘導された。
大人たちの目が届かない方へ。
長く連なる石灯籠、その陰。
海に最も近い、境内の端のほうだった。
石の冷たさが伝わってくる場所で、ここには薄紫の煙がわずかに残っていた。
そこで、夕星は立ち止まった。
「……守部」
「はい。公式イベントはバッチリです」
夕星は小さく息を吐いた。
いつものクールな顔に、わずかな疲労の色が混じっている。
「あの結界……実は僕も、知らない部分がある……」
それは予想外の言葉だった。
クールで博識。
天才的な魔術の才能を持つはずの夕星律が、「自分も知らない」と認めたのだ。
「呪術は秘匿を重んじるものだからね。上の世代から教えられていない部分も多い」
授業があるかどうかさえ知らない知識だ。
そんなことを言われても
呆けるオレに向かって、彼は続けた。
「でも、もしこの結界が……単なる防御ではなく、別の意味を持っていたなら。だからこそ、僕には彼女が——規格外の力を持つ月詠が必要なんだ」
波間に揺れるような憂いを帯びた瞳で、真っ直ぐにオレを見つめた。
「これからも、協力してほしい」
そして、アレにも軽く触れられた。
「君の家は、守部の役目を背負った者は、いずれ記憶が消える運命にある……。そう聞いている。だから、僕と君との会話も消える。もっと強引に君を利用したい……」
オレの頭の中には、月詠と初めて会うお前の姿が、少なくとも五枚はあるんだが?
なんて言って、またペナルティは勘弁だ。
オレはカメラのストラップを弄りながら、適当に頷いた。
「魔術系ルートの重いイベント……了解です。協力します」
夕星は目を細めて、頷いた。
それ以上何も言わず、ただ薄紫の煙が溶けていく群青の空を見上げた。
オレは最後に一枚。
煙の残る境内と、彼の横顔を撮影してから、カメラを下ろした。
……クール系はこういう感じか。
トップの王子ルートに続いて、また重い政治と魔法の話を聞かされたな。
オレは一人、潮の香りを背に受けながら、夜の学苑へ向かって歩き出した。




