第26話 何もない体育祭
十月。
運動するのに丁度良い季節。
大きなイベントがやってくる時期。
オレは奇妙な感覚に寒気を感じていた。
「…………」
いつものように守部のモブ制服で寮部屋から出る。
十月、そして第二週目のとある日。
「少し……頭は冷えたけど」
体育祭の朝は、少しだけ空気が乾いていた。
オレは俯いて、彼女を尾行した。
校庭にはカラーコーンとラインテープが並び、放送委員会の声がスピーカーから響いている。
クラスのみんなは自然と固まって動き、誰かが誰かを呼ぶ声が飛び交う。
月詠だけが、その輪の少し外側に立っていた。
「月詠……行こうか」
隣で綺羅星が短く言った。
理由を尋ねるでもなく、ただ同じ方向を向いている。
月詠は小さく頷き、二人で校庭の端、少し高い位置にある渡り廊下の下へ移動した。
「で、どうする」
「ええっと……」
そこからは競技のほとんどが見渡せる。
だが、誰の声援にも混ざらない距離だった。
そして、午前の部は淡々と過ぎていった。
校庭の熱気の中心では、宵坂を除く四人のヒーローがそれぞれの種目で目覚ましい活躍を見せていた。
眩いほどの存在感を放っている。
「僕を応援してくれる皆さんの笑顔こそが、今日の青空より素晴らしいよ」
東雲暁が、競技を終えた。
その足で、観客席の生徒たちへ公式イラスト級の完璧な微笑みを振りまく。
彼が優雅に手を振るたび、黄色い歓声が波のように押し寄せた。
「みんな、がんばってるね」
「あーね」
走っている者、跳躍している者、声を張り上げてチームをまとめている者。
どれも異様なほどに目立っていた。
「見ているか! 俺の勝利の瞬間、一つ残らず焼き付けておけよ!」
騎馬戦の先頭で緋色の髪を揺らす真昼剛が、熱気あふれるでかい声をグラウンドに轟かせる。
戦う自分自身の画に酔いしれるような熱量が、周囲を圧倒していた。
「……月詠は出ないの?」
「うん。ちょっと体調悪くて」
渡り廊下の下にいる月詠の視線は、誰か一人に長く留まることがなかった。
応援の言葉が喉の奥で引っかかったまま、出てこない。
「……騒がしいな。勝敗など興味ないが、僕が負ける姿を見るのは不快だろう?」
徒競走のスタートラインで、夕星律が面倒そうにため息をつきながら、緩めた襷を首元で涼しげに揺らす。
無関心を装いながらも完璧な走りを見せる彼に、また別の一群が声をからしていた。
因みにオレは二つある心の一つも、声をからしていた。
「……撮れ高が……ない」
九月の紅葉がりで、五人すべてのイベントを進めてしまっていた。
あのとき選ばなかった分岐。
分岐など存在しなかったように見えた。
まさか、錦秋の遊山までもが、リレー形式になっていたとは。
誰に対しても平等に楽しく過ごしてしまった結果。
今の月詠には──誰かを特別に応援する理由がなかった。
でも、月詠は気にしてない。
皆が見てくれる、守ってくれる。
その中に、オレは……
「おやおや、予想通りの展開ですね。全ては私の掌の上……ふふ、存分に楽しませてもらいますよ」
団対抗の競技で、暮小路慧が細目であたりの状況を俯瞰し、的確すぎる指示でクラスを勝利へと導く。
まるで盤面を見下ろすかのような余裕が、そこにはあった。
「ホッとしてんなよ、オレ……。九月の分岐、完全にミスった」
「うるさいよ、ストーカー」
綺羅星は男を睨んで、月詠は隣で黙っていた。
ただ校庭全体の『流れ』を眺めていた。
◇
午後になっても状況は変わらなかった。
オレは怖くなって、ストーカーを止めて、ウロウロと変質者となった。
周囲のクラスは声をからして応援し、手を叩き、名前を呼ぶ。
月詠と綺羅星のいる場所だけが、異様に静かだった。
