第53話 二月の遠征イベント
寮の自室で、オレは久しぶりに学生帽を被った。
今まではカメラのファインダーを覗く邪魔になるからと、避けていた帽子だ。
鏡に映る自分を見て、軽く被り直す。
そのとき、控えめにドアがノックされた。
開けると、少し長めのラベンダー系の紫髪を揺らした夕星律が立っていた。
左目の下にある星のような泣きぼくろが、廊下の薄明かりの中で静かな色気を放っている。
線が細く色白な彼は、相変わらず彩度が低めなのに一枚の絵のように画になる男だ。
律はオレの帽子をじっと見て、ぽつりと言う。
「ふーん。流石は守部。なかなかの魔法具持ちだね」
「で、夕星先輩がなんでオレの部屋に?」
律は気だるげに肩をすくめた。
「部内の様子がおかしい。綺羅星は何を考えているのか」
「どう、おかしいのか、分からないっすけど——」
そして、静かに息を吐いた。
「あれから、何もしていない」
オレはイケメンを前に、眉を顰める。
「いや、だって始まったばっかじゃ」
だが、違った。
「——この二週間、僕たちは何もしていない。僕はそれでもいいんだけど」
「に……?」
いつの間にか、二週間が過ぎていた。
時間スキップがあったことを、オレはここで初めて知る。
勿論、それは珍しいことではない。
珍しくはないが、イベントが起きなかったという証拠でもある。
「どうしてそんなことになった……んですか。綺羅星は何をやってたって、設定?」
「彼女の言い分は、設定は分かるよ。大切な次代を担う若者を死なせるわけにはいかない。綺羅星家で下調べをするとか」
普通の言葉だし、普通の世の中の常識かもしれない。
でも、オレは時間が全然足りないと、痛烈に思っている。
学生帽ごと頭を抱えた。
その様子を見た律が、静かに踵を返そうとする。
「君ならと思ったけれど」
オレは夕星律の肩を掴んで、呼び止めた。
「ちょっと待って……ください。なら、良い考えがあります」
◇
学生帽を深々と被る。
守部マークが入ったこの帽子を被ると、他の生徒と見分けがつかなくなる。
魔力も一般生徒と同じだから、知覚でも気付けない。
オレは一年Aクラスの生徒たちの中に紛れて、帝都内の街区を歩いていた。
教職員を引き連れた宵坂の持ち場だ。
宵坂は教職員しか連れられないので、結局ここが限界らしい。
月詠が到着してから、しばらくは片付け作業が続いた。
オレは他の生徒と行動を共にしている。
誰もオレに話しかけてこない。
その最中、宵坂と月詠が話をしていた。
濃紺から群青にかけての無造作な後ろ流しの髪。
顎に生えた薄い無精髭と、だらしなく緩んだ白衣の首元。
年上の余裕と疲れが同居した色気を持つ彼。
いつもながら、気だるげな写真が百パーセントの男だ。
「異界と繋がることで、これが起きたというのは本当ですか?」
「三百年前の伝承通り。とは言え、想像以上にマシだね」
「マシってそんな……。死傷者だって」
宵坂は深い群青の瞳を細め、肩をすくめる。
「月詠くん。空間同士の衝突だよ。もっと壊滅的な大惨事が起きてもおかしくない」
「それは……そうですけど」
その時、生徒の叫び声が上がった。
オレの後ろの方からだった。
瓦礫の影から、真っ黒な狼のような魔物が数頭、湧き出してくる。
四足歩行の体が、陽光を吸うように暗い。
宵坂が指先一つで、すぐさま魔物の動きを封じた。
綺羅星が短剣を構えて前に出る。
月詠は時空魔法で空間を断絶する。
(個別ルート……か)
引き裂かれた魔物は、影となって地面に溶けて消えていった。
オレは他の生徒に紛れながら、素早くカメラを構えた。
出現後から、淡々とシャッターチャンスを狙う。
帽子の効果か、今回のカメラは誰にも気付かれない。
完全な隠密モード、完璧な盗撮……の筈だった。
だがオレは、ファインダーから目を離さず、小さく舌打ちをした。
「綺羅星が邪魔で、ベストショットを逃した」
距離のせい——ではなく、綺羅星が画角に入るからだった。
月詠と宵坂のツーショットを狙い、彼女を入れないようにした。
だから、何をしてるか分からない一枚になった。
オレの記憶にある一枚じゃない。
