第57話 晴れやかなシーンに闇は訪れる
圧倒的な脱力感とともに、オレは深く、長いため息を吐き出した。
肩を包んでいたあたたかな治癒の光が、ふっと薄れて空気に溶ける。
恐る恐る腕を動かしてみると、先ほどまでブチブチと裂けていたはずの肉は、綺麗に塞がっていた。
「……治った。サンキュ」
「ううん。すごく痛かったよね。ごめんね」
申し訳なさそうに眉を下げる月詠。
だが、オレの疲労感の八割は、物理的なダメージによるものじゃない。
「それにしても、オレが絶対に来ると思ったからって……お前なぁ」
無惨に血で汚れた制服の襟元を引っ張りながら、オレは呆れ果てて言った。
「でも、来てくれた。それから話せた」
「結果論だろ、それは」
言い返しながら、オレは足元に転がっていたカメラを拾い上げる。
幸い、ファインダーもレンズも割れてはいない。
本体に少し擦り傷が入ったが、壊れていないだけマシだ。
ほっと息をつき、首からストラップを下げ直す。
ふと視線を上げると、月詠がじっとこちらを見つめている。
満月のように丸く大きな金色の瞳が、瞬きもせずにオレを捉えている。
「……なんだよ」
「ううん」
月詠は少しだけ首を傾げて、ふわりと笑った。
サファイアブルーの長い髪が、さらりと肩から滑り落ちる。
「今日だけじゃないなって、思って」
「は?」
「いつも、私が一番危ない場所に行く時。守部くんは、絶妙なタイミングで現れるよね」
ドキリ、とした。
胸の奥で、嫌な音が鳴る。
「……そ、そりゃ、オレは公式記録係だからな。シャッターチャンスを追うのが仕事っていうか」
「キラちゃんがわざと遠ざけたのに。それでも君は、迷わずここに来た」
「えっと、それは……。か、勘だよ。長年モブやって培った、ただの野生の勘」
しどろもどろになるオレの言い訳を、月詠は否定しなかった。
ただ、悪意も計算も一切ない。
純粋な好奇心と感嘆だけ。
――彼女は、空を見上げるような無邪気さでこう言ったのだ。
「守部くんって……まるで未来が見えてるみたい」
肩が、勝手に跳ねた。
カメラのストラップが指に食い込むくらい、力が入った。
心臓が一拍、変な場所に落ちた気がする。
「は? いや、なに、急に」
「ううん。今の言い方、変だったね。ごめん」
「いや別に変じゃないけど。変じゃない……けどさ」
全然、変じゃない。
なのに
頭の奥のほうで、けたたましく警報が鳴っている。
これは、オレが密かに決めているルールだ。
ゲームの外側に触れるようなことを誰かに言われる。
すると、システムにエラーが起きる。
頭痛。めまい。
下手すると——時間スキップ。
だったら、また同じことが起きたっておかしくない。
今度は前触れなしに、もっと悪いタイミングで。
だから、核心に近づく言葉には、全力で蓋をする。
「未来が見える? いやいや、オレは良いアングルを見つける為に……。前も言ったろう? このカメラは特別だって」
「そう……かな?」
「そう。オレじゃなくて、カメラが凄いやつ。褒めるとこじゃない」
我ながら苦しい。
苦しいが、これでいい。
月詠は、少し不思議そうな顔をしただけ。
それ以上は追いかけてこなかった。
「……ごめんね」
「いや謝るところでもないんだけど」
足元に落ちていた学生帽を拾う。
「でも……私は。魔女はどうしたら」
「魔女は力を持つヒーローと……」
ズキン……
あ……れ。これ、ヤバいヤツ?
月詠は、誰にともなく呟く。
「……うん。分かってる。私がもしも結婚するなら、強い人じゃないと駄目……って。だから……」
ズキン……
う……。これは、違うヤツ?
