第31話 月と学苑祭・5
終わった。
もう、終わった。
あのヒロインは、オレが写真を撮らなくても、イベントスチルに並べなくても、勝手に誰かと結びつく。
あの勢いだ。二年生になる前にゴールするかもしれない。
「……月詠さん。オレ、もう帰……」
暮小路慧が主催する8mmフィルムの映画館──という看板。
その前で暮小路と別れて、オレはゆっくりと歩き出した。
竹取月詠はもう大丈夫。あんなに好かれているなら、何の心配もない。
オレが少し冷えた廊下を歩き出した、その時だった。
「守部くん、こっち」
「え? いや、オレは」
サファイアブルーの髪が舞う。
月詠が突然、オレの手首を強く握った。
「来て」
東雲暁の王道サロン、真昼剛の熱血道場、夕星律の演劇部、そして暮小路の映像部。
四人のヒーローたちの展示を無事に巡り終え、時刻はすでに午後の深い時間へ差し掛かっていた。
「だから、帰るって」
「ダメだよ。守部くん、さっきから調子が悪そう……」
「調子が悪いから帰るんだって」
確かに気分が悪いが、意味が分からなかった。
気分悪いにも程がある。
恋愛イベントの過食。
もう、いろんな意味でお腹いっぱいだ。
だけど、視線を切ることが出来なかった。
「寮に帰っても何もないよ。ちゃんと先生に診てもらお?」
「……え?」
オレは額を叩いて、崩れ落ちそうになった。
だが、それも逆効果で月詠の実は力持ちに支えられる。
「私も、自分の部活のお手伝いに行かなきゃだし、気にしないで」
そうだった、忘れていた。
最初の部活選択で、彼女は魔術特別講師・宵坂千秋が顧問を務める、学苑で最も怪しげで怠惰な部活動――『魔術研究部』に入部していた。
(他のヒーローたちは行事の中でのイベントだけど……宵坂に関しては、そもそも顧問と部員。アドバンテージがある。……クソッ、なんだそのずるすぎる既得権益は……なんて言えない。そしてやっぱり魔女かよ)
黄金の瞳に魅入られると、何も言えなくなる。
真昼剛のプレッシャーとも違う、何か。
そのままオレは、五人目のヒーローが待つ、魔術研究特別教室に連れて行かれた。
◇
旧棟の最奥にある、薄暗い特別教室。
そこに掲げられた看板には、『魔術研究部特設展示・宵坂千秋の幻影魔術劇場』という優雅な筆記体が記されていた。
「――失礼しまーす! 先生っ! お手伝い……の前に、守部くん、調子が悪いみたいで……って!」
扉を開けた月詠が、早速呆れたように腰に手を当てた。
甘いお香と魔薬のような神秘的な香りが漂う薄暗い部室の中央。
アンティークの大きな革張りソファの上で、白衣をだらしなく着崩した宵坂がいた。
その長い脚を投げ出して、気持ちよさそうに寝転がっていた。
「……おや。騒がしいと思ったら、愛らしい唯一の部員くんが来てくれたのかい」
宵坂先生は怠惰に片目を細め、眠たげな色気を漂わせながらゆっくりと身体を起こす。
そのはだけた白衣の胸元からは、大人の男ならではの鎖骨と精悍な首筋が無防備に覗いている。
「先生っ! 起きてください。守部くんが」
「守部が?」
その瞬間、イケメンの視線がオレのモブ顔に刺さった。
一人だけ、ヒーローの条件からはみ出した男。
オレの魔導カメラを嫌う時の視線だ。
だが、普通だ。他のヒーローが写真に写りたすぎる。
いや、そもそも。
磯野教頭に、未来ある次代の生徒の姿を、と言われているから、その通りなんだけれど。
「オレ……大丈夫! 月詠さん、大丈夫だった。ほら!」
「え?!」
脊髄反射とばかりにオレは直立に立ち、二度三度と飛び跳ねて見せた。
月詠は満月のように瞳を丸くするが、やはり心配そうに言う。
「無理しないで。ずっと、調子悪そうに」
「疲れてただけ。もう治った」
「だーめ」
ただ、救いの手はまさかの方向から飛んできた。
「はぁ……竹取君。疲れるのが普通だ。普通は君たちと同じではないんだ」
「そ……そうなんです?」
「魔力の総量が違うんだ。それに守部は魔力でカメラを使う。彼の行動を考えたら分かるだろう」
そしてまさかの普通だった。
オレは素直に首肯して、一歩二歩と下がる。
「えっと……そか。なら、守部くん。私たちの展示を見て行かない?」