そんなオレに気付く様子もなく、月詠が宵坂に聞く。
「今のは……?」
「伝承通りだね。異界には魔物が潜むと」
月詠は目を見開いて、すぐに続けた。
「他の皆のとこにいかないと。先生、ここをよろしく頼みます」
そう言って、次の持ち場へ向かう準備を始める。
つまり、この魔物と戦う二人のイベントスチルは未回収となった。
オレは帽子のつばを深く下げたまま、また他の生徒の中に紛れた。
◇
イベントスチルナンバー1の男の個別ルートを逃した。
学生帽のつばを摘まんで、深めに被り直す。
特注の制服の裾が、微かな風にわずかに揺れた。
(……落ち着け。オレ。まだ、四人いる)
部活や教職員という、集団単位で動くことで、安全を確保する。
その上で、光り輝くわが校の生徒を、臣民の皆さんに知ってもらう。
それが夕星に話した、今回の作戦だった。
というか、ヒーローが点在するエリアを、月詠が全てまわる。
五つの持ち場を、一人の生徒が順番に巡回する。
まるで、あの夏のイベント。肝試しのバトンリレーと同じ。
(そりゃそうだろ。考える余裕なんてあるかよ)
オレは集団の後方に紛れたまま、影から影へと静かに位置を変えた。
魔力の波長も、一般生徒と区別がつかないよう調整してある。
夕星の言っていた通り、とんでもない魔法具。
カメラといい、制服といい、そして学生帽といい。
勿論、存在が消える訳じゃない。
周囲の生徒には、間違いなくバレているが、彼ら彼女らはオレに喋りかけない。
だから、ちゃんと紛れている。
声が聞こえる範囲にいる。
でも、メインキャラは誰一人、オレの存在に気づいていない。
「月詠、次は街道だよ? きっと暮小路くんがしっかりやってるはずだから、大丈夫だよね!」
月詠のすぐ隣を、綺羅星が歩いていた。
キャピキャピと明るい声を弾ませながら。
彼女の視線は時折、周囲の建物の影や、遠くの瓦礫の隙間を鋭く泳いでいた。
魔物か、何かを警戒している——
月詠が小さく息を吐き、答えた。
「大丈夫。でも油断はしないで」
そして街道に入った瞬間、空気が変わった。
怯えた人々が、道の端を走って逃げていく。
その先で、すでに戦闘が始まっていた。
暮小路慧が、生徒会の生徒たちを的確に配置している。
エメラルドグリーンの柔らかい髪が風に揺れる。
黄昏色の瞳は細められた彼。
今日が『企み日』であることを示すように、彼の顔には伊達眼鏡が光っている。
生徒会の一人ひとりの動きに無駄がない。
統制の取れた陣形で、真っ黒な狼型の魔物と対峙していた。
四足で低く構えた魔物の体は、光をほとんど反射しない。
まるで影がそのまま実体化したようだった。
「月詠くん!」
魔物と対峙していた筈の暮小路の声が、はっきりと聞こえた。
そういう作戦だから、当たり前なんだけれど。
冷静沈着な彼の声音が、その瞬間だけ裏返った。
肩も弾んだ。
暮小路は一瞬で表情を変え、大きく手を振った。
「来ましたか! 私たちは国を守ります。私たちの対応を見せてさしあげます! 生徒会の動き、ちゃんと見ておいてください!」
ハリキリだした暮小路が、自ら前に出る。
短剣を構えた生徒会の一人が動き、月詠が軽く手を上げた。
時空が歪むような感覚が走り、狼型の一体が空間ごと断たれた。
引き裂かれた魔物は、黒い影となって地面に溶け、跡形もなく消えていく。
綺羅星が弾むように声を上げる。
「すごい! やっぱり暮小路くん、統制取れてるね! ……でも、なんか……変?」
マゼンダの瞳がメトロノームより早く動いた。
こいつっ!
オレは制服の裾を翻しながら、別の影へと滑るように移動した。
(魔物は退治で来たんだから、何を警戒してんだよ。 まさかオレを……なんで?)
オレは被写界深度を調整し、統制された生徒会の中に立つ暮小路にピントを合わせる。
シャッターを切る。
逃げ惑う人々の背中。
常に完璧な笑顔を崩さない暮小路の横顔。
そして、月詠の隣でキャピキャピと声を上げる。
そして……今回もベストショットが撮れない。
「あいつ。保健室の時といい、オレの撮影の邪魔をしようとしてないか?」
余りの意味の分からなさに、オレは膝を折りかけた。




