第25話 紅葉遊山と、二つの心
あっという間に、九月下旬になった。
皇華高等学院の広大な敷地と裏山は、見事な真紅と黄金の錦秋に染め上げられていた。
学苑伝統の秋季行事――『錦秋の遊山』
生徒たちがペアやグループで美しい紅葉の庭園や山道を重箱を持って散策する。
恋愛ゲームにおいて最も甘く、そして個別ルートの決定的な分岐点となる一大イベントである。
「――聞け、オレ。聞け、守部弥彦」
オレは、首から下げた魔導カメラのグリップを握り締めた。
「冷静になれ」
オレの仕事は、若者たちの楽しい学生生活を記録することだ。
「青春を諦めろと言ってるんじゃない。先にやることがあるだろ、と言っている」
中の人のもう一つの仕事は、月下の約束の一つのルートを踏ませないことだ。
ヒロイン竹取月詠と、五人の攻略対象の誰かをくっつけることだ。
「……ゲームだぞ。そもそも、月詠だけが女じゃないんだぞ」
だが、オレの胸の中には、今、『二つの心』があった。
◇
現れたのは、真っ赤に燃える大楓の木の下に立つ、第一王子の東雲暁だった。
「――どうしたんだい、我が姫君? そんなに足元ばかり見ていては、もったいないよ」
「あ、あの……暁先輩。今日のお着物姿、とっても素敵で……その、あまり直視できなくて……!」
普段の制服とは違う、格調高い古代紫の秋の正装に身を包んだ暁と、秋色の可愛らしい袴姿の月詠。
暁は優雅に一歩進み出ると、戸惑う月詠の白い手を取り、自分の方へと引き寄せた。
二人の距離が、吐息の混ざり合う位置まで急速に縮まる。
「この美しい紅葉を見上げようとしたけれど……僕には、無理なようだ」
暁は、王者の名に恥じない甘い瞳で月詠を見下ろし、囁くように言った。
「どんなに色鮮やかな紅葉よりも、今、僕の目の前でぽっと赤く染まった君の頬の色の方が、遥かに美しく、僕の心を奪って離さないのだから」
「あ、暁先輩……っ! そ、そんなこと言われたら、私、もっと恥ずかしくて……」
真っ赤になって下を向く月詠。
そのあどけなく恥じらう姿が
──たまらないほど愛おしく、可愛い。
その赤らめた頬を、その素直すぎる恥じらい。
あざとさを感じさせない、愛らしさ
(オレは……。カメラのファインダーの向こう側から、それを見てる……)
胸の最深部で、心が鋭く悲鳴を上げる。
だが、オレのもう一つの心が、その痛みを無理やりねじ伏せる。
相反する二つの激しい感情が、ファインダー越しに二人の光と影を、恐ろしいほどの解像度で捉えていた。オレの指が、震えを殺して引き金を引く。
――カシャッ
切り取られたのは、真紅の紅葉が舞い散る中、美しき王子の優雅な甘言に、頬を熱く染める少女の絶品の一枚。
王道ラブストーリーのポスターそのもの。
完璧すぎる芸術スチルだった。
◇
続いて、落ち葉が絨毯のように敷き詰められた裏山の岩場コース。
そこにいたのは、燃える緋色の短髪を揺らす武門の嫡男、真昼剛だった。
「――おっと! 危ねえぞ月詠、ここは岩が滑りやすいんだ!」
「きゃっ……! あ、ありがとうございます、剛先輩!」
ドジっ子なのか、足場をくずしそうになった月詠。
彼女の腰を、剛の丸太のように太くたくましい腕が、強引に、しかし絶対に傷つけないという優しさでぐいっと抱き寄せた。
彼の分厚い胸の肌肉にすっぽりと包み込まれ、月詠の体がぴったりと密着する。
「あいっかわらず、ドジだな! 心配で、目が離せねえんだよ」
「つ、剛先輩っ! すみ……ません」
「気にすんなって。ほら、立てるだろ?」
恥ずかしそうに胸板を見上げる月詠に向かって、剛は男らしく爽やかな歯切れの良い笑みを向けた。
「めんどくせぇけど、遠慮はするなよ! 俺がお前を守り抜く騎士なんだからよ」
「き、騎士だなんて……。でも、その時は……本当に頼りにしてます……」
包容力に満ちた男が垣間見せたはにかみ顔。
月詠の瞳がとろけるように和らいでいく。
俺はお前を守る騎士だ、と宣言されるなんて
