第34話 仮面舞踏会の夜(上)
十一月最終日を飾る最大の学校行事。
『仮面舞踏会』の夜がやってきた。
学苑の男子寮から本館のメインホールへと向かうらしい。
オレは首から下げた魔導カメラの冷たいグリップを、湿った手で何度も握り直していた。
(仮面舞踏会って……なんだよ。それにこの胸のざわつき)
普段なら
「攻略対象とヒロインの恋愛イベントを撮るだけの公式記録係」
気楽にカメラを構えていればいいはずだった。
だが、今夜のオレの心臓は、重圧と不安で押しつぶされそうになっていた。
理由は二つあった。
一つは、あの日――
写真部室の暗室の遮光カーテンから出た後。
月詠は、妙によそよそしくなった。
「……写真……のことだよな。オレが上手く撮れなかったから」
他のヒーローは、自分のイベントでキッチリと写真を残している。
これは自慢だが、写真部は今、壁一面がキラキラしている。
(見比べられた……。当然か)
ヒロインとヒーローとモブの越えられない境界線。
思い出じゃなくて、記録で見たら、ただのモブかと思ったに違いない。
これはある意味で、オレにとって、傷つくが都合が良くもある。
そしてもう一つの理由。こっちがまぁ、ヤバい。
転生ゲーマーとしての記憶の違和感だ。
十一月のラストを飾る仮面舞踏会は、殆ど記憶に残っていない。
乙女ゲームにおいて、盛り上がりを見せるはずの大イベントだ。
しかも、ルートが決まっているから、バチバチのメロメロのシーンがありそうなもの。
(ゲームの大イベントなのに、なんで記憶がこんなに曖昧なんだ……? 何か決定的なトラブルでも起きるんじゃないのか?)
世界滅亡の期限と、自分の恋心の葛藤。
それに加えて正体不明の不安を抱えたまま。
オレは息を殺して大広間の重厚な両開き扉を押し開けた。
◇
仮面舞踏会の入場が始まった。
その瞬間、メインホールの大広間は、別の世界へと姿を変えていた。
体育の授業や全校集会に使われる広大な場所の筈だ。
だが、今夜は幻想的な灯りと影の魔法に満ち溢れている。
天井から降り注ぐ魔導シャンデリア。
壁面に掛けられたタペストリーの金糸がきらきらと輝く。
広間を埋め尽くすのは、帝国の次代を担う若き貴族や名家の生徒たち。
彼ら彼女らの顔には、今宵だけの珍妙で、意匠を凝らした仮面が次々と現れていた。
黄金の獅子、紫の蝶、群青の夜空を象った仮面……。
どれも華やかで、しかし計算された身分階級の美しさを持っている。
「あっちは……生徒じゃないのか?」
生徒だけではない。
フロアの端には教師たちも仮面を被って佇む。
他の学校関係者や帝都の有力者らしき、正体不明の影も混ざり込んでいる。
むせかえるような濃厚で甘い香水の匂いが、広間全体に漂っていた。
花と蜜の香りに、ほのかに混じる政治的な駆け引きの匂い。
(……心配するな、オレ。やることは変わらない)
自分に言い聞かせるようにカメラを構える。
その、ファインダー越しにフロアの群衆を追った、まさにその時だった。
広間の中央で、銀色の月を象った美しい仮面を被る少女の姿が目に飛び込んできた。
顔が隠れていても、その艶やかなサファイアブルーの髪と、仮面の隙間から覗く満月のような金色の瞳で、一目でそれが竹取月詠だと分かる。
「く……」
そして彼女の前に、一人の長身の少年が音もなく静かに歩み寄ったのだ。
ラベンダー寄りの薄紫の仮面を被った男。
仮面の左目下、灯りに照らされて儚く浮かび上がった色っぽい『泣きぼくろ』で、誰かは考えるまでもなかった。
宮廷魔術師のサラブレッド、夕星律だ。
「やっぱ、イベントなのかよ」
律は、いつもの不機嫌で無口な冷気を纏ったまま。
しかし今夜は驚くほど丁寧に、月詠の目の前で優雅に右手を差し伸べた。
月詠は仮面の下でふわりと柔らかく微笑み、その手を取る。
