第33話 守部家の秘密
学苑祭の熱狂から数日が過ぎた。
少しずつ冬の足音が近づく十一月の放課後。
夕暮れの柔らかなオレンジ色の光が、少し埃っぽい写真部室の窓から静かに差し込んでいた。
オレは、現像したばかりの魔法板の写真を、壁面のコルクボードに一枚ずつ丁寧な手つきでピン留めしていた。
紅葉狩りの色鮮やかな赤を背景にした、暁先輩や剛先輩たちの最高の笑顔。
そして、先日の学苑祭における、律先輩の舞台や慧の映画館、宵坂先生の幻影部屋の奇跡のようなスチルたち。
普段はファインダー越しに追いかけていただけの光景だ。
こうして壁一面に並ぶと、仕事の成果でありながら、不思議と胸が熱く、そして切なく染みてくる。
「この紅葉のやつ、律先輩の表情が今までで一番柔らかいな。慧のモノクロ映画の光と影も、最高の出来だ」
誰に聞かせるでもなく小さく呟く。
その時だった。
――ギイッ
古い木製の扉が静かに開く音が響いた。
「――守部くん、まだ残ってお仕事してたの?」
振り向くと、目が眩んだ。
サファイアブルーの長い髪を夕陽に輝かせ、満月のような金色の瞳。
瞳を優しく細める、ヒロイン・竹取月詠が立っていた。
そして、彼女の隣には、ショッキングピンクのゆるふわボブの、綺羅星キラの姿もあった。
「月詠……さん、それに綺羅星。……ああ、学苑祭までの記録写真の整理と展示の準備が、ようやく終わったところだよ」
オレはいつも通りの、気さくなモブカメラマンの笑顔を、貼り付けながら答えた。
部室に足を踏み入れた二人は、立ち止まった。
「相変わらず……すごいわね」
「うん……。凄い」
壁一面に並んだ美男美女たちの圧倒的なイベントスチルの群れに、一瞬で息を呑んで声を失った。
どの写真の中の月詠も、男たちのアプローチに恥じらい、最高に輝くお姫様の表情をしている。
――だが。
壁の写真を感嘆の面持ちで眺めていた月詠の視線が、ふと落ちる。
コルクボードの最下段の片隅に、オレが目立たないようにこっそりと留めておいたある一枚の写真。
そこで、ピタリと止まった……ように見えた。
その写真の中で、茜色の光を浴びる月詠は、まるで絵画のように優しく、美しく微笑んでいる。
「……守部くん、これ」
月詠の震える細い指先が、その見切れた写真の縁へそっと触れた。
あの時、彼女がどれだけ、二人で一緒に思い出を撮りたいと、願ってくれたかを知っている。
だからこそ、その胸を痛めるような優しい声が、オレの心臓を鋭くえぐった。
「――ああ、それな! 悪い悪い、オレ、いくらカメラマン家系って言ってもさ、慣れていな……じゃあなくて。えっと、ミスる時はミスる。プロじゃないし」
ミスったことなんて、一度もないが、やったこともない。
自分で自分にレンズを向ける自撮りは、やはり難しい。
めちゃくちゃ、手が震えてて、完全に手ブレして、うまく撮れなかったのだ。
「実際、他の写真も結構失敗してるんだぞ」
オレは胸の奥で暴れる心を死に物狂いで押し殺した。
肩をすくめて片目を瞑り、お調子者を演じるように苦笑してみせた。
「それにほら、やっぱりオレは画面の向こう側から、若人たちの最高に綺麗な瞬間を撮る専門なんだし! そ……それじゃ、オレはこれから奥の暗室で残り枚数の現像作業があるから! ふたりとも、適当に見ていってくれ!」
それだけを早口で言い捨てる。
オレは二人の返事も待たずに奥の現像室へと逃げ込み、分厚く重い遮光カーテンをシャッと強く引き閉めた。
――シャアァッ
カーテンが完全に外の光を遮断する音が、静まり返った部室に寂しく響き渡る。
実際、やるべきことはまだまだある。
暗室の赤黒い安全灯の光の下で、オレは現像用の水道の蛇口を軽くひねった。
そこからチョロチョロと流れる冷たい水に指先を浸しながら、大きく息を吐き出した。
(……なんで、あそこに貼ってたんだよ、オレ。じゃあなくて、なんでここに来たんだよ)
でも、これでいい。
あんなに綺麗で、眩しい月詠の隣に、オレみたいな普通のモブ男の顔が並ぶ?
