第32話 見切れた写真
どれだけ時間が経っただろうか。
あの特別教室で、何枚写真を撮っただろうか。
「ゴメン……ね。ほら、先生。ちょっと変わってるから」
「…………帰る……わ。オレ」
五人のヒーローたちとの『完璧すぎる任務』を終えた。
そして最後の宵坂で、オレの心がノックアウトさせられた。
(ほとんど恋人じゃん! オレ、いなくて良かったよね?!)
オレの足は、いつしか人混みと喧騒から離れた校庭の片隅にあった。
落ち葉が散る、静かな古い木製のベンチへと向かっていた。
(……てか。イベントスチルの枚数はやっぱ正しい)
夕陽が学苑の校舎を茜色に染め上げる。
遠くで後夜祭の準備をする生徒たちの楽しげな声がする。
涼やかな風が、オレの抉れた心を優しく撫でるが、それでも染みる。
オレは疲れ果てて、ベンチに腰を下ろし、首から下げた魔導カメラの重さを、ただ黙って噛み締めていた。
「……終わった。今日も全部、完璧に撮ったぞ。暁先輩も、剛先輩も、律先輩も、慧も、宵坂先生も。どの男とも、月詠は最高にいい雰囲気だった。もうすぐルートが確定して……いや宵坂ルートは確定してて。オレの使命は……」
──その時だった。
ベンチの向こう側から誰かが走って来た。
白いエプロンをつけて息をハァハァと切らせた、見覚えのない女子生徒。
オレと同じ、モブ生徒……
彼が、オレの前を素通りする。
モブ同士がすれ違う。
逆に言うと、モブたちがこんなにいる。
一度死んだ身だぞ。学生時代なんてとっくの昔だ。
オレには、この後に未来がある。
モブの走る音が遠ざかる。だが、そんなに長くは続かなかった。
10mか20m。
その辺りで立ち止まった。
そこから、声が聞こえた。
「 た、たけとりさん! お願いします! うちのクラスの模擬店の焼きそば、作りすぎちゃって大量に余っちゃったんだ! このままだと大赤字で、一皿だけでいいから、買ってくれないかな!?」
オレの目が、僅かに剥かれる。
たけとりと聞こえた気がした。
竹取……そんなわけ
「うんっ! いいよ、ちょうどお腹がすいてたところなんだ! 一皿もらうね!」
竹取月詠の声に聞こえた。
「あ、ありがとうぉぉーっ!! 本当に助かったー!」
少しして、女子生徒がオレの目の前を走り去っていく。
少しして、足音が近づいてきた。
「ここにいた! もう、探したんだから」
横の方から声がした。
横だ。そしてオレは漸く、モブに戻った。多分。
「寮に帰ったのかと思って探したんだよ」
オレは項垂れていた。
地面しか見えない。でも、左の端に茶色のローファー。
そして、白い肌、白の短いソックス。
「守部くんっ」
「え?!」
背筋がブチ切れるくらい仰け反った。
夕暮れの空にサファイアブルーの長い髪が揺れた。
「月詠……さん?」
月詠が立っていた。
ソースの香ばしい匂いが湯気を立てる、ごく普通の、少し冷めかけた焼きそばの紙皿を持って。
彼女はベンチに座るオレの隣へ自然に腰を下ろすと、割箸をパチンと割って、嬉しそうに目を細めた。
「ね、美味しそうでしょ! ね、守部くん! 一緒に食べよっか!」
「……え? いや、そういうのは」
「半分こしようよ! 守部くんも今日一日、重いカメラを持ってずっと私の後ろについてきてくれて、お腹ぺこぺこでしょ?」
月詠が差し出してくれた割箸を、オレは戸惑いながら受け取った。
なんで、ここにいる?
「うん……。冷めてるけど、それはそれで美味しいっ」
何度も心を抉られたのに、どうしている?
「守部くん。疲れてるんでしょ、だったら食べよ?」
「あ……うん」
どうして? 二人で並んで、一つの紙皿から焼きそばをつつく?