二人はゆっくりと、フロアに響き始めた優雅な弦楽の調べに合わせて、滑るように踊り始めた。
◇
仮面の隙間から覗く律の薄紫の瞳は、他人を拒絶するような鋭さを潜めていた。
いつもより、少しだけ柔らかく和らいでいる。
月詠の髪が、弦楽のテンポに合わせてターンするたびに、優しく空中に尾を引く。
その美しさは、まるで夜の湖に浮かび上がる神秘的な月影のようだった。
そして、距離が近づいた二人。
音楽の隙間を縫うように小さな声が零れ落ちた。
「……律先輩、いつもはすごく静かだけど」
月詠の素直で温かな声が、ターンを終えて律の胸元へ近寄った瞬間に、そっと届く。
「本当は心の中で、たくさん想ってるんですよね?」
その直球すぎる言葉に、ステップを踏む律の足取りが、ほんの一瞬だけ止まった。
彼は月詠の細い腰に優しく手を添えたまま、仮面越しの至近距離で彼女を見つめ返し、自嘲気味に息を吐いた。
「……ふん。他人の心に興味などないはずだった」
低く、けれどどこか掠れた、律の本当の声だった。
「魔術の才能を期待されすぎて、自由を奪われた幼い頃から……僕は常に鏡の前で、求められる完璧な後継者を演じるしかなかった」
律は、腰に添えた手をほんの少しだけ引き寄せ、月詠とのステップを再開しながら言葉を続けた。
「でも、こうして君の前で踊っていると……不思議だな。僕が被っているこの忌々しい仮面が、少しだけ重くない気がするんだ」
「……律先輩」
月詠の仮面の下の金色の瞳が、温かく優しく細められた。
彼女は自然と、惹かれていった。
律の大きな手に自分の手から力を込めて握り返し、弦楽の旋律に負けないほどの温かな声で囁いたのだ。
「私、律先輩が少しでも……重いものを捨てて、自由に笑えたらいいのになって、いつも思ってます」
その瞬間だった。
普段は決して誰の前でも笑うことのない孤独な魔術師
――律の唇の端が、緩んだように見えた。
仮面の下で、二人の距離が引き寄せられる。
ほのかに近づき、互いの吐息が重なり合うほどの甘い間合いが生まれる。
――ここか!!
オレは壁際でカメラを構えていた。
嫉妬で暴れる自分の感情をプロの使命感で無理やり押し込める。
幻想的で美しすぎる二人のダンスの絶頂を、ファインダーの中心にしっかりと捉え続けていた。
今夜最初の、そして最高のイベントスチル。
また一歩、世界の納期クリアへと近づく——
「――あれ」
オレの指は、引き金を引かなかった。
――カシャッ。
オレは汗を拭いながら――次の瞬間、完全に我に返って、広間の片隅で絶句した。
「――って!!」
ファインダー越しに見たのは、確かに二人。
美しくターンを決め、至近距離で見つめ合って微笑む律と月詠。
画角としては完璧すぎる構図だった。
だが、致命的な問題があったのだ。
(仮面舞踏会って! 全員仮面被ってて顔が隠れてるから、『撮れ高』が完全にゼロじゃん!!)
オレは心の中で盛大に叫びながら、頭を抱えた。
写真の中で最高の雰囲気を出していようが、豪華な銀と紫の仮面によって隠されている。
これでは誰が誰と踊っているのか、ただの雰囲気写真にしか見えない。
何より
「心配の一つが消えた。だからオレのゲーム知識の記憶の中に、仮面舞踏会のイベントスチルがない。顔が隠れてるから、場面がないのか……」
あまりにもアホらしいゲームのメタ的な理由。
だが、そうなると不安は消えるが、疑問は残る。
「何のためのイベントだ……」
ゲームの設定はこれまでも感じてきた……と言っても主に綺羅星関連だけれど。
いやそういえば、もう一つある。
月詠が宵坂ルートに行くのは、自分自身の魔力に不安があったから。
ちゃんと裏設定がある。
だけどここは——
「大人たちがいて。それ……で……。……う」
来た来た来た。
眩暈と頭痛と、耳鳴り。
システムが文句を言っている。
チッとオレは舌を打って、考えるのを止めた。