誰もこちらに「もっと声出してよ」とは言ってこなかった。
それが自然なことのように処理されていく。
「やれやれ、みんな元気がいいね。怪我だけはしないでくれよ、特別な君たちは」
救護テントの前で白衣の袖をまくった宵坂千秋がいた。
相変わらず、気だるげな色気を漂わせながら、熱狂する生徒たちを年上の余裕と疲れの混じった目で見守っていた。
「トップ独走のちょろヒーローなら……でも」
◇
閉会式が終わり、整列が解けた瞬間、校庭は一気にざわめき始めた。
人波が散り始める中で、一人だけ明らかに焦った様子で動いている人物がいた。
オレだった。
鞄を抱えたまま、あちこちに視線を走らせる。
誰かを探しているような、あるいは何かを急いで確認しているような
そんな空虚な素振りだった。
「なんでまだ誰も個別イベントのフラグが立ってないんだよ!」
世界の破滅を恐れる片方の心の焦燥が、その足取りからにじみ出ている。
綺羅星がその様子を、怪訝な目でじっと見つめた。
あのカメラマン、誰を月詠に近づけたいわけでもないくせに、一体何を知って焦っているの——そんな探るような、低い声が月詠の耳にも届いた。
「……なんで、あいつ、そんなに焦ってるのよ」
答える者はいない。
オレは焦っていて、気づいていなかった。
だって、本気で焦ってたのだ。
頭の中をぶちまけて、イベントスチルを整理したい気分だった。
「え? 守部くん、焦ってるの?」
オレを気遣う有難い言葉も、耳に届かなかった。
何もないと知ってても、何かないかと足早に移動していた。
ただ、ここで。
オレは振り返った。
運命とか、そういうイベントとか、そんなんじゃない。
オレから言わせると、全員が化け物で、あんなに弱弱しい月詠だが、中身は本物だ。
彼女の暖かな圧を感じて、振り返った。
そして月詠は、オレの焦りを別の意味に取った……らしい。
「守部くん! 写真! まだ、間に合うよ!」
思わず上がった声に、オレの肩が跳ねる。
守部の制服が、動きがぴたりと止まった。
写真部としての記念撮影に遅れそうになっている、と理解したらしい。
これには、苦笑いが浮かんだ。
(オレが撮りたいのは普通の記念写真じゃない。月詠がいなきゃ、撮る意味がないんだ……なんて言えないし)
「そ、そか。まだ間に合うか」
オレは諦めたように、魔導カメラを取り出した。
そして、ヒーローたちが他の女子生徒たちにちやほやされている構図を、雑にカメラに収めた。
誰の特別でもない、ただの群像劇の一部としての画。
シャッター音は小さく、すぐに人混れに飲まれた。
「良かったね、守部くん」
「あ……うん。ありがと」
「ううん。私も見守ってるからっ!」
胸が、心臓がぎゅっと痛い。
九月とは違う種類の痛みだった。
オレはそれ以上何も言わず、苦笑いを残したまま、少しだけ離れた。
月詠は手を下ろしたまま、その背中を見送った。
綺羅星は何も呟かなかった。
オレの不自然な行動の裏にある「何か」を、冷めた頭で計算し直すかのように。
ただ、最後に彼女は、綺羅星は独り言ちた。
オレに聞こえるように
「あー。そういうこと、ね」
「キラちゃん?」
「ううん。なんでもない。月詠、帰ろ」
校庭に残っていた熱気だけが、ゆっくりと冷めていく。
「うんっ」
十月の体育祭は、十月は、それで終わった。
◇
寮への帰り道も、何もなかった。
男子寮と女子寮の分岐点。
月詠は柔らかな笑みでオレに手を振った。
その一方で、彼女はマゼンダの瞳を半分くらい隠して、息を吐いた。
「次は文化祭ね。また、話しましょ。守部のことも調べておこうかしら」
「キラちゃん、行くよー!」
そう言って、彼女はオレに背を向けた。
「……オレ? アイツだって」