今の月詠にとって、どれだけ支えになっているのだろうか。
彼女の愛くるしい笑顔に、オレの胸が焼けるように疼く。
(剛なら、守れるんだろう……な。絶対に月詠を危険な目に合わせない。オレみたいな非力なモブよりも……)
嫉妬の炎を、無理やり『安心感』という理由で鎮火させる。
心が流した血が、そのままレンズのピントの鋭さへと変換されていく。
――カシャッ
秋の陽光の中、豪快で頼もしい熱血騎士の腕の中で、安心して頬を赤らめる少女。
あの月詠の生き生きとした生命力に満ちた、熱気あふれる最高の一枚だった。
◇
午後。澄み切った水面に紅葉が映り込む、静かな湖畔のスポット。
月詠と向き合っていたのは、宮廷魔術師のサラブレッド、夕星律だった。
「……動かないで、月詠。君の髪に、余計な落葉がついているよ」
「えっ? あ、律先輩、自分で取ります……!」
「いいから、じっとしていて。僕の手で取らせてほしいんだ」
律の長くて美しい指先が、月詠のサファイアブルーの髪にそっと触れ、張りついていた赤い紅葉を優しく摘み取った。
落葉を取った後も、彼の指先は髪を愛おしむようにすべる。
そのまま月詠の頬の輪郭へ、とそっと添えられた。
冷気と神秘をまとう薄紫の瞳が、至近距離で彼女を閉じ込めるように見つめる。
「……他の誰にも、君に触れさせたくない。僕だけが、君をこの美しい魔術の結界の中で、永遠に隠して守っていたいんだ」
「り、律先輩……あの……近……」
「……大丈夫だよ。今は二人きりだし。月詠、君の力は──」
普段のクールな彼からは想像もつかない強引さだった。
独占欲と妖艶さを帯びた低い囁きに、月詠の喉がこくっと鳴る。
(近いっ! オレがここに……違う! 何を考えてるんだ、オレは! オレは背景だ! 紅葉にも劣る、ファインダーに入れないモブだぞ!)
胸を強く叩き割られるような強烈な独占欲と嫉妬。
それでも、オレの指はプロの記録係としての本能を見失わなかった。
この神秘的な過保護キャラこそが、このイベントこそが、魔術師ルートの最も重要なフラグかもしれないから。
――カシャッ
水面に映る逆さ紅葉と、金色の魔法の粒子に包まれる。
冷徹な魔術師がただ一人の少女へ執着の視線を向けた、幻想的で官能的、ある意味で悪魔的な一枚が切り取られた。
◇
少し開けた芝生の休憩広場。
お弁当の重箱を広げた野点の席。
月詠と微笑み合っていたのは、同じ一年生で次期宰相候補の暮小路慧だった。
「ふふ。君にまさかそのような才能があったとはね」
「むぅ。暮小路くんが言うと嫌味に聞こえるぅ」
「そんなことはない。そ……その美味しそうなお弁当、私にも少し分けていただけませんか?」
「え? う、うんっ! ぜひ食べて、暮小路くん! 私、朝早くから一生懸命作ったんだよ!」
慧は、伊達眼鏡の奥の黄昏色の瞳を柔らかく細める。
月詠が自然と腰を起こし、頭と頭が触れ合う距離。
彼女の箸が卵焼きを乗せて、慧の口に運ばれた。
――カシャッ
「……うん、とても美味しい。今まで食べたどんな宮廷料理よりも、君の優しさが伝わってきます」
「えへへっ! そう言ってもらえると、すっごく嬉しいな!」
すると慧は懐紙を取り出した。
月詠の口元についていた小さな屑を、恋人同士のように自然な手つきでそっと拭った。
「こんなふうに、他の皆さんの干渉を排して、君と二人きりでこの美しい秋を味わえる。私にとって何よりの特効薬です。……私にとって君は、すでに計算外の、誰にも譲れない特別な存在ですから」
「も、もうっ……暮小路くんにそんなに真面目なお顔で言われると、なんだかすごく照れるよ……。暮小路くん、がんばりすぎだよ」
等身大の同級生ならではの、和やかで、それでいて甘酸っぱい空気感。
(お口であーんって、それはもう……だろ。い……いい雰囲気じゃない。安定感も未来も、これ以上ない優良物件……)
切なさと諦めが、ファインダーの中の時間を優しく止める。