豪華な王族の紅茶でも、宮廷のお弁当でもない。
でも、口の中に広がる少し辛いソースの味が、冷え切っていたオレの胸の奥を、奇妙な温かさで満たしていく。
「ね、すっごく美味しいね、守部くん!」
口を動かしながら、彼女は言う。
夕陽の光を浴びて頬を赤らめて笑う彼女の横顔は、愛らしい。
ファインダー越しに見てきた、どのヒロインの表情よりも、柔らかく、あどけなかった。
気がつけば、オレの手は、首から下げていたカメラの革ストラップから、自然と離れていた。
(もう……いいよな。ここはもう、どのヒーローのイベントでもない。撮らなくていいんだ。今日はもう、公式記録係としての任務は十分に果たしたんだからさ……)
確かに。
ルートが決まっても、仕事は終わらない。
でも、一人のルートが決定したなら、ミッションは達成だ。
しかも、あちこち回らなくて良くなる。
もしかしたら、空いた時間で趣味でも見つけられるかもしれない。
写真部では……断じてない。
自分に言い聞かせて焼きそばを飲み込んだ。
すると月詠が不思議そうに、首を小首に傾げ、金色の瞳をオレに向けた。
「あれ? 守部くん、今は写真は撮らないの?」
「……え、ああ。未来ある若者の青春を記録する。今日はもう十分だ」
オレはカメラの頭を軽く撫で、うんと頷いた。
――その、瞬間だった。
月詠が、月詠の体がオレに押し付けられた。
オレの制服の袖口を、きゅっと掴んだのだ。
「もう。未来ある若者。次代を背負う若者なら、もう一人いるでしょ」
月詠の頬が、夕陽に照らされた。
だから、ほんとのところ、どうかは分からない。
でも、ほんの少しだけ、赤く染まったように見えた。
「前、一緒に写りたいって。い……言ってたよね。……こ、こうしたら、二人で一緒に撮れるん……じゃない……かな?」
――ドクンッ!!!
心臓が、喉から飛び出すほどの激音を鳴らした。
あの日、林間学校の最後の夜。
雨の祠の中で、眠っていると思った彼女に向けて零した。
絶対に言ってはいけなかった、オレの本音。
『一緒に写りたい』
彼女は、それを。
あの一言を、ずっと、心の奥で覚えていた。
月詠は、オレの手にある魔導カメラを、一緒に支えるように指を重ねた。
その直後、ぐるりとレンズの向きを、オレたち二人の方へと向けた。
肩と肩が、隙間なくぴったりと触れ合う。
呼吸が交ざり合うほどの『ガチ恋距離』。
彼女の柔らかいサファイアブルーの髪がオレの頬をすぐそばで掠める。
あの雨宿りの夜と同じ、花のような甘い香りと、温かな体温が、オレの全身を包み込む。
「い、いやっ! だって、月詠……それは……っ!」
「ちょっと画角がせまくて、上手く撮れないかもしれないけど。……でも、任務じゃなくて、大切な思い出でしょ?」
それはオレだけに向けた、最高に愛おしい微笑みだった。
こんなの、抗えるはずがなかった。
ゲーマーとしての理性も、モブとしての弁えも、世界滅亡という任務さえも
温もりの中で、全部が消え去っていった。
(……これくらい、いいよな。頑張ったし……たった一枚くらい。に……任務じゃない、ただの思い出。オレみたいなモブが、月詠と一緒のフレームに収まるなんて……罰が当たるくらい、贅沢すぎるけど……)
オレは、激しく震える自分の指を、シャッターの引き金へと押し当てた。
――カシャッ
茜色の夕陽と、小さなベンチ。
二人の体温を閉じ込めるように、魔導カメラの閃光が、落ちていく秋の空へ溶けていった。
◇
後日の写真部、部室。
オレは学苑の暗室で現像していた。
数日前の、あの魔法板の写真もそこに混ざっている。
オレは一人、ランプの光の下でじっと見つめていた。
自嘲の笑みが、自然と漏れた。
「…………ははっ。なんだよ、これ」
そこに写っていたのは
茜色の光を浴びて、
とびきり幸せそうに、
満月のような輝く笑顔を向ける、
竹取月詠の奇跡のような美しさだった。
「どうやったら、こんな風に撮れるんだよ」
隣に誰かはいる。いや、何かと言った方がいい。
オレは、画角から完全に端へと見切れ、
しかもシャッターを押した瞬間の激しい手ブレによって、
誰の顔かもわからないほどの『滲んだ残影』になっていた。
結果として、
その写真は誰がどう見ても、
『月詠だけの、優しく微笑む最高のソロショット』にしか見えなかった。
「……まあ、当然だよな」
オレは、その失敗作の見切れた写真を見て、もう一度苦笑いを浮かべた。
でも、
「逆に……良かった……か」
竹取月詠のソロ写真。
誰がどう見てもそうなのだけれど、
オレだけは、何かがオレであると知っている。
──オレにだけ分かる、竹取月詠と守部弥彦のツーショット写真。




