第23話 寮の朝の光
八月の第一週。
夏を思わせる強い朝の光が、リネン色のカーテンの隙間から、柔らかく部屋の中へと差し込む。
「……ん……」
皇華高等学院・男子寮の自室。
守部弥彦、オレはいつもの硬いベッドの上で、ゆっくりと重い目蓋を押し上げた。
「これ……大丈夫なのか?」
窓の外からは豊かな自然の音。
遠くの木立で鳴く蝉の声と、さわさわと風が葉を揺らす音が聞こえてくる。
怒濤の波乱とトラブルに満ちた林間学校の夏イベントから、学苑の日常へと帰還した二日後の朝だった。
「ゆっくり休めてるけど……やっぱりおかしい」
無事に自分のベッドへ戻ってきた。
だのに、雨宿りをしていたあの古い祠での出来事が、残像のように頭の芯にこびりついて離れない。
氷のように冷たかった夜の森の雨。
雨粒に濡れて白い頰に張りついていた、サファイアブルーの長い髪。
驚いたように跳ね上がった長い睫毛と、満月のようにまばゆく輝いていた金色の瞳。
――そして、彼女が羽織り、その温かな体温と香りが染み込んでいた、オレの制服の上着。
オレは天井の木目をぼんやりと見つめたまま、大きく、深く息を吐き出した。
「林間学校が途中キャンセル。ヤバいのに、それよりも」
あの夜の記憶が、鮮烈な熱を伴って脳裏に蘇る。
激しい嵐の中、雨音が祠の石屋根を優しく叩いていた。
オレの上着を肩から被り、目を閉じて眠っているように見えた彼女。
――竹取月詠を見て、オレは決して考えてはいけないことを、考えてしまった。
そして口にもしてしまった。
彼女が背負う孤独な過去。
制御できない力のことを。
一人で怯えていただろうという、観測者にあるまじき同情と想い。
その全部を、口にしてしまった。
『――そっか。イベントスチルを撮る魔導カメラは、守部くんにしか使えないもんね』
彼女は全部、聞いていたのだ。
あの時、胸の奥で高く跳ね上がった心臓の音が、今この静かな部屋でも再放送のように響き渡る。
あの一瞬で守部弥彦は、
竹取月詠という一人の女の子に、悪あがきしようのないほどに恋に落ちた。
「常識的に考えて、そうなんだよな……。みんなが好きになるんだぞ。モブが、オレが影響を受けないわけが……」
オレはベッドの上で起き上がり、両手で顔を覆った。
掌に触れた自分の頰が、火が出るほど熱い。
枕元に脱ぎ捨ててある制服の上着から、彼女の髪から漂っていた花のような甘い香りが、まだ鼻の奥をくすぐっている……気がする。
洗ったらしいし、超撥水だから、多分残っていないだろう……けれど。
「ヤバい。気持ちが二つ……ある」
ゲームのヒロイン相手に、何考えてんだよ、オレ……!
世界滅亡という『納期』がかかってるんだぞ。早く誰かイケメンどもとくっついて、この世界を救えよ!
頭の中のゲーマーの理性が、必死に警報を鳴らす。
もう一人の自分が、今まで一度も吐いたことのない厄介な本音を突きつけてくる。
胸を締め付けるような自嘲とジレンマが、朝の光の中でぐるぐると渦巻く。
『ちゃんと守ってくれてるよ。守部くん、ありがと!』
昨日の話だ。
彼女は上着を丁寧に畳み、オレの両手へとそっと返してくれた。
その時、布越しに触れた彼女の白い指先が、ほんのわずかにオレの手の甲をかすめた。
それだけのことで、頭が真っ白になるほど心臓が跳ね上がり、呼吸すら忘れてしまいそうになった。
(月詠はやっぱ魔女だ。最初から起きてて……。しかも、オレの独り言を全部聞いてて、それでも『守ってくれてる』なんて言うのかよ……)
オレはベッドから立ち上がると、シャワーを浴びて新しいシャツに袖を通し、守部家の制服に着替えて、窓辺へと向かった。
「切り替えろー。き・り・か・え・ろ!」
窓を開けると、夏の爽やかな風が部屋の中を吹き抜けていく。
オレは窓枠に手をつき、はるか遠くに立ち並ぶ女子寮の方角へと視線を向けた。
今頃、月詠もあの部屋で目を覚ましているだろうか。
あの鮮やかなサファイアブルーの長い髪をブラシで梳かして
満月のような金色の瞳で、この同じ朝の光を眩しそうに受け止め
学校の準備をしているのだろうか。
「……今日からまた、撮影か」
オレは自嘲気味に口角を上げた。
やるべきことは分かっている。
頭の中のイベント宮殿に、写真が貼りつけられている。