木漏れ日の下、恥ずかしそうに口を開ける知的な少年と、箸で卵焼きを摘まんだ純朴な少女。
優しい青春の結晶のような、温かい一枚が焼き付けられた。
◇
そして
――夕暮れの気配が少しずつ混じり始めた。
紅葉の木立の奥深くに佇む静かな東屋。
最後に見つけたのは、白衣をだらしなく着崩した魔術特別講師、宵坂千秋だった。
「……おや。どうしたんだい、月詠くん。そんなに赤い顔をして立ち尽くして」
「よ、宵坂先生……! あの、ここはの休憩場所でしたか……?」
紅葉の舞い散る東屋の中で男が、ゆっくりと立ち上がった。
宵坂は普段の怠惰な色気を漂わせながら、月詠の目の前まで歩み寄る。
甘く危険な距離感で彼女を追い詰め、月詠の細い顎に長い指先をすっと添えて、優しく上を向かせた。
「秋の山風で、熱でも出たのかな? ……ほら、ボクが熱を測ってあげよう。動いちゃダメだよ」
「っ……!? 」
宵坂は、驚いて固まる月詠の額へと、自らの額をコツンと直接合わせるように顔を近づけた。
――カシャッ
吐息の触れ合う距離。
大人の危険なフェロモンと、包み込むような低音の囁きが響く。
「う……うーん。……や、やっぱり熱いね。ボクのところでおとなしく看病されていなさい」
ヒロインが完全に大人の男の手のひらの上で翻弄され、甘く抗えない羞恥に赤面している。
宵坂の視線が僅かにズレる。
「血気盛んな坊やたちには、君は刺激が強すぎるようだからね」
「か、顔が熱いのは……、その、近すぎるからで……」
く……そ……
――この男は、ダメだ。
ゲーム内で最多のイベントスチルを誇る、最強の大人の男。
月詠はこんな男に!
完全に心を奪われてしまう!
(……じゃなくて! それが、一番安全なルートなんだろ……。 この人が一番スチルが多くて、世界滅亡を回避できる最高の納期クリア対象なんだ! なら……喜べよ!)
男として、腹の底が煮えくり返るような強烈な拒絶。
観測者として、彼女と世界の未来を、一番ちょろい男へと託そうとする自己犠牲。
二つの心が限界まで軋み合い、火花を散らしながら、オレは魂の全部を指先に込めて引き金を引いたのだ。
(ちょろ男がよ! オレを睨んでんじゃねぇよ!)
舞い散る真紅の紅葉と、圧倒的な大人の妖艶さ。
それに囚われ、抗えない魅惑に頬を燃やす美少女。
このゲームの最高峰とも言える、悪魔的に美しい芸術スチルが完成していた。
◇
その後、少し泣く……
泣きそうな時だった。
「……ちょっと、守部くん」
オレの背後から、ひんやりとした声が降ってきた。
振り返ると、綺羅星キラが、恐ろしいものを見るような瞳で、オレを見つめていた。
「な、なんだよ、綺羅星。オレは泣いてなんか……」
「あたしも泣きそうだよ。今日、あんたの写真の腕……ヤバくない?」
キラはそう言って、オレの魔導カメラを覗き込んだ。
現像はまだだが、サムネサイズの構図は確認できる。
「東雲の王者の輝きも、真昼の熱気も、夕星の神秘も、暮小路くんの穏やかさも……そして、あんたがお気に入りの宵坂の色気も」
そこで彼女は、感嘆と疑惑が入り混じった溜息を漏らした。
「月詠の最高に可愛い恥じらいと完璧に噛み合ってて……。完璧すぎ。泣きたくなるくらい美しいんだけど」
オレは唇を自嘲気味に歪めた。
「……ただの、紅葉の景色と被写体の顔面偏差値がいいからだ」
「へぇ……。そう……なのかな。まぁ、いいか。ただ、ここまで全員の最高のスチルが揃っちゃうとさ……」
マゼンタ色の瞳が細められる。
遠くで他の女子生徒に囲まれる月詠を見やった。
「五人分……ね。月詠は、いったいこの秋で『誰』を選ぶの?」
歪んだ唇がもっと歪んだ。
へ……、と
「結局、誰が月詠の隣にいるの、守部くん?」
「いや……オレに聞かれても」
あれ……、と。
「それにそういうのを見るのは、綺羅星の仕事だろ?」
紅葉遊山は、分岐点。
だのに、肝試しと同じ道を辿っていた。
「あたしの? あたしは誰に行っても、いいんだってば」