「そ、そ、そうだよ。……その為にも、だ」
抉られた。
最近は考えることが色々あったから、紛れていただけだった。
竹取月詠はヒーローと結婚する。
常闇朔以外のヒーローと、じゃないと世界が終わる。
「でも……ううん。守部……くん」
この至近距離の月詠は不味い。
オレは帽子を目深に、かぶり直した。
「……ん?」
「守部くんは、記憶を失う。……そう……なんだよね」
「え……と、それは」
クリスマスイブに言われたこと。
また、言われた。
「ゴメン。言うと辛いよね。家の決まりだし。だから……私も頑張る」
「へ? あの……」
オレは全ルートのイベントを知っている。
そして、記憶を失っているのは、ここにいるオレ以外だ。
でも、何故か。
そういうことになっている。
オレは記憶を失うのに、頑張って写真を撮るという設定になっている。
だからこそ、彼女は覚悟をした。
「私も自分の力をちゃんと使ってくれる人と……。結婚しなきゃ……って」
自分の力を受け止めてくれるヒーローと結ばれること。
その覚悟がオレを抉る。
さっきの化け物の爪よりも、臓腑を抉った。
けど——
オレは、さ。
「これが……私のお役目……だし」
自分が分からなかった。
世界を守りたい……のか。
月詠を守りたいのか……。
◇
月詠とオレはスラム地区の調査を真面目に続けた。
スラム街の薄暗い路地を、二人で歩く。
「大丈夫ですか、お加減は」
屋根の穴を魔法で応急的に塞ぐ。
迷子になっている子どもの手を引いて、親を捜す。
一つ一つは、小さなことだ。
恋愛イベントでも何でもない。ただの善行。
でも、そのすべてに、彼女は同じ熱量で向き合っている。
誰か一人に肩入れすることなく、目に入った困りごとを片っ端から拾っていく。
オレはその横で、カメラを構えられずにいた。
「ん、撮らないの?」
「いや……別に、撮る意味なくない? 主役が一人で写ってる画に」
言ってから、これも嘘だと自分で気づく。
六周分のフィルムの中に、月詠が一人だけで写っている一枚は、存在しない。
全部、誰かと一緒だ。
ヒーローの誰かと、笑っている一枚ばかりだ。
「ふーん。変なの」
「変っていうか。役目……なんでもない」
「……うん。そ……だよね」
先の展開を知っている身にもなれって話だ。
これだけお膳立てして、なぜこうなる。
「早く告れ、だよなー……」
思わず漏れた独り言に、月詠が振り向いた。
「そ、その……だ、誰に?」
誰って……そんなの。
「でも……守部くんはその後、全部を忘れちゃう……って。ゴメンね。まだ、私。割り切れてなくて……」
「い……いや。オレも実はその……」
ゲームのイベントスチルの記憶、ほとんど持ってます。
なんて言える雰囲気じゃなかった。
オレは誤魔化しながら、おどけてみせる。
すると、ふと会話が妙な方向に転がった。
「私、選ぶのが苦手……なのかな。それに……ううん、なんでもない」
唐突に、彼女はそう言った。
あまりに唐突で、オレの口が勝手に動いた。
「大丈夫だよ」
「……え?」
「い、いや。 月詠はきっと、笑顔で結婚式をあげる……って、勘」
六人分、全部知ってる。
「そんなの……」
オレは心を抉られたまま。
彼女は、何かを言いたげなまま。
奇妙な空気が続いていた。
オレは路地の入り口を、何度も見る。
誰か来ないか。ヒーローの誰かが、偶然を装って現れないか。
二月は、まだ空振りが続いている。
◇
空の色が変わった。
薄雲が、前章で見た焦げた羽根と同じ色に焼けている。
月詠のお陰で、この一帯の住民は避難が完了していた。
だから、二人して反応した。
「月詠、今の——」
「うん、感じる」
すると地面が、鳴った。
路地の奥、崩れかけた壁の向こうからだ。
狼型とはまるで違う巨大な影が飛び出してくる。
建物の角を、肩ひとつでへし折りながら。
「あれ……?」
知っている。
あの影を、オレは——
「守部くん、下がって!」
「い、言われなくても——」
下がろうとした。走ろうとした。
なのに、足が動かない。視界の端が、白く欠ける。
「……あ、まずぃ」
妙な事を口にした? なんて考える思考も溶けるほどのふらつきだった。
若しくは、さっきの傷のせい?
オレの体は、モブだ。設定上、戦闘力は凡人。
こんなところで「凡人」の意味を、こんな形で思い知らされるとは思っていなかった。
オレの膝が、崩れる。
「守部くん!」
月詠が、引き返してくる。
逃げるはずだった彼女が、前に出る。——オレを庇うように。
それは、ヒーローの誰かを守る場面じゃない。
ヒロインが、オレを守ろうとしている。
その事実が、白くなっていく視界の中で、妙にはっきり浮かび上がった。
影の爪が、迫る。
「オレに構う……な」
だがそれが、止まった。
何が起きたのか、一瞬わからなかった。
銀色の線が一本、空気を裂いたのだけ見えた気がする。刀の切っ先。
次の瞬間には、あの巨大な影は縦に二つに割れていた。
断面から、黒い液体があふれる。
悲鳴も、断末魔もない。そのままアスファルトに溶けて、消えていく。
魔物が消えた向こう側に人がいた。
「こんなとこまで、異界獣が出ている……とはの」
鋭い刀を持った、小柄な影。
声変わりの途中みたいな、少し高い声。
墨色の髪が、風に流れている。
オレは目を剥いた。
髪の色。血の気の薄い白い肌。
そして——瞳の奥に差す、赤。血月の色。
「常闇、朔——」
名前を、勝手に口が紡いだ。
全員がビビッドな色をしたこの学苑で、たった一人だけの無彩色。
その中に、一点だけ赤が差している。
意識が薄れる。でも、この体が。
守部の体はちゃんと動く。オレの意志に関係なく。
イベントスチルカメラマンだから——
最悪だ。
最悪なタイミングで、最悪なくらい、画になる。
カメラを構える手だけは、頭の判断を待たずに仕事を終えている。
小柄な朔が、月詠を見つめる。
値踏みするような、少し面白がるような目で。
「ほう。ワシの未来の嫁は、なかなかに勇敢なおなごのようじゃな」
カシャ……
その一言を、耳の奥で確かに聞いた気がした。
「あなたは……」
でも、それが本当に聞こえたのか。
「……名前は……いや。今はやめておこう。護衛が来ると面倒じゃ。また会おう、月の姫」
それとも意識が落ちる寸前の幻聴だったのか、確かめる前に——
オレの視界は、暗転した。