その写真の経路をなぞる為、机の上に置いてあった魔導カメラを手に取った。
僅かに顔を傾げて、慣れた手つきで首から下げた。
ずしりと首に食い込む革ストラップの重みが、オレの現実であり、この学苑での役割だ。
「学苑公認の公式記録係――そして、世界滅亡を回避するための観測者」
今日からもまた、五人のヒーローたちを見続ける。
そして、月詠が織りなすメロい恋愛イベントを、ファインダー越しに追いかけ続けなければならない。
それが守部の仕事であり、この乙女ゲームをハッピーエンドへ進行させるための、正しいルートなのだ。
でも
「でも、とかない。考えるな。オレは守部の人間だ」
ファインダー越しに見つめる彼女の笑い顔が変わって見えやしない。
イベントスチルカメラマンは、カップルを応援する存在の筈だ。
レンズの表面をクロスで優しく拭きながら、オレは部屋の扉を開ける。
その直前、誰かに言い聞かせるように小さく呟いた。
「――早く告れよな、ヒーローさんたち。オレは……写真に映らないモブなんだ」
理性の鍵をかけて、外に出る。
そして、オレの心の最深部は出てはこない。
雨宿りの祠で見た彼女の濡れた横顔と、あの金色の瞳が、どうしようもなく心の奥に居座ったまま。
◇
学苑の屋上。
オレ――守部弥彦にとって、唯一世界を俯瞰できる定位置だ。
視界の端には、相変わらず広がり続ける夏空が映っている。
茹だるような熱気と、肌を焦がす太陽。そして相変わらず暑苦しい制服。
それとは裏腹に、今年の夏はどこか奇妙なほど静まり返っていた。
(おかしい……本当に、どうなってるんだ?)
オレは無意識に、祠の一枚を、頭の中のファインダーがなぞる。
だが、それと同じくらい、今の学苑の「静けさ」が喉元に刺さっていた。
肝試しでノリノリだった男たちが見えない。
夏イベントが終わった途端に、完全に沈黙している。
「デートイベントが多発するはずの夏休み後半だ。通常なら、どこかの攻略対象が月詠を連れ出して、とか」
オレはそのイベントスチルを回収するために見張っている。
汗だくで学苑中を駆けずり回っている筈だった。
一応生徒の姿はある。
一応教師の姿もある。
数人の生徒が視界の端で喋っているか、本を持って歩いている。
だが、イベントの予兆はない。
「八月……」
カメラを構えて待機していても、風の音しか聞こえない。
「八月は……授業は休み……。まさか、全員が帰省……してるのか?」
オレは屋上のフェンスに寄りかかり、溜息をついた。
攻略対象の王子様も、武門の嫡男も、魔術師も、宰相候補も。
誰もかれもが、月詠に対して行動を……いや。
「月詠がデートの約束をしていない。えっと確か……」
ドクン……そして、ズキン……
太陽のせい、熱射のせい、それとも。
オレは頭痛と立ち眩みで、ぱたりと倒れた。
石造りの屋上。午前じゃなければ、背中が焼けていたかもしれない。
倒れたまま、頭を抱えた。
(月詠はみんなのことが大好き……。友達としてって感じだよな。ならさ、ゲームシステム無視して、誰かが告れって。そしたら、この泥沼のハーレムから解放されて、オレの気持ちも世界も、救われるんだ)
だのに、何も起きない。
カレンダーの数字だけが容赦なく削られていく。
次の日も——その次の日も——
八月が、まるで砂時計の砂が落ちるように、消えていく。
オレは屋上に意味もなく通い続けるしかなかった。
カメラのシャッターボタンに指をかけたまま、空の彼方を睨んだ。
(……この静けさは、嵐の前の静けさじゃない。何かが決定的に、壊れているんじゃないのか?)
首から下げた魔導カメラの感触が、いつもよりも少しだけ冷たく感じられた。
夏が終わる。
このまま、九月を迎える。
「もしかして、オレがバグったから。システムがおかしくなった……とか。それなら……それで」
この感情こそが、最大の「バグ」になるのかもしれない。
そんな予感を振り払うように、オレはカメラを高く掲げ、空に向けて一度だけシャッターを切った。
――カシャッ
切り取られたのは、どこまでも青い、何もない虚無のような夏の空。
「なわけない……。六人目が来ないとかは、多分……」
体が火照る。頭が痛い。
防水加工とは言え、どうやら本気で風邪をひいてしまったらしい。
オレはベッドに戻って——
一年目の八月が呆気なく過ぎ去っていった。