はっきりと並んで残ってしまったら。
どこかでバグるかもしれない。
世界滅亡という納期をクリアするために、絶対に並んで写ってはいけない。
真っ二つに割れた二つの心の地獄はまだ、もう少し続く。
赤いランプの下で、オレの喉を締め付ける。
絶え間なく流れる水道の水音と、分厚く重い遮光カーテンに完全に阻まれて
その日まで、オレは心の中の遮光カーテンも閉めようと誓った。
「ま……。月詠が誰かと結婚したら、その後くらい……いや、それはそれで不味いか」
◇
遮光カーテンの向こう側。
夕暮れの光が差す部室では、静かなやり取りが交わされていた。
「……ねえ、キラちゃん。この写真、ね」
「月詠のソロ写真? 美味しそうなやきそばね」
「そうじゃないの! この写真、守部くんと撮ったの」
綺羅星のマゼンダの瞳が僅かに開いた。
桃色の眉が僅かに顰められる。
「月詠、それ……」
「私……守部くんともう一度、ちゃんと綺麗に撮り直ししたい」
見切れた写真をじっと見つめていた月詠の声は、確かな決意があった。
他の写真と変わらない一枚を、どうしても撮りたい。
けれど、次に響いたのは、冷たい音。
「……月詠。ちょっと、待って」
「えっ……?」
「それは駄目」
普段の軽やかさを完全に消し去った、綺羅星キラの冷ややかな、制止の声だった。
「 キラ……ちゃん?」
「撮り直したいとか……そんなの、絶対に駄目。これ以上、あいつに踏み込まないで」
キラの瞳は、普段の親友としての甘さを完全に捨て去り、冷徹な色を帯びていた。
月詠が、傷ついたような迷いの声で聞き返す。
「え……? どうして……? だって、守部くんはいつも私のことを守ってくれて、私のために、こんなに素敵な写真をたくさん……」
月詠には迷いはなかった。
でも同じくらいキラも迷わなかった。
「守部だって、自分で分かってて──そうしたんだから。あなたのその優しさは、ダメ」
普段の綺羅星が見せない、役目の顔だった。
だから月詠の黄金の瞳が揺れる。
「分かってて……そうした……?」
月詠が首を傾げ、息を呑む。
「そう。分かってて、よ。少しでも、あいつのことを思うなら。絶対にダメだからね」
「分かっててって……何を」
キラは小さく長く息を吐き出す。
そして、自らの体で、月詠の体を押した。
「……平民の家に生まれたあなたには、まだ実感がないから知らないのね」
その声は、貴族社会で生き抜く者。
役目を持った者としての、冷酷で平坦さな色だった。
「――それぞれの家に、役割があるのよ」
「役割……?」
綺羅星キラだけではない。
東雲暁にも、真昼剛にも。
貴族は誰も。
「あの男にも、あたしにも……。特殊な家柄には特殊な役目があるの」
「えっと……。キラちゃん……?どう……したの? 役目のことなら知ってるよ。帝国の次代を担う……」
「月詠……」
キラは月詠の傍へとすっと足を進め、彼女の小さな耳元へと自分の唇を寄せた。
そして、声を殺して『何か』を囁いた。
「守部家は──」
それが、貴族社会の血脈にまつわる絶対的な掟だった。
数秒とも数分ともつかない、不気味で重苦しい秘密の耳打ちの時間。
やがて、キラがゆっくりと唇を離す。
――ガタンッ!!
あまりの衝撃と絶望。
月詠の体が大きく後ろへ退き、背後の木製椅子に激しくぶつかった。
「そん……な……こと……。私、聞いて……」
信じられない現実を突きつけられた。
完全に血の気を失った月詠の、震える掠れ声。
「そう……。でも、そういうことだから。学苑の皆は分かっていて、そうしているの」