「……え」
だがどうやら、オレの演技も、宵坂の普通の反応も、無駄だった。
「竹取くん。この展示はボクの魔力で幻影を流すだけのものだから」
「でも、せっかくだから」
結局始まってしまう、宵坂劇場。
オレは仕方なく、部屋の隅へと移動した。
「……うちの可愛い部員くんも、彼のように働きすぎて疲れてしまったら、顧問としてのボクの責任になってしまう」
「大丈夫ですよ。私は普通じゃないので」
立ち上がった宵坂は、月詠へと、音もなく滑るように歩み寄った。
何気なく、体を触る。
オレの奥歯がギリリと軋む。
同じ一年生の暮小路や、不器用な先輩たちとは根本的に違う。
この男は、普通に優しくする。
それが魅力なんだろう。
大人だから、どうすれば自分を頼り、どういう距離感で接すれば相手が意識するかを、理解しているのだろう。
「――なら、竹取くん。少し、ボクの最新の幻影魔術の試運転を見ておくれ。ついでに君も」
「はい」
「…………」
宵坂が長い指先をすっと持ち上げ、虚空で優雅に指を振るった。
その瞬間、暗い部室の中に、極彩色の光の幻影が一斉に舞い散った。
青い幻想的な蝶、舞い散る黄金の花びら、そして宙を泳ぐ光の魚たち。
それらが月詠の周囲をぐるりと囲み、まるで夢のおとぎ話の世界へと迷い込んだかのような神秘的な空間を作り出す。
「わあぁっ! すっごくきれいです、宵坂先生! 本当に夢の国にいるみたい……!」
「ふふ、気に入ってもらえたかな。……でも、ボクの幻影魔術は少しばかり魔力の濃度が高くてね。君のような無垢な子どもには、少し刺激が強すぎるみたいだ」
「あ……っ」
宵坂の言った通りになった。
月詠が小さく吐息を漏らし、ふらりとその場に足元をふらつかせた。
密度の高い魔導の香りと光の粒子に当てられたらしい。
崩れ落ちそうになった彼女の細い身体を、宵坂先生の長い手が、迷うことなく、がっちりと抱き止めた。
「――おっと。危ない、月詠」
「せ、先生っ? なんだか、急に頭がぽおっとして、身体が熱くて……」
――カシャッ
宵坂先生はそのまま月詠の腰を抱き寄せた。
部室の奥の壁際――
幻影の光が最も濃く集まる死角へと、彼女の身体を優しく追い詰める。
背中を壁に預けさせられ、熱っぽく潤んだ瞳で上を見上げる月詠。
――カシャッ
その目の前に、白衣を着崩した大人の男が、両手をついて彼女を完全に閉じ込めた。
そこでスッと身を退いた。
「君の魔力も不安定になっているよ。血気盛んな坊やたちのブースを回りすぎたせいで、熱でも出たのかな?」
宵坂は、普段の怠惰な笑みを消し、長い指先で月詠の顎をそっとすくい上げた。
「……顔が赤くて、とても熱そうだ。ほら、動いちゃダメだよ。先生が、熱を測ってあげよう」
「えっ? せ、先生っ? 熱を測るのは……わた……しじゃ……」
固まる月詠の抗議すら甘く封じ込める。
宵坂先生はゆっくりと顔を近づけ――
――カシャッ
互いの前髪が重なり合い、吐息と吐息が触れ合う極限の間合いで止まった。
「……うーん、やっぱり熱いね。このまま君を外へ帰すわけにはいかなくなった。今日の学苑祭の残りの時間は、ボクのこの特別室で、おとなしく先生に看病されていなさい」
「せ、先生……。 私じゃなくて。それに今のは……先生が、その、近すぎるからで……」
――ガラガラガラッ
オレの中で、完璧に何かが音を立てて崩れ落ちた。
( ふざけるなああぁぁっ!! なんだそのお持ち帰りコンボは!!何枚撮ったと思ってんだよっ!)
心臓が、嫉妬と絶望で今すぐ破裂しそうに痛んだ。
やはり、ちょろヒーロー。
いや、そうじゃない。
選んでいるのは月詠なのだ。
モブの男には絶対に許されない大人の特権階級の振る舞いを、この不良教師は完璧にこなしてみせる。
(……でも! ちょろヒーローが一番安全で、超絶速く、一番世界滅亡を回避できるルートなんだろっ!)
葛藤で頭が狂いそうになる。
究極の自己犠牲と嫉妬の地獄。
舞い散る極彩色の幻影の蝶。
薄暗い魔法の部屋の壁際で、大人の男が少女を逃げ場なく閉じ込め、甘く熱を奪い合う。
官能的で美しい、大人のイベントスチル。
それは世界滅亡回避と言う名の、拷問だった。




