第49話 静かすぎる、年始の登校
オレが次に目を覚ました時だ。
寮の自室で目が開いた時だ。
最初に感じたのは、ひどい違和感だった。
四月に入学したころ、その普段なら音がする。
隣の部屋から誰かが起きる音がする。
廊下を走る音がする。
朝の喧騒が、薄い壁一枚隔てて聞こえてくるはずだ。
——なのに、静かすぎる。
「……あれ。またカットした?」
十二月のあの夜。
——月が落ちた惨劇からが、本編なのだ。
正確には一月の第三週目からが、登校再開なのだ。
いくらなんでも、寮が静まり返りすぎている。
「既に四月前とかは勘弁だぞ」
オレはベッドから起き上がり、制服に袖を通した。
習慣で、首から重たいカメラを下げる。
ドアを開けて廊下に出る。
廊下は空っぽだった。
「……マジかよ。時間、間違えたのか?」
左右どちらを見ても、人の気配がない。
朝の光だけが、誰もいない床を虚しく照らしていた。
「いや。世界が終わってるなら、帝都は残ってない……」
時計を確認する。針は正確に時を刻んでいる。
カレンダーを見る。
何となく分かる。今日は登校再開の日の朝だ。
部屋のドアをいくつかノックしてみる。
だが、反応はない。
「まだ、ゲームが動いていない……?」
たった一人で、階段を下りる。
一階のホールで、ようやく人影を見つけた。
彼は寮長だ。
広い空間に、ただ一人だけポツンと立っている。
「おはようございます」
オレは歩きながら、軽く会釈をした。
だが、寮長はオレを見たまま、彫像のように固まっていた。
目を見開き、何か言いたげに口をパクパクさせている。
「……?」
挨拶の声が小さかっただろうか。
それとも、オレの寝癖でも酷いのか?
若しくはNPCが動く前なのか。
首を傾げつつ、オレはそのまま玄関を出た。
学苑の敷地に足を踏み入れた瞬間——
「良かった……動き出した」
ようやく、他の人の気配がした。
遠くの方から、低いざわめきが聞こえる。
大講堂の方向から、聞き知った声もした。
「……みんな、あっちに集まってんのか」
オレはカメラを抱き直し、急ぎ足で向かった。
◇
大講堂の重厚な扉を押し開ける。
すると、そこはすでに数多くの生徒たちで埋め尽くされていた。
だが、肌にまとわりつく空気は、入学式とはまるで別物だった。
シャンデリアが、高い天井から柔らかな光を落としていたはずだった。
それが今は、有事に備えてか最低限の明かりしか灯されていない。
むき出しの薄暗さが空間を支配している。
壁面を彩っていた繊細なステンドグラスも面影がない。
飛散防止の無骨なテープが痛々しく貼られ、かつての美しい陽光を鈍く遮っていた。
(そりゃ……まぁ。天変地異だけじゃないし)
どこから流れ込んだのか、ザラついた粉塵と焦げたような煙たさが淀んでいる。
国境付近のきな臭い火種が、物理的な煤となってこの学園にまで入り込んでいるかのようだった。
かつての勝ち組が集う、華やかで格式高い息苦しさはとうに消え失せた。
代わりに「戦前」を思わせる生々しく、どす黒い重圧が、生徒たちの顔に暗い影を落としている。
あの気品と華やかさで満ちていた空気が、濁っている。
——物理的にも、精神的にも。
そんな澱んだ空気の中、壇上には東雲暁が立っている。
朝焼けみたいなブロンドの髪が、乏しい照明を反射して妙に輝いている。
こんな重苦しい状況にあっても、いつもの王子様モード全開だ。
「みんな、よく来てくれた」
暁の声が、薄暗い講堂いっぱいに響く。
「この一ヶ月、それぞれが不安な日々を過ごしたことだろう。一部の国境付近では、得体の知れない襲撃があったという報告も受けている」
暁の言葉に、講堂の空気がわずかに揺れた。
漂う埃が、ざわめきに合わせて微かに舞い上がる。
「だが、こんな時期だからこそ——。我々は学生として、普段以上に勤勉に務めよう。誇り高くあれ」
立派な演説である。
第一王子の正統継承者であり、月詠というヒロインを迎えた約一周年記念の表紙を飾る男なだけはある。
オレは後方の席に座りながら、ぼんやりと聞いていた。
「……で、オレは何すればいいんだよ」
内心で呟く。
公式記録係として呼ばれたのは確かだ。
だが、この煙たい空気の中で具体的に何を撮るのかはまだ聞いていない。
ここにメロいイベントスチルは落ちていない。
そのとき、ふと強烈な視線を感じた。
顔を上げると、少し離れた席で、月詠と目が合った。
サファイアブルーの長い髪。
金色の瞳。
彼女はこちらを見ていた。
オレが気づくと、月詠は跳ねるように視線を逸らした。
「……ん?」
気のせいかと思ったが、すぐにまた目が合う。
今度はキラも隣にいて、月詠の耳元で何かを囁いている様子だった。
マゼンタ色の瞳が、面白そうにこちらを観察している。
月詠は何とも言えない顔をして、また視線を落とした。
「なんだろ。まだ、気にしてるのか……?」
オレは微かな埃を被ったカメラのストラップを弄りながら、ぼんやりと思った。
十二月のクリスマスでの出来事が頭をよぎる。
キラの言葉で、オレはようやく気づいたのだ。
イベントスチルの多さと、攻略の難易度はリンクしていない。
むしろ、正反対だったんだと。
オレが今まで「大本命」だと思っていた作戦は、根本から間違っていた。
……かもしれない。
キラのやつ、最初からそれに気づいていたのか?
「これからは、少しアイツの言うことも聞くべきか……」
煙たい空気に交じって、小さくため息をつく。
まあ、まずは撮影の構図を考えないと、ですけど。
◇
演説が終わる頃、オレの肩を誰かが叩いた。
振り返ると、デジャヴのような顔。磯野教頭が立っていた。
「守部。少し来てくれ」
「あ、はい」
オレは席を立ち、教頭の後について講堂を出た。
廊下を少し歩いたところで、教頭が足を止めた。
「君の写真は、実に良い」
いきなりの褒め言葉に、オレは反応に困った。
「え、あ、どうも……」
「十二月の件でも、君が残した記録は非常に役立った。これからも頼む。厄災の記録としても、だ」
「……はい」
オレは小さく頷いた。
——厄災、か。
アレはイベントだ。
本物の厄災は、この後に起きる……かも。
それを防ぐのが、多分オレの役目だ。
でも、今はそれを考える時間じゃない。
オレはイベントを観戦するモブカメラマンだ。
「了解です。撮影、続けます」
教頭は満足げに頷くと、そのまま歩き去った。
オレは一人、廊下に取り残されることになる。
「……と言っても。とりあえずの復帰一発目、何か撮るか」
カメラを持って、中庭の方へ歩き出した。
そのとき、また視線を感じた。
振り返ると、大講堂の出口付近に月詠がいた。
彼女はこちらの方を見ていた。
オレが振り返ると、月詠は少し驚いたように目を見開き、慌てて視線を逸らした。
隣でキラが、月詠の背中をポンと押しているのが見えた。
「えっ、ちょ、キラちゃん……!」
月詠が戸惑う声が聞こえる。
「……マジで、今日は何なんだ?」
オレは首を傾げながら、カメラの頭を撫でた。




